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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  藤本トシさん




「地面の底がぬけたんです」の一部抜粋

誰か死ぬ日々=戦中



(7ページです)

戦争中の園の様子が手にとるように迫って来ます。藤本さんがその時代を生き抜かれたのも、たまたま偶然だった。たまたま生き延びられたから、すばらしい随筆が数多く残された。それは戦後、昭和23年の秋に失明してから書かれたものが多い。
『しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで、若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・』というくだりが「失明の項(近日中に更新)」に書かれています。



 ここは島だもんですから、なにもかもが不足だといったって、外から買うわけにはいかないのです。
 ですから、送金のあるお方はまだいいんですけど、送金のないものは全くみじめでした。ある人がない人に分けてあげるなんて、そんなことはできやしません。それはね、そう申しあげるとなんですけど、幸せに暮らしておられるお方だから、そういうふうに考えられるのでしてね。もうあなた、おしつまってから、あげたりもらったりなんかできません。自分のものを自分で食べなかったら、生きられないんですもの。それに、人さんが炊いたり買ったりされたものを、いただく方でもかなわないのす。お返しできるあてがあればいいですよ。だけど、いただく一方ってことはできませんでしょう。その時だけじゃあない、お互いずっと一緒に住むんですもの。だから、わけてくださらないというより、いただけないんです。
 それに、戦争中は、働ける人に優先的に特別配給があった時代でしょ。ですから、あたしたちみたいに不自由で働けないものは、どちらかというと、あんまり食べてはいけないというような、そんな空気ですから、不自由者にはますますものがまわってこなかったんです。
 園全体の食糧といっても、代用食ばっかりでしたけど。
 この、今の中道のあたり、もう足の踏み場もないくらいの畑でした。家の周囲はもちろん、作れるところはみんな畑でした。
 それでも足りないから草を食べるんです。あちこち生えてましょ、はこべやなんか。それはもう、草がこの島にまた生えるのかしらんというくらい取りつくしてしまって・・・ちょっと芽が出たら、すぐ取って食べちゃうんですもの。
 他の病棟からむしりに来なさったら、そこはうちの畑ですからって・・・草でもそんなふうでした。
 陸のものを食べつくせば、こんどは、四方が海ですから、 石蓴あおさを取ったり貝をさがしたり・・・もう一日中食べものをさがしにかかりっきり。
 どこの家でも、泥をこねた小さな竈を作りましてね、食べられるか食べられないかなんておかまいなしに、とにかく何でも炊きました。味つけは海水をじかにやって。
 塩なんて、そんな洒落たものないんですよ。ごくたまあに、二日分とか三日分のおかずだといって、サジにちょっとの配給でしたから。だけど、ここは四方が海で、そのぶんはずいぶん助かりました。
 塩は貴重品のひとつで、だんだんお金が通用しなくなりますと、物々交換になって来るんですけど、その時塩はいいんですよ。園内でも、個人で塩をつくっていた人もいたようです。
 それに、病者の中にブローカーみたいな人がいまして、外から買いに来る人に、いいものはみんな集めて売ってしまうんです。着物でもいいもの持ってる人もありましたけど、着物を惜しんで飢え死にしたらつまりませんものね。
 みんな食べものとかわって外へ出ていってしまいました。
 だんだん戦争がすすんでいきますと、園内でも翼賛会ひと色になってしまいましてね。聖戦貫徹ということで、社会から軍部や情報部の人がたくさん入ってきて、滅私奉公をあおるものですから、患者の方もいくらかおかしくなってしまって・・・こんな非常時に不自由な病者ということで何もできないのは、ただの穀つぶしだから、自決することがいま残された最後の御奉公だなんてこと言いだす人も相当でてきまして・・・大変でした。
 お医者さんも看護婦さんも外へとられていきますし、だいいち薬品がなくなっていきましてねえ、ひどいことになりました。
 早くいって待っている人だけが、ほんの少し受けられる程度で、繃帯やガーゼなんかも失くなってしまって、治療受ける人は自分で作ってくるように言われて・・・繃帯の配給のさいごのものは、たしかスフでした。それまでは天竺みたいなのも使ってました。
 あのスフはいけません。皮膚になじまないのです。巻いても、すべってすぐほどけるんです。知らないうちにほどけてしまって、医局から帰ってきた時には、どこにいったかありゃしない。だからって固くしすぎると傷をいためますし、再生がきかないようなものでしたけど、それさえも充分というわけにはいきませんで。
 終戦の前の年じゃなかったでしょうか、和製の新薬が出たことがあるのです。セファランチンという。あれが大変なものでしてね。あれを打っていく人も亡くなったんですよ。あたしどもは、世話いらんちんって、悪口言ったもんです。あたしは打ったことありませんでしたけど。
 いえ、希望じゃありませんで、診察した結果、この人に打とうってやったらしいんです。それがコロコロいってしまうんですよ。
 それまでも新薬とか特効薬とかってので効いたためしがなかったんですけど、あれは宣伝もたいへんなものでしたし、ひょっとしたらこんどはという気もあったんでしょう。乾性の人ではなしに、湿性の結節の出るような人に打ったみたいでした。

 あの頃はまた、食事が悪くて体力がないから、傷をしても治りが遅いのです。そこへもってきて薬も材料もないのですから、ほんとにあの頃はもう・・・。
 ひどいこともあったんです。わずかの薬を手に入れるために、物もちの人が看護婦さんを買収したり、逆に看護婦さんの方でも、患者の方に何かものを要求したり・・・配給の米を、どこかに貯めていて、嵐の晩に横流ししたり・・・。
 それも、桟橋のところに米がたくさん沈んでるというので、みんなが拾いにいきまして、これはどういうことなんでしょうということになって、やっとわかったことなんです。
 あそこまでいってしまうと、職員も患者も看護婦もなにも、もうありません。食うか食われるかのどんぞこまでいきましたら、もう人間の気持ってのは失くなってくるんです。
 ほんとに、とげとげしい時代でした。
 みんな栄養失調ですから、手足の傷なんかを悪くして切断なさった人は、ほとんど助かりませんでした。
 毎日誰か死ぬんです。こんどは俺の番だぞなんて、本人は冗談のつもりでしょうけど、それが笑えないような毎日でした。
 棺桶つくるにも材料はもうなくて、あそこにもここにもって、亡くなったまんまで・・・あたしなんかが今まで生きてるってのが不思議なくらいです。
 そこへもってきて赤痢がはやりましてねえ。敗戦になる直前でしたか。何でも口に入れたせいでしょうね。
 そりゃ、どのくらいお腹がすいたって、立って歩けないで這って歩きましたもの。それもしょっちゅう・・・。朝、目をさましたって意識が戻ってくるまで、だいぶん時間がかかるんです。待ってなきゃいけない。
 相当消耗してたんですねえ。
 あの時は、かかった人は一も二もなく亡くなりました。
 (昭和二十年の一年間だけで二百五人死亡)。
 もう焼き切れなくて、カマの中に入りきれなかったお方が、何体も何体も並べられてました。
 煙の絶えることがなくて・・・。
 ほんとによく生きていたものです。
 もう終わり頃は、それこそ何にもなく、海水をうすめて沸かした水ばっかり呑んでました。それでお便所にばかり通って、それも、さっき言いましたように這って。
 這って通うのも、昼間ならまだいいのです。ところが夜になると灯火管制でまっ暗で、どこに何ひとつの灯もないでしょう。手足に感じがないから、この病気には手さぐりってことがない。いくらさぐっても畳の上なのか廊下へ出たのかわからないのです、つらいことに。それでも、さぐりさぐり見当つけて這うんですけど、体力はないし我慢はないしするから、もう間にあわなくて、その辺でしちゃう人も相当いました。そこまでいったんです。死なないまでも、半死にの状態です。
 まあ、夜になれば灯がつくということだけでも、戦争が終わった時はホッとしました。



2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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