あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

間違ったことを間違っていると言える人

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P20~P23抜粋


 「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年に大阪の御堂会館で、関西のFIWC(フレンズ・インターナショナル・ワークキャンプ)が「排除から共生への架け橋」というタイトルでフォーラムを開催しました。鶴見俊輔先生、徳永進先生(当時、鳥取赤十字病院内科部長)、筑紫哲也さんに元患者として森元美代治さんと私がパネリストに呼ばれました(木村聖哉さん司会)。そこで私はなぜこんなに予防法の廃止が遅れたのかという話をしました。そのときにはその後の裁判のことなど夢にも考えられない頃でしたが、その判決でも一番悪いのは厚生省の官僚だということが指摘されていました。

 誤っていることを知っていながら改めようとしませんでした。療養所の所長の会合でも誰も言いませんでした。これが日本のハンセン病の施策を全く間違えさせました。人の苦しみ、病人の苦しみやら家族の苦しみということを知っていながら、そのまま継続させることによって苦しみを増幅させたのです。ただ自分の地位と名誉の保全の為だったと、私は言いました。筑紫さんも「加賀田さんの言われる通りだ」と応援してくれました。

 若い人たちへお話するときの結びの言葉として、私がいつも言うのは、
 「世の中には間違ったことはたくさんあります。21世紀を担うみなさんは間違ったことを間違っていると言える人間になってください。これが人間として一つの生涯を終えるにあたって私が言いたいことです」
 ということです(この言葉は鳥取県のハンセン病啓発用のテープに採録されています)。

 新憲法のもとにおいても、これだけの人権蹂躙を長い間許してきたのは、官僚が恐れるだけの発言力を我々がもたなかったということでもあります。当事者である患者自身の運動が弱かった。周囲の国民に対する啓発普及が弱かった。その根っこには、今にして思うと、やはり我々自身の内に「家族、血族に迷惑をかけてはいけない」という遠慮やひけ目がありました。私たちには「民族浄化」の対象として強制収容されていた心理的抑圧の瘢痕が後遺症として残っている。

 神谷美恵子先生が「入所者の70%は異常です」と私に言われました。”社会的に異常”という意味での発言ですが、それはそういう心理的抑圧のもとに今もいるということなのです。

 それだけ「らい予防法」は国民的規模で成功したともいえます。これは私たちの世代は人権感覚において、今の子供たちとはとても比較できないほど劣っているということをも意味します。姪の娘から「おじさんは間違っている」と言われましたが、私たちの世代が植え付けられた偏見を乗り越えてゆく若い世代の言葉として頼もしく聞いています。

 私は今の子供たちを信頼しています。だから言います。「先生であろうと、お金持ちであろうと、ご両親であろうと、もし彼らが間違ったことを言っているなら、それを質せるような人間になってください。そしてよく話し合って、正しいことを自分で判断してください」と。最後はそこにもっていきます。結局そういう話し合いが隠し事のない率直な親子関係をつくっていくと思っています。それは学校教育の場でも、社会でも同じことであり、あらゆる場へつながってゆくのではないでしょうか。



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「ローマ会議」の国際決議と日本

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P16~P20抜粋


 2001年の「らい予防法」違憲判決では、「らい予防法」の誤りは1960(昭和35)年には明確になっていたと認定しましたが、強制隔離が間違いであることは1956(昭和31)年のローマ会議がはっきりと宣言していました。ローマ会議というのは、正式には「らい患者の救済ならびに社会復帰に関する国際会議」と言います。51ヵ国から250名の専門家代表がローマに集まり、18日間の討議の後、「ハンセン病は伝染性の低い疾病であり、かつ治療し得るものであることを考慮」して、強制隔離ほかすべての差別法を廃止すること、入院治療は特殊に必要とされる場合とし、通院加療を原則とすること━━などを決議しています。

 私がここで強調したいのは、この会議に日本の代表として国立療養所長の林芳信(多摩全生園)、野島泰治(大島青松園)と藤楓協会理事の浜野規矩雄(後に理事長)の三先生が参加していることです。藤楓協会というのは前身を癩予防協会といい、ハンセン病患者の救済を目的として設立された組織で理事には厚生省の元官僚が就任しています(「藤楓」の名は救癩事業に恩賜を下された皇族に由来します)。

 この三先生はハンセン病研究治療の日本における権威というだけでなく、医療行政にも大きな力を持っている専門家です。その先生方が外で国際会議に加わり、国内においても三人三様ですが強制隔離に批判的でありながら、しかもなお「らい予防法」が存続し続けたのは、どうしてなのでしょうか。

 専門医師の集まりである「らい学会」、療養所の園長会は、組織としてローマ決議の内容を国民に知らせ啓発しようとはしませんでした。たいへん良心的な三先生の批判と実践も個人的行為でしかなかったのです。個人の裁量において「らい予防法」ならびに隔離政策を「空洞化」「形骸化」する方向で「弾力運用」していったということです。入所者の私がローマ会議を知ったのはローマ会議の三年後でした。

 1958(昭和33)年の国際らい学会議は日本が隔離政策を改めるよう促すために東京で開催されました。1960年にはWHO(世界保健機関)が日本に隔離政策を改めるよう勧告しています。国際的な批判に対して政府は「軽快退所基準」を作成しますが、それは「軽快」者として退所を認めるにあたっての統一基準であって、ハンセン病に対する強制隔離原則を改めたわけではありません。

 これでは「軽快退所」者も偏見、差別、排除から自由になることはできず、社会復帰もいわゆる「もぐり」となってしまいます。日本社会のなかでハンセン病回復者が結核回復者と同じように扱われるようにならない限り、その基礎である「らい予防法」の空洞化、有名無実化ということはあり得ません。

 「らい予防法が」が廃止されたのはそれから四十年後です。この間、私は患者自治会の役員をしていましたから、何度も厚生省(現・厚生労働省)に行きました。そこで隔離は間違っているんじゃないかということを言いますが、厚生省の人たちは黙っていて応えません。ドクター資格を持っている厚生官僚も多く、入所者の100%近くが治っていることも知っていたはずです。現状に合わせて、きちんと正式に法律を変えるよう訴えたのですが、これには応えてくれませんでした。

 ところが療養所内の生活問題、例えば「すきま風のために、ハンセン病は治っていても風邪を引いて肺炎になる」という話をすると、厚生省の役人は乗り出してくる。「目の見えない人が困ってる」というと、「そうですか」とすぐメモして善後策の検討に入ります。「福祉の増進」という名分がありますから、大蔵省(現・財務省)から予算を取りやすいのでしょう。つまり隔離を続けるための予算というわけです。

 ハンセン病の施策の間違いは、こういうお役人の姿勢にも表れていました。彼らはみな優秀ですから最新情報は把握しています。ハンセン病菌が弱いこと、感染しても発症が極めて稀であること、そして発症しても薬で治癒することをよく知っています。「らい予防法」が医学的にも、国際的にも、社会的にも間違っていることをよく知っています。しかしそのことは言いません。これまでの政策について批判することはありません。既定の法律に触れないことを前提に、予算で対応することに努めます。

 それはなぜなのかといえば、自分の地位名誉の保全のためです。先輩のやってきたことを間違っていたからと、それを翻そうとしたら頭を叩かれます。人事には先輩が関わっていますからエリートコースを外される。役人の担当部署はどんどん代わり、同じ部署にいるのは二年間です。その自分の在任中に患者さんの頭を撫でて、飴を舐めさせて大過なく過ごしていたい。無事であれば、とにかく出世してゆきます。天下りもできます。そういうことが日本の過ちをそのまま続けさせてきた元にあるということです。


実際にぼくもそう思う。行政の「民営化」のような大胆な改革を試みない限り、この国は蝕まれ続けるだろう。お隣の中国を批判する状況ではない。日本の内情はひどい。


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石館守三先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P184~P186抜粋


 1966(昭和41)年、大阪府と藤楓協会(現・ふれあい福祉協会)主宰の「ライ(ハンセン病)を正しく理解する集い」が森ノ宮の青少年会館で開かれた際、体験談を話してくれと私に声がかかりました。私は「この通り、治っています」としゃべったのですが、そのあとで高島園長に「君に会わせたい人があるので、いっしょに来てくれ」と呼ばれて、ついて行くとそこには真っ白な髪の紳士が立っておられました。

 高島先生は私に「この方がいつも話している、日本でプロミンを精製されて、続いて毎日の静脈注射では痛くて痛くて辛かろうと、DDSを始めとする経口投与内服薬を開発された東大薬学部長の石館教授です」と紹介してくださいました。そして私のことを「この患者さんがプロミンの過剰注射による副作用で末期症状に陥った体験者です」と紹介されました。

 すると、石館先生は私の手の甲から右腕いっぱいに広がっているケロイドを撫でながら、「済まなかったね。よく我慢してくれた。よく治ってくれたね」と、ハンカチを目に押し当てられました。治ったほうがお礼を言って感動するのは当然のことですが、薬を作って治した先生が感動しておられたのです。このとき私は恐縮を超えて、神か仏に出会ったような深い感動を覚えました。私の生命を九十二歳の今日まで延ばしてくださったのは、あの涙を流された先生の深い人間愛のお陰と信じています。

 私が死なずに生きたことを心から喜んでくださった石館先生がおられたからこそ、私は予防法の廃止後、鳥取県の要請に応えて、学校、公民館、シンポジウム、フォーラムで「語り部」として講演を続けることができたのです。この活動が社会教育に貢献したという理由で、思いもよらなかった表彰を県の教育委員会から頂きました。こうして人間としての名誉回復につながることができたのも、多くの方たちの生命の明りがあったからです。最後に私の思い出に残る人たちについて、その「いのち明り」の姿を述べたいと思います。

※「いのち明り」は故・岡部伊都子さんの言葉です。愛生園開園六十周年記念文化講演会(1990年11月13日・愛生園福祉会館)に講師として来園された岡部さんの演題が「いのり明り」でした。


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犀川一夫先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P194~P198抜粋


 犀川先生は慈恵医大の医学生時代にハンセン病医療に一生を捧げることを決意し、その道を貫かれた敬虔なクリスチャンです。愛生園を辞めるという話が伝わったときには入園者1700名が署名して、厚生大臣宛に留任をお願いしましたが、こんな例は他にはありません。戦争末期に光田先生を慕って長島へ来られ、召集され軍医として「中支」を転戦、復員して今度は正式に愛生園に就任されました。

 私は1944(昭和19)年、病気が悪くなったときに犀川先生にお世話になり、そして戦後はまたプロミンの主治医としてお世話になることができました。「プロミンは初めてで、その使い方は私にもわかりません」と、たいへん率直なお人柄で同年輩ということもあり、いろいろな世間話も親しくできました。

 プロミン使用によって菌の陰性者が続出し、園内の雰囲気がどんどん明るくなってゆきました。先生は、内服薬も開発されて自宅からの通院治療が可能になったのだから、もう隔離しているのは間違いだと思っておられました。しかしそれを言うことは光田理論から離れることであり、恩師に反対を唱えることは意に染まないということで悩まれたと思います。

 その頃キリスト教の医療団体から、今なおハンセン病者が多く発生している東南アジア地域に専門医師がいないので先生を派遣したいという話が持ち込まれて、先生は1960(昭和35)年、台湾に渡られました。そこで内服薬投与による外来治療制度という先生の考えておられた医療を、厳しい条件のなかで責任をもって実践されました。東南アジア各地で診療、調査された先生はWHO(国連・世界保健機関)に推挙されて、その専門官として西太平洋地区各国の状況に合ったハンセン病医療政策、体制造りに参与されました。

 先生はこの地域で医療に尽くす動機として、太平洋戦争中に日本軍が行った罪障への償いと奉仕の気持ちがあったと自ら記しています。この地域のハンセン病発生者の減少を見て、WHO本部は先生にアフリカのナイジェリアへの派遣を打診しました。しかし先生は恵まれた待遇のWHOを辞めて、米軍占領下の沖縄に行くことを選びました。

 沖縄においては1967年においても173名の新患者が発生していました。そして専門医師がなぜか一人もいませんでした。前から診察に行くたびに、琉球政府や患者から着任を懇請されていたそうです。

 先生は沖縄愛楽園の園長に就任されると、その最初の仕事として職員住宅と患者区域を隔てるだけでなく、園全体を囲った真っ黒な高い塀を撤去させました。1972年の施政権変換、沖縄の日本復帰にあたっては本土政府のらい予防の適用に抗って、ついに「特別措置法」によって在宅外来治療を公認させました。また本土においてはあり得なかった回復者の職員採用を認めさせました。そしてハンセン病医療を一般保健医療体制のなかに組み入れ、沖縄県全域の保健所の玄関窓口に表示される診療日程表に「ハンセン病診療担当 犀川一夫医師」と告知されるまでになりました。ここまでをほとんど独力で実現されました。

 予防法が廃止になったときの言葉が忘れられません。山縣有朋の邸だった椿山荘で廃止の記念式典が行われて、私も出席しました。玄関でタクシーを降りたら、ちょうどそこに犀川先生も降りてこられた。顔を合わすのは私が沖縄に行ったとき、先生のところを訪ねて喜ばれたとき以来でした。お互いにもっとも古くからの主治医と患者ですから、先生は「おお、永いこと元気でやっとるな!」と、久しぶりに肩を抱き合いました。

 そして会場まで歩きながら先生は、「いやあ、私も長島が好きだった。若いときあそこの果樹園の梅の木の下で一杯飲んだこととか、患者さんと一緒に勤労奉仕をしたことが懐かしいよ。予防法が今日のように、もっと早く廃止されとったら、きみらと一緒に長島におったのに。何年遅れたか」と言われました。

 その言葉を聞いて、やっぱり先生は私が思っていた通りだなと思いました。私としてはもう少し強く主張してほしかったのですが、恩師の考えを深く理解するがために、その恩師を裏切るような真似はできなかった。そのために大変苦しまれた先生でした。

 亡くなる三、四年前、犀川先生から愛生園に旧交を温めに行きたいという連絡があったので、先生を歓迎して親しかった人たちが集まりました。そこでは「私は遺言をしに来た」とおっしゃいました。その遺言とは光田先生の本心についての説明とご自分が愛生園を去った理由でした。

 ━━光田先生は本心から患者さんのことを思っておられました。この病気は深いから、特効薬ができたといっても十年たってみないと簡単には治ったとは言えないという信念をもっておられました。その頃、ひどい症状の患者を診察されたときに、「プロミンがある時代にまだこのような患者が隠れていたとは、これは我々医師の怠慢だよ」と涙を流しておられました。国会証言で、先生はそういう気持ちをそのままああいう言い方で言ってしまったのでしょう。

 その後、先生はお歳のことがあって勇退されました。私は十年たって、プロミン投与のその後の結果を身ながら、自分の意に染まない形で医療をすることはできないからと長島を出ました━━

 これを遺言として私たちに伝えたかったとおっしゃったのです。

 犀川先生は、国家賠償裁判では証人台に立たれ、原告側に極めて有力な証言をなさいました。私の生涯において、たまたまこのような先生と若いときに出会って親しくなったことは非常に印象深く心に残る出来事でした。


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プロミン薬禍による瀕死状態

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P126~P130抜粋

 
 私も1949(昭和24)年からプロミン注射を始めました。主治医になられたのが、私と生年が同じで3ヶ月違うだけという若い犀川一夫先生でした。先生も若いし、私も若くて、よく話をし、友達みたいに親しくしていました。先生についてもまとめて第五章「いのち明り」で述べるつもりですが、残念なことについ先年、亡くなられました。

 今思えば、先生にしてもプロミンは初めて使う薬剤なのでよくわからないわけです。それで「あんたは169センチ、68キロだから、午前中に3CC、午後2CCと2回注射を打つ」ということになりました。ところが打ち出して1週間したら寒気がして、10日を過ぎると、斑紋が潰瘍になって、頭の毛が抜けて、39度前後の高熱が出ました。衰弱は烈しく、入所者としてよく見ていたハンセン病の末期と同じ症状となり、いよいよ私も死期が近づいたと思いました。

 一番苦しんだときは、夜、呼吸が困難になりました。寝ていると鼻がつまって窒息しかかるわけです。呼吸ができない苦しさから逃れるために喉に穴を開けてカニューレを差します。園内には「失明10年、喉切り3年」という言葉がありました。カニューレを差すようになると余命が3年という意味です。

 私はちょうどその状態になったわけです。呼吸困難になると、家内は冷ましたお湯をヤカンから洗面器に移し、私はそのぬるま湯の中に顔を突っこんで、苦しいけれど鼻から吸うわけです。そうするとつまっている痰がぬるま湯でだんだんゆるんできて、フッと空気をやるとスポンと抜ける。そんなにスースーとはいかないけれど、ようやく呼吸ができて、これでやっと死と隣り合わせの状態から抜け出せました。

 この苦しさというのは末期症状そのものです。失明後の明石海人に「切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし」の歌がありますが、瀕死のなかで自分の状態を冷静に見つめて優れた歌にしていることに感嘆します。

 その頃には足も手もものすごく臭くなっています。斑紋が潰瘍になって、そこから膿がたくさん出てガーゼや包帯をするのですが、すぐに滲み出てきます。重病棟ではハエが追っても追ってもたかります。放置しておくと、ウジがわきます。包帯を取るとウジがいるので、つまんで簡易便器に捨てるのを習慣にしている人もいました。ポトン、ポトンと断続するその音は、趣味を楽しんでいるかのごとく聞こえます。私は衰弱していますから、ほとんど家内がやってくれました。

 ガーゼや包帯は洗濯して再生するわけですが、それも患者の重要な作業となっていました。洗濯は普通のお仕着せといっしょだったので、下着だけは自分たちで洗いました。すべてが付添いの仕事だったのですが、私の付添いは全部家内がやってくれました。家内には寒い時期、海に入って貝を取ってきて食べさせてもらったり、ずいぶん世話になっています。

 39.5度くらいの熱が続いたときは、呼吸困難の苦しみと全身の潰瘍、脱毛、衰弱に見舞われました。ハンセン病で一番最悪の重傷状態です。喉に大きな穴が七つも開き、膿が出ました。主治医の犀川医師は、「治らなければ結核の瘰癧、治ればハンセン病」と診断され、放射線治療を受けていました。私もたくさんの病人を見てきていますから、自分でも末期症状だとわかります。

 そのとき思い浮かんだのが北村くんという同年代の友達のことでした。作業からの帰り、病院に寄って、「おい、元気かい?」と見舞ったことがありました。すると彼が「加賀田くん、わしは今晩六時に死ぬわ」と言うんです。「バカなことを言うな。おまえ、何を言っとるか」と言って帰りました。ところがその夜、連絡があって駆けつけると、「六時に亡くなった」と言います。予言どおりに、本当に亡くなったのです。

 それからは人間というのは死ぬ時間まで分かるのかなと思うようになりました。私の命もあと一週間か十日と思って、このままたった一人の母になにも告げずに死ぬのはよくない、最期の知らせだけはしなきゃいかんと思い、約束を破って初めての手紙を出しました。

 母とは入園直前に故郷で会って、それから十三年、お互いにそのときの約束を守って音信不通で通して来ました。これまで偽名など使ったことはありません。本名で通してきたのですが、このとき初めて偽名を使って、母に手紙を書きました。1949(昭和24)年のことでした。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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