あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

北條民雄さん 癩院記録(2)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP544~P546を抜粋。


 
 病院とはいうが、ここは殆ど一つの部落で、事務所の人も医者も、また患者達も「我が村」と呼ぶのが普通である。子供は午後から学校へ通い(午前中は各科の治療を受けねばならない)大人達は朝早くからそれぞれの職場へ働きに出かけて行く。
 
 仕事も一村に必要なだけの職業は殆ど網羅されていて、大工、左官、土方、鉄工、洗濯屋、印刷所、教員、百姓、植木屋、掃除夫等々、その上にここのみに必要な仕事としては、女達の繃帯巻き、不自由舎の人のガーゼのばし(一度使用された繃帯やガーゼは洗濯場で洗われる。それを巻いたり広げたりする仕事を言う)その他医局各科の手伝い、不自由舎・病室の付添など、失業ということはまずないようである。
 
 作業賃はだいたい十銭が原則であるが、仕事によってはやはりまちまちである。勿論強制的に就業しなければならないということはなく、それぞれの好みに従って仕事を選んで良いのである。義務作業といわれるものも二三あるが、これは交替で行われる。例えば重病室や不自由舎の付添夫が神経痛や急性結節で寝込んだりすると、健康舎から臨時付添夫が出なければならない。この場合も作業員は十銭が支給される。
 
 小遣いは一ヶ月七円と定められているが、それは自宅から送金されたものを使う場合であって、院内で稼いだ金はいくら使っても差支えない。だから働いていさえすれば小遣いに困るといういうことはないようである。また不自由になって不自由舎の人となり、或は三年五年と重病室で寝て暮したりする場合には、毎月いくばくかの補助金が下がる。
 
 女達の仕事としては前にも言った繃帯巻きがその主なるものであるが、その他には医局各科の手伝い、女不自由舎の付添などがある。また男達の着物を縫ったり、ジャケツを編んでやったり、洗濯物を洗ってやったりする仕事もある。
 そのうち、良い金になると評判されているのは洗濯と女の盲人のあんまである。
 あんまは上下三銭、洗濯は掛布団の包布が二銭、敷布が一銭、着物・シャツその他は凡て一銭というのが不文律になっている。しかしやはり数多くやり、いわば薄利多売的傾向をもっているので案外の金になるそうである。

 
 もっとも洗濯屋は、誰でもすぐ思い通りに開業するという訳にはゆかない。やはり永年ここにいた者でないと信用がないので、得意をもつ事が出来ない。得意先が出来ると毎日御用聴きに廻るところは、院外の商売と似ている。
 
 男達は仕事から帰って来ると、すぐ長い着物を着て女舎などへ遊びに行くのが多いが、しかし働き者はそれから農園に出て大根を作り馬鈴薯を作る。中には女房と二人で暗くなるまで土を返すのもあって、ちょっと平和な風景である。
 
 こうして作られた農産物は、炊事場に買い取られる。得た賃金は女達の半襟になり、腰紐に化ける。また独身者は農産物を炊事場に出すのを忘れてこっそり女舎に貢いだり、将を射んとせば先ず馬を射よで、相手の娘の兄のところへ提供して敵本主義をやる。女の方が男よりも癩に対して抵抗力が強いということは医学でも言われていて、病院には女が非常に少ない。だいたいのところ女は男数の三分の1で、だから癩者の世界では女は王様のようなものである。
「ちぇっ、女なんか。」男たちは一様に軽蔑したような口を利くが、実は内心女の顔色を窺っているのが多いようである。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(1)


少し長いので各単元ごと7回ほどに分けて(順不同で)更新します。
北條さんの描写は具体的でわかりやすく、おもしろい。
高浜虚子の来院が描かれているこの単元は2分ほどです。



 病院の中央に大きな礼拝堂がある。そこで毎月死者の慰霊祭が行われる。またそこは、活動小屋になることもあれば音楽会の会場にもなる。何か事件があると院長が患者達に何か説諭する。その時もこのお堂が利用される。所謂名士が参観に来るとここで一席弁じて行く。ちょっと患者会館と呼ぶにはふさわしい所である。
 
 名士たちはよくやって来る。主として宗教家であるが、時には大学教授も来れば大臣も来る。患者達がぞろぞろと集まって来るのを見ると、名士達は誰も同じ恰好に顔をしかめる。驚きと恐れと同情とがごっちゃになった表情で、しかし平然としようとして視線を真直ぐにしている。が、やはり気になるのでちらちらと坊主頭や陥没した鼻を眺めては、また急いで視線を外らせる。
 
 そして演壇に立つと込み上って来る同情の念に、たまらなくなったような声で口を開く。中には一時間も二時間も喋って行く人もあり、またほんの四五分喋って行く人もある。患者達はみな熱心に聴く。そして話が終ると同時に忘れてしまう。しかしほんの四五分しか喋らなかった人の言葉はよく覚えてい、尊敬しているようだ。
 
 高浜虚子が来院されたことがあった。氏は、この院内から出ている俳句雑誌『芽生』の同人達を主に訪問されたのであるが、患者達は殆ど総動員で集まった。氏はゆっくりと、誰にも判っている事を誰にも判るようにほんの五六分間話して帰られた。患者達はあっけないという顔で散ったが、しかしその五六分間の印象は強く心に跡づけられた。そして今もなお時々その時の感銘が語られている。
 
 患者達は決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない。虐げられ、辱しめられた過去に於て体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



二つの死


  秋になったせいだろう。この頃どうも死んで行った友人を思い出していけない。それも彼が生前元気にやっていた頃の思い出ならばまだ救われるところもあるのだが、浮んで来るのは彼の死様ばかりで、まるで取り憑かれてでもいるかのような具合である。夜など、床に就いて眼をつぶっていると、幻影のように、呼吸のきれかかった彼の顔が浮き上がる。眉毛のない顔がどす黒く、というよりもむしろどす蒼く変色して、おまけに骨と皮ばかりに痩せこけて、さながら骸骨、生ける屍とはこれだ、と思わせられるようなのが、眼の前でもがくようにうごめき始めるのだ。それから湯灌してやった時に触れた、まだなまぬくい屍体の手触り、呼吸の切れるちょっと前に二三度ギロリとひんむいた巨大な目玉、呻き、そんなのばかりがごちゃごちゃと思い出されて来るのだから全く堪らない。昨夜の如きは遂に一睡もしないでその幻想に悩まされて明かしてしまった。そのため今日は頭がふらふらし、雑文でも綴るより仕方がない。が、おかげで詩のような文句を考え出した。
粗い壁。
壁に鼻ぶちつけて
深夜━
あぶが羽ばたいている。

 友人に見せたら、ふうむ、詩みたいだ、と言った。題は「虻」とするよりも私はむしろ「壁」にしたい。まあこれが詩になってるかどうかはこの場合どうでもよいとして、昨夜一晩私は壁を突き抜ける方法を考えたのだ。しかし突き抜けることが不可能としても、虻は死ぬまで羽ばたくより他、なんともしようはないのである。
(未完)


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



絶望


 
 十日に一度は、定って激しい絶望感に襲われるようになった。頭は濁った水の底へでも沈んで行くようで、どうにももがかずにはいられない。たいていは一日及至二日でまた以前の気持に復することが出来るが、ひどい時には五日も六日も続くことがある。食欲は半減し、脈搏が上り、呼吸をするさえが苦しくなる。四五日も続いた後では、病人のように力が失せてしまう。しかし、私は一体何に絶望しているのであろうか。自分の才能にか、それとも病気が不治であるということにか、社会から追い出されたということにか、或はまた蝕まれ行く青春にか。いやいや、私は━━。
 ぼんやりそんないいかげんなことを考えているともう夕食になってしまった。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



柊の垣にかこまれて


 駅を出ると、私は荷物が二つばかりあったので、どうしても車に乗らねばならなかった。父と二人で、一つずつ持てば持てないこともなかったけれども、小一里も歩かねばならないと言われると、私はもうそれを聴くだけでもひどい疲れを覚えた。

 駅前に三十四年型のシボレーが二三台並んでいるので、
「お前ここにいなさい。」
と父は私に言って、交渉に行った。私は立ったまま、遠くの雑木林や、近くの家並みや、その家の裏にくっついている鶏舎などを眺めていた。淋しいような悲しいような、それかと思うと案外平然としているような、自分でもよく判らぬ気持ちであった。

 間もなく帰って来た父は、顔を曇らせながら、
「荷物だけなら運んでもよいそうだ。」
とそれだけを言った。私は激しく自分の病気が頭をかき廻すのを覚えた。私は病気だったが、まだ軽症だったし、他人の嫌う癩病と、私の癩病とは、なんとなく別のもののように思えてならなかった時だったので、この自動車運転手の態度は、不意に頭上に墜ちてきた棒のような感じであった。が、考えてみるとそれは当然のことと思われるので、
「では荷物だけでも頼みましょう。」
と父に言った。

 自動車が走って行ってしまうと、私と父とは、汗を流しながら、白い街道を歩き出した。父は前に一度、私の入院のことについて病院を訪ねていたので、
「道は知っている。」
と言って平然と歩いているが、私は初めての道だったので、ひどく遠く思えて仕方がなかった。
「お父さん、道は大丈夫でしょう?」
と聴くと、
「うん間違いない。」
それで私も安心していたのだが、やがて父が首をひねり出した。
「しかし道は一本しかないからなあ。」
と父は言って、二人はどこまでもずんずん歩いた。
「お前、年、いくつだった?」
と父が聴いたので、「知ってるでしょう。」と言うと、
「二十一か、二十一だったなあ。ええと、まあ二年は辛抱するのだよ。二十三には家へかえられる。」
 そして一つ二つと指を折ったりしているのだった。
 1934年5月18日の昼下がりである。空は晴れわたって、太陽はさんさんと降り注いでいた。防風林の欅の林を幾つも抜け、桑畑や麦畑の中を一文字に走っている道を歩いている私等の姿を、私は今も時々思い描くが、なにか空しく切ない思いである。
 やがて父が、
「困ったよ。困った。」
と言い出したので、
「道を間違えたのでしょう。」と
訊くと、
「いや、この辺りは野雪隠というのは無いんだなあ。田舎にはあるもんだが━━。」
 父は便を催したのである。私は苦笑したが、急に父がなつかしまれて来た。父はばさばさと麦の中へ隠れた。
街道に立っていると、青い穂と穂の間に、白髪混じりの頭が覗いていた。私は急に悲しくなった。
 出て来ると、父はしきりに考え込んでいたが、
「道を迷ったらしい。」
と言った。
 腰をおろすところもないので、二人はぽつんと杭のように立ったまま、途方に暮れて、汗を拭った。人影もなかった。遠くの雑木林の上を、真白な雲が湧いていた。
 そのうち、電気工夫らしいのが自転車で駆けて来たので、それを呼びとめて訊いた。父は病院の名を出すのが、嫌らしかったが、なんとも仕方がなかった。
 私達は引き返し始めた。

 それからまた十五六分も歩いたであろうか、私達の着いたところは病院のちょうど横腹にあたるところだった。真先に柊の垣が眼に入った。私は異常な好奇心と不安とを感じながら、正門までぐるりと柊を巡る間、院内を覗き続けた。
 
 以来二年、私はこの病院に暮した。柊の垣にかこまれて、吐け口の無い、息苦しい日々ではあったが、しかし二十三になった。私はこの中で何年生き続けて行くことだろう。今日私は、この生垣に沿って造られた散歩道を、ぐるりと院内一周を試みた。そしてふと『死の家の記録』の冒頭の一節を思い出した。

 「━━これがつまり監獄の外囲いだ。この外囲いの一方のところに、がっしりした門がとりつけてある。その門はいつも閉め切ってあって夜昼ぶっとおしで番兵がまもっている。ただ仕事にでかけるときだけ、上官の命令によってひらかれるのであった。この門の外には、明るい、自由な世界があって、みんなと同じ人々が住んでいた。けれど墻壁のこちらがわでは、その世界のことを、なにか夢のようなお話みたいに考えている。ここには、まったく何にたとえようのない、特別の世界があった。これは生きながらの死の家であった。」

 だが、この世界と言えども、私達の世界と較べれば、まだ軽い。そこには上官という敵がいる。だが私の世界には敵がいない。みな同情してくれるのである。そして真の敵は、実に自分自身の体内にいるのである。自分の外部にいる敵ならば、戦うことそれ自体が一つの救いともなろう。だが、自己の体内にいる敵と、一体、どう戦ったらよいのだろう。

 柊の垣にかこまれて、だが、私は二年を生きた。私はもっと生きねばならないのだ。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム