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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

15歳と65歳の頭のレベルは同じ


 絵、音楽、カメラ等の子供の能力は、60代半ばのぼくより、感性も表現力もすぐれている。

これは実感としてわかる。

そして、もしあなたがこのブログを見てくださっている中学生なら、あなたに伝えたい。中学生のあなたの頭の言語能力や思考力は、65歳のおじさんとそう変わらないんだよと。

つまり、中学3年生のあなたはすでに、65歳のおじさんと同じレベルの思考力と思ってよい。そしてこのことは、あなたが65歳になった時に気づくでしょう。

人間は中学、高校生くらいがピークで、後はそれを維持し続けるか、多少肉付けする程度で、大きな成長はないと思う。

だから、中学生でも高校生でも、いわゆる大人と同等以上の言語能力や思考力がすでに備わっており、本気でするなら、議論しても大人を打ち負かせる。

大人は中学生や高校生をまだ子供として押さえつけたいだけである。現実には大人よりもっと先を走っている。



子供の頃は、教科が1時間ほどで次々に変わって行くのが、何か嫌で、体育なら体育ばっかりを午前中させてもらえるとか、一つの教科ばかりを少し趣向を変えながら午後からずっとしたり、理科の戸外学習なども午前なら午前、午後なら午後中ずっとしたいと思ったことがある。

子供によっては、1時間ごとに切り替えていく方が助かる子供もいるだろうが、逆に、一つの教科だけを午前中続けたいという子供もいるだろう。

子供に好きな方を選ばせるのではなく、能率や、効率、時間配分という企業戦士を育てるには、「1時間ごとの科目切り替え」の方が適した教育方法であろう。


子供の頃には、短時間で切り替えることがいやだったのに、今は進んでこの方法をとろうとする自分がいる。多分、子供の頃の持続力(熱中力)はすごいものがあるのだろう。



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長島愛生園  加賀田一さん(37)


神谷美恵子先生
 

「いつの日にか帰らん」P198~P207抜粋


 神谷美恵子先生が亡くなったのは1979(昭和54)年10月22日でした。今年(平成21年)、京都の思文閣美術館で先生没後30年の催しが企画されており講演を頼まれていますが、亡くなって30年たってもそういう会がもたれるところに先生のお人柄、人間性が表れていると思います。

 神谷先生が医官として正式に愛生園に入られたのは1961(昭和36)年ですが、戦時中の学生時代も一人で実習に来られています。光田園長を「慈父」として尊敬し、愛生園の医師になりたかったというのですが、お父様がどうしても反対されて正式に赴任されるのはずっと後になりました。お父様は前田多門といって岡山県出身の内務官僚であり、また新聞人でした。神谷先生もお父さんの仕事の関係で少女時代をヨーロッパで生活しています。

 前田多門は敗戦直後に文部大臣に就任し、その父の頼みによって英仏独語の会話にも堪能な神谷先生はGHQと日本政府間の通訳の仕事をしています。先生は精神科の勉強途中だったので、早く学校に戻して欲しいと要求するのですが、その能力を買った政府要人が許さなかったようです。

 神谷先生は精神科の先生で、今で言う統合失調症の人だけを対象にしておられましたので、普通の入所者で直接話したことのある人は少ないと思います。私が非常に感動したのは先生の考え方でした。私はこんな所に入ってまで、朝から晩までがなっている人が近くの監房の中にいるので「困るなあ」と思って見ていました。

 それを先生は「隔離されている中で隔離されている人がいる」と言われました。私はその言葉にハッと気がつきました。同じ病気なのに、確かにそうだ。隔離されながら、さらに偏見をもって隔離している。偏見の中に偏見がある、ということを感じられるのが、先生の素晴らしさでした。

 神谷先生は、人間はどんなに精神病を患っていても愛情は通じるという信念を持っておられたと思います。統合失調症の患者さんを看護婦さんが散歩させるときは必ず一人に二人がついて歩きました。それを神谷先生はお一人で五、六人といっしょに散歩しておられました。何人かで弁当を持って山へピクニックに行く姿を見かけたこともあります。

 ですから先生の愛情というものが精神病者の中に伝わっているというふうに私は見ました。先生は「この人たちは私に代わって病んでくださっておられる。私はこの人たちと友達になることを一生の仕事としたい」と言っておられますが、それが患者さんと接する基本の姿でした。

 精神病の患者は監房廃止後、日赤から寄付された日赤寮に移されましたが、寮は施錠されていました。神谷先生が来られて、精神病棟を別に建てる必要についておっしゃっていました。当時、昼間は入所者が付き添い、夜間は担当職員が一人付いていた「杜鵑寮」という病棟で、昭和40年、一人の患者が不満からわざとストーブを倒して全焼するという事件がありました。幸い死傷者は出ませんでしたが、その後で瀬戸内三園共同の精神病棟が建ちました。

 その頃、先生が「加賀田さん、入園者のアンケートを取らせてください」と言ってこられたことがありました。その後「アンケートの結果はどうでしたか」と尋ねますと、「そうですね。あまり公表できませんが、自治会の会長さんに協力をお願いしておいて結果を知らせないのはおかしいですから、・・・・そうですね。七十%の人が異常です」と言われました。私もアンケートに答えた一人でしたから、「あ、私も精神異常でしょうか?」とすぐに聞き返すと、「いや、そうではありません。社会的異常が起きています」という説明でした。

 それは隔離の中にいるからということでした。考えてみると入所者は普通の社会人ではありません。国費で賄っていますから、経費を一切出す必要がありません。税金も納めていません。医療費、食費も出していません。そういうことが長く続くと、「異常を起こすんです」という話をされたので、私自身についても大いに考えさせられました。生活意欲を失い、社会性が失われていくのですから閉鎖的で独りよがりになっていきます。ですから若い人のセンスを受け容れることに柔軟にならなければいけないと反省しました。

 先生は心臓が悪かったそうで、自分の意思に沿わないまま人生を終わらせるのは気の毒、というご主人の神谷宣郎先生(大阪大学名誉教授)の思いやりから、先生は愛生園の医官に正式に就かれ、宝塚の自宅から通っておられました。その先生が亡くなられたときに、ちょうど私が自治会の会長をしていましたからお葬式に参列することになりました。

 その前夜、休もうとしていたら、神谷先生といっしょにこの精神科の医官を務めておられた葬儀委員長の高橋幸彦先生から「自治会として弔辞をいただきたい」と、電話で言って来られました。

 「いや、困ったな。今から弔辞を書くといっても明日の朝の新幹線で行かなきゃならないし・・・」。急遽、先生から外国語を教えていただいていた島田ひとしくんに、「なんか、あんたが印象に残ってることはないか」と尋ねると、「じゃあ、私の詩を読んでくれんかい」ということになりました。島田くんはその後亡くなられましたが、独学でフランス語とドイツ語を学んでおり、神谷先生が来られると疑問点を尋ねていました。詩人で理論家、患者運動にも積極的で、愛生園入園者五十年史『隔絶の里程』の中心編集者、執筆者の一人でした。

 葬儀場の大阪の千里会館へ行くと、私は遺族席に座らされました。そして弔辞として島田くんの立派な詩を読ませてもらいました。



神谷先生に捧ぐ

そこに一人の医者がいた
五十年の入院生活を続けている私たちにとって
記憶に残るほどの医者に恵まれてきたわけではないが
めぐみは数ではない

そこには一人の医師がいた
「なぜ私たちでなくて、あなたが?」とあなたはいう
「私の”初めの愛”」ともあなたはいう
代わることのできない私たちとのへだたりをあなたはいつもみずから負い目とされた

そこにはたしかに一人の医師がいた
私たちは、いまとなっては真実にめぐり会うために痛み

病むことによってあなたにめぐりあい
あなたのはげましを生きることで
こうして
あなたとお別れする日を迎えねばならない

さようなら
神谷美恵子 

さようなら



 葬式が終った直後、高橋葬儀委員長が「ご遺族の意思によって、本日の御香典はすべて長島愛生園に寄付させていただきます。どうかご了承願います」と、出棺前に言われました。私は突然のことに驚き、言いようのない感動に襲われました。

 その帰りです。愛生園の庶務課長と私がいるところに光明園の原田園長が来て、「加賀田さん、神谷先生には光明園にも来ていただいとったので、うちの患者さんにもちと分けてやってくれ」と言われました。これには私もびっくりしました。「自治会が貰ったわけじゃないですから。帰って、園長にちゃんと報告しますから」と答えましたが、原田園長と愛生園の友田園長は、二人とも愛生園で同僚医師だったのですが、どういうわけか犬猿の仲でした。

 香典は六百万円もの高額でしたので、光明園に百五十万円を渡しました。四百五十万円をどうするか。園長は「君に任した」というので、何か記念として残るものをと自治会で考え、五百二十平方メートルの土地に「神谷書庫」を建てました。

 香典はあとになってさらに、アメリカ、フランス、ドイツなどの知人友人から届いたという八十万円が贈られてきました。これで書庫内部の棚や調度品を揃えました。「愛生」編集部に送られてきた全国療養所の機関誌や資料、蔵書が、古い倉庫に大量に溜まっていましたので、それを集めて整理し神谷書庫に収め、いつでも利用できるようにしました。お陰で研究熱心な方による利用が最近、頻繁になっています。

 神谷書庫落成の折りには神谷宣郎先生にお越しいただきましたが、先生から「あの小額でこんな立派なものを建てていただいて」と丁寧にお礼を言われ、私たちは恐縮するばかりでした。その後、予防法の廃止や違憲判決があって関連書物の出版もかなりありましたので、それら新しい図書も古い資料とともに蒐集しています。

 先年、天皇皇后両陛下が長島愛生園にお見えになったとき、美智子妃殿下が神谷書庫の見学を希望されましたが、コースから外れると宮内庁が言うので行かれなかったということもありました。妃殿下が皇太子妃の頃、精神的に悩まれた時期があり、そのとき神谷先生が面談していろいろ話をされて、美智子様も立ち直られたということがあったそうで、神谷先生の著書は愛読書とのことです。

 このとき私も妃殿下に握手を求められる光栄に浴しましたが、その後になって、看護婦さんや看護学校の生徒さんから私に「握手して下さい!」といわれて、「えっ?」と戸惑うと、「美智子様と握手した手でしょ!」と言うので、「あれから手も洗ったし、顔も洗ったよ」と答えると、「それでもいいから」との明るい返答です。ああ、美智子様は若い女性にずいぶん人気があるものだなと感心しました。
 神谷先生の息子さんはストロー笛で有名ですが、この方は愛生園にも来られて、今でもご縁が続いています。

 それにしても「私の代わりに病んで下さっている。この人たちとお友達になりたい」という思いやり、考え方、そしてそれを実行し貫かれた、そういう立派な人とお話できたことを私は誇りに思います。園内には、どこか聖女の趣きがあった神谷先生の写真を飾っている人もいます。先生は私より四歳ほど姉さんになりますが、その先生を思いますと、比較するのではありませんが、自分がほんとに俗人だと感じます。



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キャベツ炒め


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熱したフライパンに油を入れ、15秒湯通しした豚肉100gを入れ、ざく切りしたキャベツを入れ、キャベツに火が通ったら生姜醤油で味付けして出来上がり。



ニンジンの酢醤油

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ニンジンを拍子木切りして水から茹でる。

ボールに醤油大さじ1と半、酢大さじ1、レモン果汁大さじ1、砂糖大さじ2を入れて混ぜ、湯切りしたニンジンを入れ、市販のすりゴマをふって出来上がり。





手作りポン酢

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醤油70CC+酢50CC+みりん30CC+レモン果汁50CC=200CC(1カップ)のポン酢の出来上がり。




 
小魚のポン酢浸し

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小魚は1分湯通しして冷水にとり、容器に入れ、ポン酢を浸して出来上がり。



ニンジンおろしとダイコンおろし

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コンニャクの乾煎り

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熱したフライパンに手でちぎったコンニャクを入れ、強火~弱火で5分炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。




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田舎の方が便利

 
田舎は買い物にも便利である。

ただ、田舎では車が運転できることが必須で、普通に気をつけて運転すれば、80歳くらいなら十分可能と思う。



都会なら、買い物袋をさげて家まで帰る必要があるが、田舎なら、車まで運べば、あとは車で運べる。



大阪市生野区の鶴橋に親戚があるが、50年前には、鶴橋の商店街は活気にあふれ、歩くのも人の流れにあわせて歩かないと人につきあたるような状況だったのに、今はすっかり人通りが少なく、シャッターをおろしている店も目立つ。

だから買い物は、ちょっと足を伸ばして大型スーパー等へ行っているらしい。詳しく聞かなかったが、多分電車を利用して、重い買い物袋を持って帰るのだろう。

これでは、都会もゴーストタウンではないか・・・



東大阪市の布施の商店街も、40年前に比べて人通りがどっと少なく、閉じている店が多かった。



布施から永和に向う、近鉄ガード下の「ポッポアベニュー」も半分ほどの店が閉じていた。



放出の駅前は40年前とはがらりと変わったが、商店街の「みゆき通り」は8割ほどの店が閉じていた。



まさにすさまじいまでの人通りの変化。いったい、人はどこへいってしまったのか。



田舎も過疎だが、大都会の中心部(商店街)もこんな状況だった。



黒門市場も道頓堀も歩いているのは外国人ばかりで、言葉がわからない。日本人は2割ほどはいただろうか。



昔は商店街を通って自宅へ帰る間に、食料品や日用品の買い物ができたのに、今はどこで買い物をして、どうやって持ち帰っているのだろう。



これをみると、田舎の方が断然便利と思う。



13日に「スーパー激戦区になった」を書いたが、ホームセンターはもっと激戦区であり、我が家から車で10分内に、「ナンバ」、「コメリ」、「タイム」、「すくすく」、「しんしん」があり、15分で「ナフコ」もある。なんと6つが競合しており、よくこれで店じまいせずに続けれるなあと感心する。

これから春の苗物が売り出されるが、手で持ち帰るのは不便な苗物も、車に積めば、持ち帰りに悩む必要もない。



コンビニも車で10分内に、5つもある。


病院へ行くのも同じで、車なら1時間もかからずに岡山市内の病院へ行けるし、市内の病院なら電車やバスを利用しても行ける。


こう見て来ると、田舎のどこが不便かと思う。


県北へ行くと、人口自体が少ないから多少は不便であるかもしれないが、車が運転できる状態であれば、買い物は週に1~2回、病院も月に1~2回程度だと思うから、そんなに不便ではないと思う。



85歳を過ぎると足腰が弱るので、これは田舎住いでも都会住いでも同じだろう。



働く場所と学校は都会に集中している・・・



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新・定年オジサンのつぶやき

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長島愛生園  加賀田一さん(36)


石館守三先生

「いつの日にか帰らん」P184~P186抜粋


 1966(昭和41)年、大阪府と藤楓協会(現・ふれあい福祉協会)主宰の「ライ(ハンセン病)を正しく理解する集い」が森ノ宮の青少年会館で開かれた際、体験談を話してくれと私に声がかかりました。私は「この通り、治っています」としゃべったのですが、そのあとで高島園長に「君に会わせたい人があるので、いっしょに来てくれ」と呼ばれて、ついて行くとそこには真っ白な髪の紳士が立っておられました。

 高島先生は私に「この方がいつも話している、日本でプロミンを精製されて、続いて毎日の静脈注射では痛くて痛くて辛かろうと、DDSを始めとする経口投与内服薬を開発された東大薬学部長の石館教授です」と紹介してくださいました。そして私のことを「この患者さんがプロミンの過剰注射による副作用で末期症状に陥った体験者です」と紹介されました。

 すると、石館先生は私の手の甲から右腕いっぱいに広がっているケロイドを撫でながら、「済まなかったね。よく我慢してくれた。よく治ってくれたね」と、ハンカチを目に押し当てられました。治ったほうがお礼を言って感動するのは当然のことですが、薬を作って治した先生が感動しておられたのです。このとき私は恐縮を超えて、神か仏に出会ったような深い感動を覚えました。私の生命を九十二歳の今日まで延ばしてくださったのは、あの涙を流された先生の深い人間愛のお陰と信じています。

 私が死なずに生きたことを心から喜んでくださった石館先生がおられたからこそ、私は予防法の廃止後、鳥取県の要請に応えて、学校、公民館、シンポジウム、フォーラムで「語り部」として講演を続けることができたのです。この活動が社会教育に貢献したという理由で、思いもよらなかった表彰を県の教育委員会から頂きました。こうして人間としての名誉回復につながることができたのも、多くの方たちの生命の明りがあったからです。最後に私の思い出に残る人たちについて、その「いのち明り」の姿を述べたいと思います。

※「いのち明り」は故・岡部伊都子さんの言葉です。愛生園開園六十周年記念文化講演会(1990年11月13日・愛生園福祉会館)に講師として来園された岡部さんの演題が「いのり明り」でした。

 


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タジン鍋


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タジン鍋の下敷きにざく切りしたキャベツを置き、輪切りにしたニンジンを置き、シイタケを置き、15秒湯通ししたサケを置き、生姜1片をすりおろし、醤油、酒、みりんで味付し、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。




ナバナのおひたし


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目玉焼き

 
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ナバナのおひたしをまわりに置き、醤油で味付け。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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