私の墓
「いつの日にか帰らん」P162~P163抜粋
ここで私の墓について述べておきたいと思います。
私の家の宗旨は真言宗です。その本山の高野山南院にインドの若い僧が修行にこられたことがありました。そのお礼にと、ネルー首相から釈迦の仏舎利が贈られました。南院は仏舎利塔(パゴタ)を建立するために全国に勧進を求めました。当時のことですから、私が今のように故郷へ迎えられることなどまったく考えられず、私と妻の遺骨を仏舎利塔の納骨堂へ祀ってもらうことにしました。毎日、朝夕の勤行がありますから、これで母の心配も解消できると思いました。私たち夫婦の骨壺は全国の人のといっしょに並んでいます。
町民大会に迎えられた後、家族の理解を得て加賀田家の墓地に自分の墓標を建てることができました。その故郷の墓標には、「恭雲院徳風性昭居士 紫雲院浄月性則大姉」と併記され、「高野山別格本山浪切不動尊別当 南院内海大僧正書」と刻まれています。故郷の菩提寺の入江宥道住職から「立派な戒名ですが、どうしたご縁ですか」と聞かれ、南院さまのご好意であることを説明しました。また、郷里の女性から電話があって、「立派な墓標ができましたね。この世では同じところでは暮らせなかったけれど、次の世ではいっしょに暮らしましょうね」と言われて、郷里の温かさに感動しました。
これで私のお墓は愛生園の納骨堂を含め三ヶ所になりました。