あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  石田雅男さん



夕映え讃歌

 あかねの空が海を染め、その燃え立つ色が紅葉した山林に点火しそうな晩秋の夕映えによく出会い、そして燃えに燃えている光景に大きな感動を覚えて眺め入った。
 過ぎ行く秋の日暮れの早さ、一日の短い時の流れ、それを惜しむような哀愁を示唆するように、限りない赤さで燃えているのではないだろうか━少女のような感傷を抱いて眺めたり、あるいは短い一日であればこそ、悔いなく過ごそうとしている謳歌の輝きなのか━とも思えて眺めることもある。そうした夕映えを私一人で受け止めているような気分の中で、遠いある日を思い出すのである。

 それは、軽症だった私が突然、らい性神経症に襲われ、初めておのれが病者であることの惧れを自覚し、らい患者であればだれもが等しく心に刻む暗い翳りを自らの心に刻み込んだ頃のことである。
 
 三ヶ月ほどの病床生活から解放された時、私の両足は下垂し、歩行困難な重症患者となっていた。それは今の今まで想像だにしなかった。自ら背負う病の重さ、らい者であることへの疼く痛みであった。そして、当然のことのように━こんな人間の生きる価値が何処に、生きてゆく日々の”はり”が何処に━。
 
 私の幾日もの時間は暗闇の中での手さぐり状態となって、それらしい生きてゆける目標を見出そうと努めた。だが、療養所に身を置く者でありながら、病者である「自分」を見つめることに全く盲目であった私には、何も見えるものはなく、ずるずると暗い底なしの闇をさ迷うほかはなかった。
 
 そんなある日、私は衝動的に長島の東海岸の岬にそそり立つ「楯岩」に登りたい心にかられたのである。
 
 「楯岩」はその名前のように武具の「楯」の格好で海から十数メートルの高さで聳え、その昔、風流を愛した万葉の歌人たちが歌に詠み、また源平合戦のさなか、南下する平家の武者も、それを追う源氏の武者もそれぞれの思いを胸にこの「楯岩」を眺めてすぎた、と聞く。
 
 見上げれば高所恐怖症の私が相手にできるシロモノではなかったが、私の心の何処かで本能的に湧き出る「死」への期待が高所恐怖症をも忘れさせ、ある種の勇気を与えたのだろう。ともあれ私は楯岩の荒々しい肌に頬ずりするような恰好で登っていった。
 
 高い所に登るには下を振り返ってはならない。子供の頃に聞かされた言葉が脳裏をかすめた。いくら「死」を覚悟し、期待すらしているとはいえ、私は無意識にそれを厳守していた。そして、どれほどの時間が経ったであろうか、かなりの所まで登っていることを意識した時、ある岩角に手を掛け力を入れた瞬間、その岩角は思いもよらない脆さで崩れた。それでも私が崩れた岩角と共に落下しなかったのは、不自由な足ゆえに動作が緩慢で、完全に離れ切っていなかったからである。
 
 一瞬、ギクッ!となったもののやがて落ち着きを取り戻し、用心深く岩角を確認して登らねばと自分に言い聞かせたが、結局は一歩もその場から動けなくなってしまった。何故なら、私が手を掛けた周囲の岩角は驚くほどの脆さで崩れたからである。
 
 これも駄目だ、これも・・・と焦り、手当り次第、岩角に手が動いた。しかし、すべての岩角はまるで私を見捨てたようにポロポロと崩れた。その落下する音が私を嘲笑するように響き、焦燥感と恐怖が胸に広がってゆくのを覚えながら、私は見てはならない下を振り返ってしまったのである。眼下は鋭い角を海から突き出した岩、それに呼応する白い波の牙が、今に落ちてくるであろう獲物を待ち受けているように映った。私は完全にその光景に飲まれてしまい、もはや登る気力も引き返す勇気も失せて金縛りに遭ってしまったのである。
 
 壁にへばりつく一匹の蛙のようになってからどれほどの時間が過ぎたであろうか。私がふんばっている足もとの岩角が突然動いたように思えた。だが、それは私の恐怖からくる錯覚だろうと思いつつも、全神経が足に集中すればするほど、足の小振るいがひどくなって止まらない。しかし、足元の岩を確認しなければならない。私はあるかなしかの勇気を出し、祈る思いでそれを見た。
 
 するとどうだろう、小振るいしているのは足ばかりでなく、現実に岩角は足の小振るいに合わせてまるで抜けかけた歯のように動いているではないか。肌が硬直し、血の気が岩肌に吸いとられてゆく恐怖に襲われ、続いて今度は「死」の直前にする清めのように全身に汗が噴き出した。流れる汗が「生」の終わりを私に意識させた時、涙がとめどもなく流れ出た。何の涙なのか「死」を期待すらして登ってきたはずなのに・・・。過去の思い出が走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。どれもこれも後悔に満ちた心残りするものばかりであった。
 
 健康な時から無意識のうちに見栄と外聞のために神経を労し、八方美人的な行動をしていた自分であった。それは生き方として好かれる一面はあるが、それでは自分らしさは何処にあるのか、自分は死んでいたようなものではなかったのか・・・。
 
 今までの生きかたが滑稽なほど哀れに思えてならなかった。私が流した涙はぬぐいきれない後悔の涙であった。こんな後悔を背負って死んでゆくのか、そう思うとたまらないほど、もう一度生きたい━という「生」への未練でいっぱいになった。
 
 これからの人生で後悔を少しでも埋めてゆけないか、そのための努力を払いたい。
 
 私は何時の間にか必死に命乞いをしていた。そして、この場をなんとかしなければ、と焦った。
 
 ここまで登ってきたのであれば、下りることもできる。自信を持とうと努めたものの死を恐れなかった登りに比べると、それは大変な相違であった。しかし、幸いなことに登りに労した時間の何倍もの時間を要しながら、私は無事に岩の下に戻ることができたのである。
 
 疲労が波のように押し寄せるなかで、見上げる楯岩は真っ赤な夕映えの中にあった。西空の雲を焼くような情熱的な夕陽と向かい合っていると、何時の間にか清々しい気分となって今までの疲労も恐怖も消えてゆくのを覚えた。
 
 あれから16年の歳月が流れた。
 
 思えば今日までに、私は随分と生き方が変わったように思う。少なくとも他人に繕う見栄とその虚像が消え、自分を縛ることもなく、正直にありのままの言動で日々を過ごしているように思える。それは反面、他人には好かれないかもしれない、だけど私は今の生き方が好きであり、過去の自分に比べて救われていると思っている。
 
 あの楯岩に登った日から私は「自分」をこよなく愛し、少しでも悔いのない生き方をと努める日々である。
 
 今年も、そして来年も、いつも私は夕映えのなかで自分を映し、自分の心を燃やしながら、あの日のことを忘れず茜空を賛美しようと思う。


昭和53年 2月「愛生」掲載
(石田さんが40歳の頃の作品です)



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長島愛生園  石田雅男さん


これは石田雅男さんが書かれた「凍てた饅頭」という創作作品です。少し長いので、「感動的な部分」のみにしようかと思いましたが、やはり全文を紹介しなければ意味がないと思いました。 途中から、俄然面白くなります。

現在80歳の石田雅男さんの40歳の時の作品で「愛生」に掲載されました。

鳥取と兵庫を結ぶ吹雪の戸倉峠を越えるシーンは、何度読んでも涙がでます。

還暦になった農閑期に石田雅男さんと出会ったことで、ハンセン病文学に導かれました。



凍てた饅頭

松の葉先に真珠の小粒を思わせる水玉が光っていた。そっと触れると、それは冷たい感触を残して流れ消えた。

木の間を透かして目の前に小豆島が大きく東西に横たわって見える、小高いN療養所の丘である。その小豆島は十数キロの遠くにあるとは思えない近さで映り、その西端に四国高松の屋島が文字通り屋根形の一角を思わせて小豆島の肩越しに覗き、一方の東端は西島と呼ばれる小島が墨絵ぼかしに浮かんで見える。

瀬戸の海は殊更に静寂な顔をよそい、空は白い部分と黒い部分が激しく張り合って油絵に見るような分厚く動く雲があった。

増尾一郎は、雨上がりの夕暮れにこの丘に登ってきたのだった。彼の家はこの丘から遠くない西の山裾にある四畳半が四室の長屋のその一室で、隣には彼より三つ年上の65歳の森浦常吉がおり、二人は仲良く老後を過ごしていた。それは毎日話らしい話もないのに話ばかり交わして、療養所の生活を代表するかのように何かを話し合っては過ごすのであった。

平穏無事な日々は結構なことには違いないが、二人の行動範囲も年々縮小されて、そこに必然的ともいえる世間的な話題との断絶が生じ、孤独と寂しさが日暮れの陰のように迫ってくるのを覚えてやりきれないものがあった。平穏無事な生活の中の唯一の苦痛は話題のない沈黙の時の流れであった。しかし、こうした沈黙の箱の中に閉ざされた時、決まって淡い陽が差すのは錆びた遺物ともいえる遠い昔の想い出である。そして、二人の会話は何度も何度も語られ聞かされるものとなったが、それでもお互いに抵抗も覚えず、一方が懐かしそうに昔を語れば片方はそれに相槌をいれた。仕方なく聞いてやっている。仕方なく話してやっているといった構えは二人にさらさらない。何度も聞かされた話であっても楽しい話は心から笑えたし、悲しい話には深刻になって、その都度新鮮な感情が動いた。こうして時が過ぎ、僅かに生活している実感が一日の暦をめくってくれればよかった。
「雨が降っちょるでどうにもならんが・・・」
晩秋の雨には珍しい激しさで雨は昼頃から降り出し、森浦常吉は屋根を打つ雨音を払いのけるように言いながら増尾の部屋に飛び込んで来た。
雨が降らなければ何かをするような口調であるが、何も予定はない。ただ増尾の部屋に入っていくには大人としての挨拶が要るように思っているのか、彼は必ず大きな声で入ってくるのである。それを増尾は何時の間にかノック代わりとして聞く習慣がつき、別段こだわりもしなかった。
「すぐと上がる雨じゃろ。お茶でも呑もうかね」
療養所の午前中は、治療のために医局を中心に行き交う患者がそれぞれに挨拶を交わし、会話の渦を作る。
それは森閑とした午後に比べて、まことに活気ある午前中と言えた。それだけに療養所の一日は午前中に終わってしまうようにも思える。
増尾も森浦も午前中は心弾ませ、まるで社交場へでも行く気分で治療棟へ足を運び、そこで他人の会話と動作に接し密かに退屈をまぎらしていたのである。しかし午後は怖いほどの退屈が待っていた。そうして何時の間にか二人にとってお茶の時間が出来、いまでは欠かすことの出来ない日課となった。
戸棚から専用の湯呑み二個を出し、湯ざましをかけて常用の玉露茶を注ぐ。若干の差であるが、森浦よりも増尾のほうが障害的には手指が揃っているだけ曲がりなりにも手の動きがよく、この場合の世話は増尾であった。
「どうぞ」と促して森浦と共に呑むのであるが、それぞれいっぱしの茶人になったつもりか妙に改まって呑むのである。一人用の小さい卓袱台に向かい合った二人の姿は、長いようで短かった人生の終着駅のような、あるいは浮世の片隅に設置された待合室とも思える侘びしい翳りのようなものがないではなかった。
「そうだ、饅頭があったんだよ」
そう言って増尾は戸棚から饅頭を出した。褐色の艶をたたえた栗饅頭はほこらしげに光っていた。
「森浦さん、饅頭は好きじゃなかったかね。今日買って来たんだけど・・・」
「・・・」
森浦は返事をしない。急に神妙な顔で饅頭を見つめるだけで、一向に食べようとしない。増尾は仕方なく自分だけ食べだしたものの、今日売店で買う時、お茶のあてに何がよいかを物色し、最初にこの饅頭が眼に入った。しかし、その時、一応森浦のことを思った。そして饅頭以外のものをとも思ったが、結局は森浦自身の好物である饅頭に決めた。自分本位で買ったことを嫌らしい行為として反省が湧いたもののどうしようもなく、それにこだわるとうしろめたい気分で饅頭も喉を通らないように思えた。
「森浦さんに悪かったね。そんなに嫌いなものとは知らなかったから・・・」
相変わらず森浦は虚ろな眼で、その視線は饅頭に向けていた。
「森浦さん、怒っているの? 何も言ってくれないけど・・・」
増尾は何度も声をかけ、話しかけたが返事がない。やがて我慢が出来なくて、大きな声で眼の前の森浦を呼んだ。
「・・・森浦さん!」
その声で森浦はひょいと顔を上げ、まるで夢から醒めたような顔だった。
「森浦さん、一体どうしたんですか?」
「うっ、うん、ちょっと昔を思い出していたんじゃ・・・」
「昔を?」
「ああ、この饅頭を見てな・・・」
「饅頭で?」
「増尾さんとは随分と昔話をやったが、饅頭の思い出話はまだ一度もしていないはずじゃ。忘れておったわけじゃないが・・・」
森浦は感慨深げに小さく呟いた。
「饅頭の思い出とはどんな・・・」
増尾には、森浦の呟きが大きな興味ある響きとして耳に入っていた。話題もなく、まして興味ある話なんて底をなめても得難い時に、誰にも話していない━の一言はたまらない魅力であった。
「森浦さん、聞かせてよ。・・・いまでも話したら不都合なこと? でなければ頼むよ」
増尾は迫った。
「・・・恥ずかしいというか、惨めというか、ともかくいやな思い出なんじゃ・・・」
恰好悪い昔のことなんでな・・・そう言いながら、それでも森浦は話す気配を見せた。増尾はまるで自分が興味津々の話をするかのように、喉の渇きを覚え、湯呑みの底にあった茶を口に運んだ。
「そうじゃね。あれは終戦の翌年、昭和21年の冬じゃった」

ライ病だ! 腐れ病だ!
石を投げられ追われるような屈辱と痛みを抱いて、兵庫の小さい山村を逃げ出した。
ライの病は、彼に隠し通せないほど顔面にどす黒い斑点を浮かせ、神経痛は口唇を侵し、しまりの無さが涎をおとさせた。その様子に家族や妻までが気味悪がって彼を避けるようにした。必然的に何時の間にか薄暗い納屋に閉じこもる時間が多くなり、それが当たり前のようにやがて暗黙裡に外出禁止となり、完全な納屋の住人となってしまった。小さい山村の人々は森浦の家族を避け、森浦の家族は彼を避けるようになり、彼は誰を恨むでもなくただ己を責めた。

━こんなことになるのだったら、いっそのこと軍隊に徴兵され、戦場で勇ましく戦死でもしていればどんなに栄誉であったか。あの時、村の仲間が次々と徴兵される中でわしだけが・・・。

薄暗い納屋で、彼はあまりの皮肉さに泣けてならなかった。そう、森浦は身長が不足で徴兵検査に失格したのだ。その頃、軍隊に入ることの出来ない男は人間でないほど侮辱された。

家族も世間的にはそう言って恥じるものの、それは周囲に対する付き合い上の愚痴であり、表向きの芝居に過ぎなかった。事実、森浦の両親や妻は、何が幸いするかわからんのう、と密かに喜び合ったのである。しかし、それも束の間のことであった。

「わしはそんなある夜、家族も妻も捨て、村を出ていく決意をしたんじゃ。それから夢中で村を飛び出して二年間、山陰地方で過ごした・・・」


山陰地方、それは日本海に面した鳥取県であった。
そこで、彼は二年間もの間、田畑の作物から海岸に干された魚などの盗み食いをして空腹を満たし、疲労した身体を安心して横たえたのは人気のない小さい寺か、海辺の潰れかけた物置小屋だった。

二年間の流浪の中で、幾日も野宿した彼にとって風雨の凌げる場が得られればそこが最高の褥であった。だが、疲労と空腹は毎日襲い、よたよたと歩く砂浜の道は重く何度もくずおれ、そのたびに白い牙をむき、大きくうねって押し寄せる日本海の波に恐怖して起き上った。

鳥取の冬は想像以上の雪国で家も木立も雪の下に征服され、木立ちは雪の下に雪のなすがままの恰好を見せ、それでも家は僅かに抵抗を示すかのように屋根の一角を天に向けていた。この白い静かな戦いとは別にこの時期の海は轟々と猛り、飛沫は高く白い牙は森浦まで呑み込む構えを見せた。それを意識した時、彼は今さらのように己の生の無意味、あまりの惨めな存在が哀れに思え、足元に流れつく瓦礫の一つを握りしめた。

二度目の冬、空腹と疲労を背負って鳥取と兵庫を結ぶ吹雪の戸倉峠を何度も何度も雪の中に転げながら、必死に峠を越えようとした。
「無我夢中じゃったが、あの時どうして兵庫の故郷に近い所まで来ていたのか判らなかったナ」
全く無意識の行動に思えたが、心のどこかに故郷を偲ぶ何かがその行動をとらせた。そして現実に故郷を間近に見た時、━どうしてここへ戻ってきたのだ━自分を疑った。山や小川を友にして過ごして数十年の故郷に違いないが、恋しい感情をあらわに表明し、諸手を挙げて縋り寄る身ではないのだ━こんな所へどうして今更!

それは惨めさの再確認のために吹雪の戸倉峠を越えてきたようなものである。

鳥取と違ってそこは雪が少なく、それでも十センチほどの積雪のある山野を穴のあいた藁靴をひきずり、故郷を思いながら雪の中を彷徨した。何処へ行くといった目的のない身体にはもはや気力も活力もあるはずがない。

もう駄目だ! そう思った時、彼の体内の力が恐ろしい勢いで抜け落ちその場に崩れてしまった。

どれほどの時間が経ったじゃろうか。わしは虚ろな眼で前方を見て眼をこすった。四、五メートルほどのところにぼんやりと何か紙包みのようなものが見えたんじゃ。わしは一瞬それが食物を包んでいる、と本能的に思えた。いや願っていたようじゃ。わしは犬のように四つん這いでそれに近づいた。多少の雪を被っていた紙包みに異常な期待を寄せて手に握った。震える手で開けてみると饅頭じゃった。饅頭が三個あった。直感は的中したものの、わしは何か信じられなくて辺りを見回し、再度饅頭を見つめた。今度はあっという間もなく口の中へ押し込んだ。黒砂糖を固めたほどの固い餡じゃったが、カスン、カスンと歯が割っていくと甘い味が口の中に広がった。わしは何度もその甘さを惜しみながら唾を呑み込んだ・・・。

こうして三個の饅頭を食い終わった時、僅かな生気が森浦に甦ってきた。すると、今まで忘れていたような凍てつく寒さを身に感じ、━これからどうする━と自らに問いかけた。

粉雪が舞っていた。「この雪の中でわしは凍死するのか。わしが死ねば誰が哀しみ、泪するのか。いやわしのようなものが死んだとてむしろ清潔な雪野原を汚した汚物ぐらいに思われて他人は罵るだろうよ」
森浦は、吐き捨てるように同情されたい感情を振り払った。真実、彼はマッチ一本の温かさでいいから人の情が欲しかった。ぼんやり眺める風景は何時の間にか視界を遮るほどの吹雪になっていた。
━このままでは本当に凍死するぞ━
彼は死の恐怖を覚えた。しかし、この時の森浦の死への恐れは、生きるために死を恐れるそれではなかった。白い雪の上で天刑病のなれの果てだと騒がれ、多くの野次馬どもに曝される、そんな恐れだった。
━こんなところで死んでたまるか━そう呟きながら彼はヨロヨロと起き上った。その時である。
「おい! 君!」
間近に吹雪を裂くような声が飛び込んで来た。ヨロヨロと起きかけた時だっただけに、びっくりしてまた雪の上に腰を落としてしまった。何時来たのか森浦は気付かなかったが、一メートルほど離れた所に人がいた。恐る恐る見つめると巡査らしかった。そして確かに巡査と判った時、森浦は反射的に逃げようと思ったが、心と身体は別で巡査に背を向けるのが精一杯だった。
「この雪の中で何をしておるのか!」
巡査は訝しげに迫った。
「お前、見るところ乞食だナ。何処から来た、こら、顔をよく見せろ!」
汚れた手拭いで頬被りをした顔を伏せ、巡査に背を向けていた森浦は、仕方なく恐る恐る巡査を見上げた。血色の失せた死人同様の顔面、その口から涎が糸を引いて雪に穴をあけている。巡査は一瞬ギクリとした表情で後ずさりした。
「実際に逃げ出したいほどに恐れたのは巡査のほうじゃったかもな。それでも職務上わしを浮浪患者として始末しよった」
この巡査の手続きによって森浦は強制収容させられ、今日に至ったのである。37歳の時であった。


「饅頭は当時をよく思い出させる。だから、何時の間にかわしは饅頭を避けるようになってしもうたんじゃ・・・」
森浦はそう言って話を閉じた。
増尾は聞き終って、自分の興味本位で要求した話は、森浦自身が一番触れたくなかった過去の屈辱の疼きであることを知り、申し訳ない気持ちで心が塞いだ。
「森浦さん。悪かったね。大変辛い思い出ばなしをさせてしまって・・・」
今度は増尾が神妙になってそう言った。
「いやいや、わしは最近になって思うのは、あの時の饅頭はひょっとして仏さんか神さんが下さったのじゃないかと・・・こう言うと年のせいだと思われるが・・・」
「・・・」
増尾は黙っていたが、ある意味で仏さんか神さんがくれたものと思えると言ったのが理解出来るような気がした。何故なら、その頃の日本はとてつもない食糧危機にあって、国民は一部の人を除いて大半が栄養失調と名のつく悲惨と残酷の海原にあった。生き抜くことの困難な時代のただ中にあって、森浦は病を背負って絶望の淵にいた。その時、饅頭を食べて少なからず生気の甦りを意識したと言った。そして運命が今日に至っているのではないか。

当時、この療養所も病と栄養不足が死への両輪となり、拍車がかけられていた。毎日数人の死者が出て火葬の煙は絶えることなく青い山間に昇った。そして、なおも葬りきれない死者が安置室に積み重ねられるといった想像し難い光景が現実だった。そんな時代に森浦は入所し、当時の患者に課せられた強制労働にも耐え抜いてきている。
小柄な身体であっても人生の重荷を背負った逞しい男として、森浦が映った。ともかく森浦の入所経緯に惨めな漂いがあるが、当時の古い入所者には共通する癩の憂き目である。増尾も森浦と同時代の収容であったが、増尾自身、森浦の話を聞いて、ああ自分は彼より倖せだったナ━と思える部分がある。彼は昭和24年、34歳の時に入所したが、それまで親の愛情をいっぱい受けていたように思えた。山口県の片田舎に生まれた彼は16歳の時、胸を患い、それはひどい喀血をした。村雀たちはたちまちに「あの家には肺病がいるから前を通る時は息を止めて走れ」などと囁いた。その後、戦争に行くこともなかった代償として人間扱いから外れ、24歳の時には「癩」を患った。親は大きなショックを受けた。とりわけ母は、━これほどの不幸、可哀想な人間がこの世の中にいようか━と親としての自責の末に床に伏し、増尾が島に来て数ヶ月ほどして世を去った。母子には何の罪もない。だが母はその優しさと思いやりのあまり生命を縮めたのだと、増尾は今もその思いに変わりはなかった。
「癩」を患ったことは親不幸と言えるが、森浦よりも倖せだと何処かで思えるのだった。
「森浦さん、嫌いでなければ饅頭を食べて下さいよ」
「ああ、食うかなあ」
「そう! それじゃお茶の入れ替えをするよ」
増尾はそう言って急須を持ち、勝手場に急いだ。増尾は心中、森浦のカラッとした表情に安堵を覚えて嬉しくなっていた。屋根を激しく打っていた雨も何時の間にか二人の話を密かに聞き入るような秋雨の雫となっていた。

瀬戸の海の静かなたたずまいを象徴するかのように「弁天島」がある。山の一角から転げ落ちたような一握りの小島、石砂利の参道がまるで海に浮かんで見える。先程まで話し合った遠い昔話の長患いにも似た思いを意識しながら、増尾はそこからの風景を見やった。
「癩」という重荷を背負わされた時、人生が終わったように思えた。確かに一つの人生は終わったが現実に生きてきたことはある種の惰性であったのか、そして、そんないい加減な生き方であらゆる困難、屈辱と妥協してきたのか。
いや、惰性で生きたとは思いたくない。何処かに生きることへの愛着、自分への愛しさ、それをなんとか正当化しようと努力してきたと思いたかった。
その増尾の姿勢は今日もなお続いている。一例を挙げれば、増尾は成人しても生きていくハリも目的もないまま過ごしていた頃、ふとしたことから一人の女性の息吹に触れ、それはやがて「愛」となり二人はグランドで向かい合った時、増尾は持病のような分別からその「愛」に一年と少々で終止符を打ってしまった。自分は40歳で、看護婦である彼女の23歳という年齢に対するギャップが、増尾の愛を押しつぶしたのであった。しかし、それが別離の後でやりきれない後悔となった。

今になって増尾はよく思う。━人生にあっては時に奴隷のような従順さで、悪魔の吹く笛であってもその調べに心ひかれれば、酔って踊れる人間でありたかった━と。それが人間をどれほど倖せにするか、増尾は「自分」という人間が自分が一番可愛がってきた筈だが最も「自分」を不幸にしてきたように思えてならなかった。

この増尾と比較して先程の森浦常吉は、「自分の力で生きてきたように思えても実際はそうじゃない。人間は常に何かに生かされていると思うんじゃ」
「生かされている?」
増尾は、意外そうにオウム返しで言ったのである。
「そうじゃ、お陰でこの療養所の考えられないほどの変わりようも知ることが出来た。患者も昔と違って人間らしく生活しとる。それに、ライ病も治って社会に出てゆくなんで信じられないほどじゃ。驚くことは最近、患者の若い人は看護婦さんと仲ようなって、社会で夫婦になっているそうじゃないか。増尾さんよ、考えられんのう・・・」
「・・・」
「まことに良い時代になったもんじゃ」
森浦は真底から今日まで生きてこられたことを、「生かされている」と解釈し、感謝すらしている口ぶりが老後の落ち着きを増尾に教えているようで、この年齢になっても何処か訳の分からない焦る自分の生きざまを情けなく思った。
一度の人生にあって少しでも悔いを残さないように努めるのは人間の常であろう。だが、それでもなお、多くの悔いを残すものなのか・・・。
黒い雲も白い雲も何処かに消えて、空は茜に燃えていた。瀬戸の海はそのしたたりを受けて赤く染まっている。その落日を眺めながら、「生かされているのか」と呟きながら、漁船が重いエンジン音を島影に残して消えてゆくのを増尾は見ていた


石田雅男さんの略歴
1936年  兵庫県明石市に生まれる。
1946年  10歳のとき発病、国立療養所「長島愛生園」に入所。
1999年  結婚、現在に至る。



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長島愛生園  宮島俊夫さん



猫の目


「この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です」と、藤本トシさんが書かれているが、宮島俊夫さんも左眼を失い、失明一歩手前の右眼にすがりながら、数々の作品を残された。

所要時間6分ほどです。


 ライ園の夫婦には、夫の断種手術のため子供ができないので、昔から子代りに、小鳥や猫を飼うことが盛んなようである。仔犬なども飼いたい希望が多いようだが、国家に扶養されている患者の生活に大食の犬族は無理で結局猫あたりが、手ごろな、長い療養生活の単調に添えられる、家族的景物となるわけである。戦争中にだんだん減り、終戦頃には彼らの殆どが、愛玩物から食品に昇格(?)して、主人たちの胃袋に消えてしまったが、三、四年前からまたぼつぼつ見かけるようになり、季節ごとに殖えて今では、たいていの夫婦寮で飼っている。夫婦寮ばかりでなく独身婦人寮のまわりにも、とびまわる色さまざまの猫が見うけられ、サカリ時ともなると、ニャオニャオギャアギャア、夜も眠られず閉口する。━━という私の所でも、家内が二年前貰ってきているのである。
 
 私は子供の時分から、あまり動物が好きでなかった。殊に猫というやつは、何となく気味が悪く、それまでついぞ触れたこともなく、ましてや飼ってみようと思ったことはなかったから、掌にまるきり納まってしまうほどの眼もまだハッキリあけきらぬ汚らしい仔猫を、家内がほくほく顔で貰ってきて寮の廊下に置いたとき、私は思わず眉をひそめて叱りつけたものだ。そんな私に構わず家内は、彼女の作業場である中央炊事場から、佃煮の空箱など二つも三つも持ち帰って、海岸から砂を運んだり古座布団の綿を敷いたりして、廊下の一隅に仔猫の住居をしつらえた。それから、ララのミルクを溶いたりお粥をたいたりスープを作ったり、与えすぎて下痢すると、今度は胃散だのわかもとだの、人に聞いたと云って砥石を削った粉だのを、むりやり仔猫の口へねじこんだり、一生懸命で、そんな小動物の世話が生活の一つの張りになったらしく、私は彼女の内なる母性の本能を見たような気がして、仔猫のそそうをうっかり汚いと云うこともできなかった。そして、何時までもこれくらいで大きくならなかったらいいのにねえと、仔猫をじゃらつかせながら家内は云い云いしたが、こいつの成長はおそろしく速く、二年経ったこの頃では、時折、可愛げのないエゴイスティックな相貌を示して、彼女の打擲を買うことがあるようになった。
 
 茶色がかった灰と白の、雄。なかなかの美男子で、その悧巧そうな整った顔立ちは近隣の猫たちの及ばない所である。飼主の贔屓目かも知れぬ。名は、家内がチイ公とつけた。生れ落ちた時から尻尾は短かく切れていて、やっと二寸ほどになっているが、チイ公ッと呼ぶと、その短い尻尾を、左右にひょこひょこ振るのが、滑稽である。私は猫の、あの長太い尻尾を好かぬ。チイ公の友だちが時々この部屋に遊びにくるが、太い長い尾を宙にゆらめかし振りまわし、くるくる呪文でも唱えるふうにゆり上げゆり下ろす恰好が、何か魔性の陰険な傲慢な感じがして厭なのだ。しかし、猫自身としては、尻尾は長いのが自然に違いなく、チイ公はその点不具者なのかも知れない。見ていると、確かに、チイ公の跳躍の際の姿勢に、どこかバランスを欠いた、間の抜けたような危っかしさが、よその猫に比べるとあるようである。だが私には、うちの猫のそんな感じが、おもしろい。ひょこひょこうごめかす短かい尻尾の形が、なんとも可愛いのだ。
 
 梶井基次郎は彼の一、二の作品のなかで猫を書いている。「愛撫」のなかでは、猫の耳に、改札係が使うあの切符切りで、パチンと穴をあけてみたいと云っているが、私も、ふッとそんな誘惑を覚えることがある。結核で死んだ彼は、その孤独な病床で猫と親しんだものとみえるが、一年三百六十五日の半ばを臥床に送らねばならぬ身になって、今では家内より私の方が、より深く、チイを引き寄せ愛撫するようになってきた。
 
 寝床に抱いてアゴの下をこすってゴロゴロ鳴る音をたのしんだり、ヒゲを引っぱってみたり、爪をかくした丸い蹠を唇に押し当てて見たり、竹の子の皮みたいな薄い耳を噛んでみたりする。前肢を私の胸に乗せたまま眼をつぶってじっとしている。おとなしいやつ。めったに鳴かない猫だ。歯に力を加えてゆくと、小さく鳴く。ゆるめる。鳴きやむ。また力を入れる。首を振り眼をあけて鳴く。甘えた悲鳴である。くり返し、私はそんな感覚を愉しむのだが、そのうち彼は、うるさい私から離れて床を出ると、前肢をふんばり、後肢をふんばり、背中を反らせて大アクビをし、障子の一番下の隅の枠から出て行く。そこの一枠の紙を切り取って彼の出入口にしてあるのだが、もう身体が一ぱいで、満腹したときなど腹がつかえて苦しげだ。一本桟を切って枠をひろげてやらねばと思っているが、吹きこむ風が冷たいので、もう少し、春まで待ってもらうつもりである。
 
 ところで、このチイ公が私にとって何より大きな存在に見えるのは、その眼の美しさに於てである。それは時々の光の加減によって、茶とも灰とも碧とも見えるが、朝、日のあたる縁に寝そべっている時など、瞳孔が糸のように細まった彼の眼の、紅彩のなんという美しさ!
 
 朝日を眩しげに吸い、撥ね返して輝やくその眼は、底の方にみどりを溶かした金色の紋理が、こまかく、妖しくゆらめいて、それは人工のどのように磨き上げた珠玉も、遠く及ばぬ美しさである。
 
 こんな下等の動物に、こんなすばらしい眼が与えられているなんて。━━愚かなことだが、私はしばしばこの不可解な感動をくり返す。造物主の御心にふッと疑問を感じながら、今朝も私は、チイ公の眼に自分の眼を近々と寄せてみた。
 
 私の左眼は、たび重なるライ性の紅彩炎や角膜炎のため、すでに四年ほど前、明を失った。右の眼は、左眼に何度もつきあいながら、失明一歩手前で踏み止まっているが、つねに毛細血管が赤く走って濁っている。明日は全く知れないのである。
 
 ライ患者には盲人が多い。私の古い友人の多くが明りを失っている。手足の末梢神経から次第に全身の知覚を侵されたあげく眼を取られるのだから、彼らは点字を探ぐることも不可能なのである。私たちにとって、せめて最後まで保ちたいのは、活字を拾うに可能な、最低限度の視力である。四肢切断されてダルマのようになり果てようと、眼一つ、終りまで残されるなら、生きてゆく力がそこに支えられてあるだろう・・・。
 
 私はときに、盲目の病友たちの生存が、私を脅かす得体の知れない怪物のように思えることがある。そして彼らは何のために生きながらえているのだろうかと、不思議に思う日がる。それは不遜な考えに違いない。そうなればそうなったで、現在の私が、罹病以前の健康だった私に考えられなかったように、加わる運命の苔に呻吟慟哭しつつも、人々は、奈落の闇へ降りる階段の一段一段を数えながら、いつとはなく現身の限界状況に順応し、その場その場に求められる何ほどかの感官の喜びを得たり、心的視野に魂をひらいたりするのであろう。しかし、やはり今の私には、全く失明しきった自分の姿は、想像できない。まぢかに迫った現実でありながら、いやそれだけに、強い抵抗を感ぜずにはいられない。片眼の衰えた視力に、私は必死にしがみついているのである。そして今朝、陽光を浴び、ながながと寝そべっている猫の眼の美しさに見入っていた私は、ふッと、滑稽な、熾烈な欲望に貫かれた。
 
 こいつの眼を、おれの眼と取り代えることはできないものか!
 一瞬、それは大真面目な悲願となって私の心に燃え上った。私の眼に、おそらく殺気がきらめき走ったのであろう、超然と構え、うるさげな眼で見返していたチイ公は、俄かに脅えた眼になり、すッと立ち上ると、短かい尻尾で私の鼻先を払って逃げて行った。


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長島愛生園  宮島俊夫さん


金看板


ライ園には深い友情もあったが、それとは逆に患者同士の深い反目や対立もあった。それは一般社会と同様であるが、閉ざされた空間であるだけに、より顕著に現れたであろう。

宮島俊夫さんは「金看板」を書かれて1年もたたない1955年(昭和30年)2月に亡くなられている。宮島さんの著作はこの他に「癩夫婦」、「檻のなかに」、「猫の目」がハンセン病文学全集に掲載されているが、この「金看板」を残してくれてありがとうと言いたい。

1953年(昭和28年)のライ予防法反対運動における「内部対立」は、加賀田一さんの「いつの日にか帰らん」にも書かれているが、それは、患者が一致団結して当局と闘った「長島事件(昭和11年)」と異なり、患者同士の内部対立であった。

このような対立は長島愛生園だけでなく、他の療園でも同じだったろう。

「自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです・・・(文中より)」





 ぼくは去年の秋、二た月ばかり患者自治会の評議員をやっていました。
 予防法改正運動が、園長胸像破壊やT君の自殺未遂事件などの副産物までもたらして、一段落ついたあとの改選で、非行動的な人間の部に属するぼくみたいな者がどういう風の吹きまわしでかひょっこり出されたのでしたが、就任早々から園長辞職勧告問題がおこってまことにどうもえらい目にあいました。ことはついに自治会閉鎖という事態にまで発展して、ぼくの評議員も二た月でおしまいになったわけですが、おかげで、ぼくはずいぶんたくさんの生きた勉強をさせてもらいました。
 人間について、人間の集団心理について、ライ園の封建制について・・・。
 ライ園は、人間の一つの狭い檻です。ぼくたち患者は、たくさんの拘束を受けています。第一に病気そのものによる肉体的拘束、次に、社会的行動の制約、そしてその上にもう一つ、物を考える精神の自由まで束縛されて、かろうじて生きてきたのです。
 予防法改正のぼくたちの運動は、これらの拘束の一つ一つを自分たちの力で打ち破って、癩園を明るいほんとの療養所にするための戦いであったとぼくは思っていますが、悲しいことに、ぼくの園では━━ぼくの園だけの現象ではないでしょうが━━あべこべに、自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです。予防法運動時分からそのあらわれがありましたが、園長問題に至って、じつに露骨に猛烈に出現してきたのでした。
「園長辞職勧告対策委員会」のやり方には多少まずい所がありました。もっと精密な計算と周到な用意がなければならなかったと思われます。その虚点に乗じたのが、「園長を守る同志会」だったのです。
 光田園長に対して辞職を勧告すべきか否か、━━最初の議題はちがいますが━━が、評議員会で一週間ぶっつづけて討論されました。
 ぼくは、いくつかの理由から辞職勧告をするのは現在のわれわれとして自然の行為であるという考えからそのような意見を述べました。M君やK君、その他数人とともにここをせんどと論戦したのですが、結局は数で大敗をきしました。それはそれでよいのです。充分に意見を述べて、━━これまで誰もこんなにハッキリ公然と光田園長を攻撃した者はなかったのです━━負けたことは、むしろ名誉の敗北だと、ぼくなどは思っていました。
 そして、この問題はこれで済んだのだと甘く考えていたのでしたが、同志会の人々は、どうしてなかなかそれだけでは済まされなかったのです。
「対策委員」全構成メンバーの氏名を公表させ、園内外に対して謝罪させる、と強硬に執行部へ申入れ、さあそれからが大変なことになりました。
「対策委員」の方では、がんとして名を出さない。われわれは何らわるいことをしたのではない。どこの法規にもわれわれを犯罪者とするような一行の条文もありはしない。そんな脅迫に屈服できるものか、というわけです。それで「同志会」はますますたけり立ち、園内平和と民主主義を守るためには、赤い連中を追放しなければならない、と全国的な著名運動をはじめたのでした。
 文化勲章をもらった園長を絶対者として、彼にふれることをタブーと心得たところの民主主義なのです。園長を守るためには過激な患者を追放して、園内を奴隷的平和にひき戻そうという平和運動なのです。いやはや、これにはまったく閉口頓首でしたが、彼らの署名旋風は園内を吹きまくって、ともかく八百人ほどが署名した、ということになっています。
「光田園長を守る同志会・・・」
 この大時代な、どこかこっけいなひびきをもつ名称の集団が、あれほどまでに力を持ったのはやはり「光田園長」という大きな金看板のせいであったのです。この金看板が、多数の患者を眩惑したのでした。老園長の頭のうしろからは、たしかに一種の神秘的な光がさしてくるようにかんじられるのです。気の弱い患者たちは、たいがいそれで参ってしまいます。赤のしわざだ、共産党の陰謀だ、との宣伝も大変効果がありました。
 それに、同志会の幹部や陰で采配をふるっていた人々は、つい近年まで自治会の重要な椅子に座っていた人ばかりで、彼らは長い年月をかけて園中に眼に見えぬ支配網をはりめぐらしていたのです。むつかしい一時帰省の口添えをしてやったり、作業の世話をしてやったり、女のとりもちをしてやったり━━それらはたいそう親切な結構なことなのですが━━して、いつの間にか多くの追随者をまわりにつくりあげ、いわば義理人情の封建的主従関係がそこに出来上がっていたのです。
 その頂点に立っているのがT君であり、T君を最も信愛しているのが園長である、といったら、あまりに簡単な言いすぎになるでしょうか。
 十一月七日の夜の評議員会で、ぼくは同志会の署名運動を非難したところ、酒気をおび足ごしらえ厳重に、大挙おしよせてきていた同志会の連中に、もすこしでひどい目にあうところでした。その夜T君が彼らのまん中にでんと構えて指揮していたことを、ぼくはちょっと忘れるわけにはいきません。
 「十一月七日のクーデター」と、ぼくは冗談半分によんでその夜を記念しています。自治会がつぶれたのはその三日後のことでした。
 とりとめもなく書いてきましたが、もとめられた枚数をすでにこえてしまいました。が、もう一つ報告しておきましょう。━━三月十五日からやっと始まった自治会再開のための総選挙が、四月四日に完了して、いよいよこの十五日ごろから事務所がひらかれることになりました。常務委員と評議員合わせて約四十名のうち、いわゆる革新派が評議会に十名、他はすべて同志会系の人々で占められました。昨年秋の役員は一人も入っていません。
 この選挙は双方猛烈に運動しました。そしてこういう結果になったのですが、ぼくは、けっして失望も悲観もしていません。というのは、紛争以来、人々の政治的関心がすばらしくたかまってきているのです。旧来の「政治なんかおえらい方に任せておけばいい」といった考えがなくなってきたことは、なんといっても一歩の、大きな前進です。
「対策委員」も「同志会」も、それぞれいまは自分たちの行為について反省しているはずです。そして、「すべてのもの相はたらきて益となる」ことを、その未来を、ぼくは信じることができます。ライ園のかなしい封建制は、日本という国の封建制の集約的表現なのでありましょうし、日本の社会が進歩しない限り日本のライ園もよくはならないでしょうが、しかし一応、あれだけ荒れまわったこの園の封建的感情は、ちょうど涙をこぼして号泣すれば心の悲しみが洗われるように、一種の浄化作用によって洗い出されたのではないかと、ぼくは思ってみるのです。
 いずれにせよ、ふたたび「金看板」をかつぎだして、患者の、人間としての自然の叫びを強圧するようなことは起らないでしょう。
 患者は患者同士仲良くしなければなりません。よく話し合えば、もともとわれわれの間に、根本的に対立しなければならぬような利害関係はないはずなのですから。
 昨年来の紛争を一場の喜劇として笑いながら双方が回想できる日を、ぼくは期待しています。


宮島俊夫(本名・峯野吉彌)さんの略歴
1917年3月16日、愛知県生まれ。県立中学校中退。1939年5月23日長島愛生園に入所。園内の「文章会」「創作会」のメンバー。「新潮」に1949年「癩夫婦」、1950年「レプラコンプレックス」を発表。『癩夫婦』(1955 保健同人社)。1955年2月15日死去。


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長島愛生園  加賀田一さん


加賀田一さんは短歌も俳句も川柳も詩も随筆も小説も残されてはいないが、ただ一冊「いつの日にか帰らん」を残された。

愛生園の「自治会会長」を何期もされているということは、それだけ人望があったということ。800人ほどの在園者の中から「選挙」で選ばれるから。

自治会会長でなければ見えない(わからない)視点が随所に垣間見える。

1936(昭和11)年に愛生園に入所されたが、その半年後に「長島事件」に遭遇した経験も大きかったと思う。

この本一冊で長島愛生園の歴史がわかると言っても過言ではない。ページ数も230枚で、字も大きく、内容がわかりやすく、読みやすかった。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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