あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

スペイン風邪と再婚

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P60~P62抜粋


 私の父親はスペイン風邪で1918(大正7)年に亡くなりました。私は0歳でしたから父の記憶はありません。スペイン風邪はこの年の春から世界中で流行し、翌年には収束したようですが、その間に日本で約40万人、世界中では約2500万人が死亡したといわれています。

 父は農家の三男でしたが、亡くなったのは家を造ったばかりのときでした。23才だった母は新しい家もできたばかりで、幼い私と住む気でいました。しかし内装もまだで、里が近かったため、「所帯道具が揃うまで帰ってきておれ」ということで実家に留まっていました。当時は民法上、戸主権というものがあって長男絶対でしたから、三男の未亡人の分家についてはいろいろと難しかったのだと思います。財産分与もなく、母と私はそのまま里にいることになりました。

 母の実家の跡取りが末の男の子でした。まだ嫁をもらう前に私の母と、叔母にあたる人が「出戻り」となり二人が帰ってきました。だから家になかなか嫁が来ない。ちょいちょい話はあっても、小姑になる姉が二人もいるから崩れるわけです。叔母は母の妹ですが、子供がなかったから間もなく再婚しました。ところが母は私がいますから、簡単にはいきませんし、自分でも独立の意志をもっていました。

 「この子は男の子だから、私はこの家で暮らす」と、母はずいぶん頑張ったようですが、「財産もないし生活の見通しが立たんから再婚してくれ。そうしないと家を継ぐ弟に嫁が来ない。このままでは家がつぶれる。この子は家で育てるから、再婚して出ていってもらいたい」と両親から迫られました。それで母も家のためにどうしても再婚しなければならなかった。当時は今とは違って家のためです。それが母親と離れ離れになった経緯です。

 母の再婚は私が三歳のときでした。再婚先に先妻の子が三人いました。一番上が私より一歳上の男子ですから、まだ幼く、しかも実の子と同じ年頃ですから、母親の心中にはいろいろな思いが湧いたと思います。

 私は父親の籍ですが、育ったのは母親の実家で、祖父と祖母と叔父と暮らしました。母の再婚先は少し遠いということもあり、私は一度も行ったことがありませんでした。私たち母子の関係は別れたままになりました。母はそこで自分の子供、私にとっての異父兄弟を三人生みました。妹二人に弟一人でした。


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豆ごはん


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3合の白米を洗って炊飯器に入れ、3合の水加減にして、塩をひとつまみ入れて混ぜ、約200gのエンドウ豆を入れ、スイッチを入れる。

炊き上がってすぐの昼は左の画像のように白かったのに、夕飯では右の画像のように赤飯のような色になっていた。サカタの「つるありエンドウ豊成」という品種だが、去年の秋、グリンピースの発芽に失敗したので、エンドウを太らせてグリンピースがわりに使っている。



エンドウと厚揚げ炒め

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熱したフライパンに油を入れ、エンドウを先に炒め、続けて厚揚げを入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。




タマネギ、ズッキーニ、豆の煮もの

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鍋にタマネギのスライスとズッキーニの輪切りを入れ、水とダシの素を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして3分ほど煮て、豆とスナップエンドウを入れ3分ほど煮て、溶き卵1個を入れ、3分ほど煮て出来上がり。

ズッキーニは煮てもおいしい。
  




ヒヨコの遊び場拡張

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5月12日にはこのスペースでも広く感じたのに、2週間後の26日(昨日)には、囲いを飛び越えるようになったので、鶏舎の3分の1まで囲いを広げた。

後2週間すればこれも狭く感じるようになると思うので、囲いは取り払う。

まだ一羽の死もなく23羽(メス20、オス1におまけが各1で合計23羽)が全部元気である。



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光田健輔初代園長のこと

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P186~P194抜粋


 違憲国家賠償裁判後、よく「光田健輔とはどんな人ですか」と尋ねられるようになりました。私は園長と入所者という立場で、21年間ともに長島で居住していましたが、不思議と一度も診察を受けたことがなく、個人的に親しく話をしたことがありません。また、多くの方のように強制収容されたわけではなく、自ら願い出て入所した関係からか、光田園長に対し何の感情ももっていませんので、比較的客観的に見ることができるのではないかと思っています。

 光田園長は1876年(明治9年)に山口県防府市に生まれ、長州武士の薫陶を受けて育ち、生涯を自らの信念のもとに貫き通された人です。一言でいえば、「明治の気骨、老いの一徹」の人だと、私は思っています。その信念によって、日本のハンセン病事業を救済から強制隔離政策として推進させ、多くの患者とその家族を悲しませ、被害を与えた人となりました。

 公立療養所の設立によって、不治の病による貧困と病魔から多くのハンセン病浮浪者の命が救われたことも事実です。ハンセン病患者の中には、自分たちが高齢の今日まで生き延びることができたと、その功績に感謝している人も少なくありません。しかしまた晩年の国会における三園長証言は、すでに特効薬プロミンが顕著な薬効を示していたにもかかわらず、終生隔離という未曽有の人権侵害を基本にした「らい予防法」の成立につながったとして、裁判でも厳しく断罪されています。ですから「功罪相半ば」ということができるでしょう。
 
 1874(明治7)年、ノルウェーの細菌学者ハンセン博士が病巣かららい菌を発見され、世界の学者が競って研究に没頭しました。しかし、菌がたいへん弱く、ハンセン博士自身も培養ができないことは自分の力不足と反省の弁を著書に記していますが、現在まで純粋培養ができずにいるのも事実です。

 隔離政策はらい菌発見以前の1856年から60年にかけてノルウェーで大流行したとき、患者の禁足令と重症者の病院隔離によって鎮静化した実績から発想されました。1897(明治30)年「第一回国際らい会議」がベルリンで開催されて、ハンセン病は古くからいわれてきたような遺伝病ではなく、らい菌の感染から発病する慢性の伝染病であることが確認されました。そして治らい薬のできるまで患者は隔離することが安全であるという決議がなされています(山本俊一著『日本らい史』より)。

 このベルリンの国際学会に日本から東大皮膚科教授の土肥慶蔵博士、国立伝染病研究所長の北里柴三郎博士(北里大学創始者)のお二人が出席されています。当時、日本では外国の宣教師が路上に行き倒れになっている患者を、私財で病院を建てて救済に乗り出していました。静岡の神山復生病院、東京目黒の慰廃園、草津の聖バルナバ教会、熊本回春病院、同じく熊本の徒労院などです。外国の報道も、日本人は義理人情に厚い国民性と聞いていたが、困窮して行き倒れになっているハンセン病患者を放置していると伝えました。

 このような時期に医師となった光田健輔園長は、勤めていた東京市養育院(渋沢栄一院長)でハンセン病患者と出会い、「この世の中でこれほど悲惨な病気はない。自分は医師として、ハンセン病の治療と救済に一生をささげたい」と決意されたと聞きます。病理学を学ばれた光田園長は研究熱心で、その後、光田レプロミン反応という世界中で使用された検査法をあみ出しています。

 光田園長は持ち前の強引さでベルリンの決議を日本において強行してゆきます。10年後の1907(明治40)年、法律「癩予防ニ関スル件」を成立させ、2年後に府県連合立の療養所を全国5ヶ所に設立、「浮浪癩」の収容に乗り出しました。そしてその第一区として設立された東京全生病院の医長に就任します(後、院長)。

 1900年当時、医療衛生を管轄した内務省の発表では、登録患者数が30359人となっています。全国5療養所の総定員が1450床ですから焼石に水です。さらに実数は5万人とも10万人とも言われており、故郷を追われた患者は神社仏閣にたむろし、四国遍路などで行き倒れていました。

 そこで光田園長は渋沢栄一氏を始め政財界、学識経験者に呼びかけて、国立療養所設立による1万床計画を建議、推進しました。そして1930年(昭和5年)、初の国立療養所として長島愛生園の開設にこぎつけました。療養所としては破格の勅任官として初代園長に就任、以後、国の隔離政策の強力な推進役として尋常ならざる力量を発揮し続けました。

 園長の強引さを象徴させる私的なエピソードがあります。懐妊中の光田夫人に光田レプロミン反応注射をされました。らい菌を含む減菌した液0.1ミリリットルを注射すると、私たちハンセン病者は翌日には注射跡も消えますが、健常者にはニキビ大の赤瘢が残りメスでないと取れません。

 その時お腹にいたご長男が物心ついてからこの事実を知って、「自分は不要な子だった」と家出され、還暦まで絶縁状態だったということです。明治の人(長州士族に際立つ特徴かもしれませんが)の男性横暴、女性の従順さをうかがい知ることが出来ますが、光田園長の一徹な強引さが際立ったエピソードだと思います。

 1951年(昭和26年)は光田園長の生涯を集約するような出来事があった年でした。前年の朝日保健文化賞に続いて、この年、文化勲章を受章、1961年(昭和36年)にはダミアン・ダットン賞を受賞し、その功績が称えられました。この1951年に結成された全患協(現・全療協)は光田園長の文化勲章受章を祝って、全国の入所者から一人5円のカンパを募り記念品を贈呈しました。
 
 記念品は長島の自治会に一任されて、寝具一式を贈ったのですが、光田園長は「入所者がボロの布団なのに、私がこんな立派な寝具を着てはバチが当たる」と、床の間に飾り、来客があると、「患者さんが祝って贈って下さった」と、自慢されていたと言います。八十八歳で死去される三年前に脳軟化症になられると、ご家族の方が「患者さんのご好意を無にしてはならない」と説得し、ようやく着せられるようになりました。これも若いときの決意と精神を生涯貫かれたエピソードの一つでしょう。

 違憲判決の基を作ることになった三園長の国会証言が、同じ1951年(昭和26年)の11月のことでした。この証言が2年後の「らい予防法」の「改正」につながったと判決は指摘、激しく断罪しました。すでに国際的には在宅通院治療が一般化、隔離医療は特殊な場合に限られるようになっていました。それを1956年(昭和31年)のローマ会議は改めて正式に確認、世界は社会復帰の推進政策へと大きく転換していました。

 光田園長が退官したのはこのローマ会議決議の翌年、すでに81才という高齢でした。愛生園入所者の拠出金によって、今度は銅製の胸像が治療棟の入り口に再建されて、現在も立っています。その退官後、7年にして光田健輔は亡くなりました。

 光田園長の生涯を見て私は、人間は退き際が大切だと教えられます。人は齢を重ねると時代の変化に順応できなくなります。特に終戦を境に日本は国家として百八十度の転換をしました。私は終戦の玉音放送を聞いて、意味はよくわかりませんでしたが、間違った戦争に負けたのだと受け止めました。

 私たち入所者役員は患者でありながら、患者をわずか握り飯2個の支給によって、松根油作り、職員不足のための石炭の揚陸作業、用材の伐採、防空壕掘り等の重労働に徴用しました。間違った戦争に職員に代わって加担した、この肉体酷使によって病状を悪化させ、死者を増やした責任をとり、私たちは辞任を決めました。その経緯については、それを10月末までのばした経緯とともに前に記した通りです。

 このとき光田園長が私たち役員以上に、患者へ強制労働を強いたことの責任を感じておられたら、さらには勅任官として国家の戦争責任を感じておられたら、ちょうど古希の年齢にも当たっておられたのですから、別の評価があったのではないかと痛感します。2代目の高島園長は70才の定年制により退職、3代目の友田園長からは65才の定年制となりました。人の退き際の大切さを痛感します。

 光田園長は退官の翌年、長島を訪ねて来られ、「自治会の執行委員にお会いして謝罪したい」と申し入れて来られました。そこで8名が面会室で会い、私もその末席にいましたが、光田園長は「私は在任中、2つの罪を犯した。一つは遺体解剖で、遺族の合意もなく行った。2つ目は断種、妊娠中絶、堕胎を行ったことで、これは1940年の国民優生法の成立以前は違法だった。この2つの罪を謝罪しなければ、長島を去ることはできない」と言われて謝罪されました。

 私は入所して間もなく、同室の寮友が死亡して解剖されたとき、事務の方に誰の了解を得て行われているのかを質問したところ、「国費で施療した人には、その必要はない」との答えが返ってきました。そのときも半信半疑だったので、やはりそうであったのかと思いました。中絶堕胎については新憲法の公布後に優生保護法が成立、この中に伝染病として唯一、ハンセン病が含まれました。全患協は取消しを要求しましたが、拒否されたままでした。

 この光田園長の謝罪発言を聞いたのは僅かな人たちだけです。その後、伝聞として聞いた人はある程度いると思いますが、この謝罪の弁が多くの人たちが聞くことのできる公開の場でなされていたら、強制収容によって家族の断絶や崩壊といった被害に遭われた方や中絶、堕胎をされた方の気持ちも、その万分の一でも癒されたのではないかと思われます。


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ズッキーニ炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン2枚の細切り、ズッキーニの順に炒め、オイスターソースと醤油で味付けして出来上がり。



豆腐の煮物

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無水鍋に豆腐を置き、タマネギのスライス、スナップエンドウ、練り製品1枚を入れ、生姜1片をすりおろし、醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で出来上がり。



ダイコンおろし

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タマネギそのまま

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タマネギをスライスしてボールに入れ、ポン酢を入れて混ぜ、かつおぶしをふって混ぜて出来上がり。


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間違ったことを間違っていると言える人

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P20~P23抜粋


 「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年に大阪の御堂会館で、関西のFIWC(フレンズ・インターナショナル・ワークキャンプ)が「排除から共生への架け橋」というタイトルでフォーラムを開催しました。鶴見俊輔先生、徳永進先生(当時、鳥取赤十字病院内科部長)、筑紫哲也さんに元患者として森元美代治さんと私がパネリストに呼ばれました(木村聖哉さん司会)。そこで私はなぜこんなに予防法の廃止が遅れたのかという話をしました。そのときにはその後の裁判のことなど夢にも考えられない頃でしたが、その判決でも一番悪いのは厚生省の官僚だということが指摘されていました。

 誤っていることを知っていながら改めようとしませんでした。療養所の所長の会合でも誰も言いませんでした。これが日本のハンセン病の施策を全く間違えさせました。人の苦しみ、病人の苦しみやら家族の苦しみということを知っていながら、そのまま継続させることによって苦しみを増幅させたのです。ただ自分の地位と名誉の保全の為だったと、私は言いました。筑紫さんも「加賀田さんの言われる通りだ」と応援してくれました。

 若い人たちへお話するときの結びの言葉として、私がいつも言うのは、
 「世の中には間違ったことはたくさんあります。21世紀を担うみなさんは間違ったことを間違っていると言える人間になってください。これが人間として一つの生涯を終えるにあたって私が言いたいことです」
 ということです(この言葉は鳥取県のハンセン病啓発用のテープに採録されています)。

 新憲法のもとにおいても、これだけの人権蹂躙を長い間許してきたのは、官僚が恐れるだけの発言力を我々がもたなかったということでもあります。当事者である患者自身の運動が弱かった。周囲の国民に対する啓発普及が弱かった。その根っこには、今にして思うと、やはり我々自身の内に「家族、血族に迷惑をかけてはいけない」という遠慮やひけ目がありました。私たちには「民族浄化」の対象として強制収容されていた心理的抑圧の瘢痕が後遺症として残っている。

 神谷美恵子先生が「入所者の70%は異常です」と私に言われました。”社会的に異常”という意味での発言ですが、それはそういう心理的抑圧のもとに今もいるということなのです。

 それだけ「らい予防法」は国民的規模で成功したともいえます。これは私たちの世代は人権感覚において、今の子供たちとはとても比較できないほど劣っているということをも意味します。姪の娘から「おじさんは間違っている」と言われましたが、私たちの世代が植え付けられた偏見を乗り越えてゆく若い世代の言葉として頼もしく聞いています。

 私は今の子供たちを信頼しています。だから言います。「先生であろうと、お金持ちであろうと、ご両親であろうと、もし彼らが間違ったことを言っているなら、それを質せるような人間になってください。そしてよく話し合って、正しいことを自分で判断してください」と。最後はそこにもっていきます。結局そういう話し合いが隠し事のない率直な親子関係をつくっていくと思っています。それは学校教育の場でも、社会でも同じことであり、あらゆる場へつながってゆくのではないでしょうか。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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