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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  藤本トシさん


光明園に帰る


昭和13年4月    外島保養院は邑久光明園として再
27日          建され、この日、岡山県邑久郡(現・
             瀬戸内市)の長島で落成式を行った。

昭和14年8月
    優生手術ワゼクトミー強制施行を決定

昭和20年6月
    国民義勇隊編成

昭和20年10月
   患者に選挙権が認められた

昭和21年1月
    患者自治会復活

昭和23年11月
   プロミン治療開始

昭和28年8月
    らい予防法改正案成立。
             反対運動は激しかった。



(2ページ半です)

 帰ってきたとはいっても、その時の光明園てのは、まだつくってる最中でしょう。来る日も来る日も作業の毎日でした。中道だって、今こそこんなにきれいですけど、ここは山だったところを発破で崩してつくったんですよ。そんなことは、最初の原田久作園長さんが、ずいぶん苦労して、それだけの予算をとって下さったんだそうです。
 なにしろ、まだ歩けやしませんでしたもの、帰ってきた当時は。舎が建つところだけは平らになっていまして、岩のかけらやなんか、みんなこの中道に放りだしたままでしてね。
 だから、目が悪い人もいい人も、不自由者もみんな、その岩のかけらの間に座り込みまして、ひとつひとつ拾って運びまして、海にすてに行きました。でも、あまり苦にはなりませんでした。自分たちの家を建てるんですから。みなさんもそうだったと思います。とにかくよく働きました。作業賃もなにもないんですけど。患者総出でした。
 あの、いま健康舎のある藪池のグラウンドね、あそこは以前は沼と田んぼで、葦が生えてヨシキリがいっぱいいたんですよ。田んぼといっても、あたしらが来る前に、社会の人がつくっていなさった田んぼでした。
 住むところはまだなく、食べものもひどかったです。あんまりなんで、どなたか、ハンストなさったお方が出ました(十四年十一月)。いえ、おとがめなんてありませんでしたでしょ。自治会の役員さんが辞めなさったくらいじゃないですか。役員さんが辞めなさるのは、それはなんでもありません。楽になったってくらいのもんで。
 いえ、自治会は、光明園ができてあらたにつくったんじゃありませんでね、外島の時の、村田先生の時のがそのまんまなんです。ですから早かったんです。ですけど、それで村田先生が八方から叱られなさったんです。また患者自治会を許したっていって。
 住むところといえば、どしたって官舎が先に建ちましょ。その職員の住居地を板塀で区切りましてね。板塀といってもほんとの塀じゃありませんで、二分板をずっと並べて縄でからげてありました。むこう側が職員の家族の方々で、こちら側があたしたち。
 患者って変なものでねえ。健康な家族の方が何をしているだろうと、その隙間から覗くんですよ。覗いてみたってしょうがないのに、赤ちゃんにオシッコさせたり、おんぶしたり、小さな子がなんだかして遊んだりしているのを見るのが、珍しくてしょうがないんですよ。こちら側には、子どもってものがありませんのでね。それをじいっとながめているのはやっぱり女の人が多くて・・・男の人はどっちかっていうと、無関心ですね。
 そういうふうで、まだなんにもできていなくて、仮小屋ずまいのような毎日でしたけど、活気はありました。あちこちに別れ別れになっていた者同士が、四年ぶりに帰ってきたんですもの。お医者さんだって看護婦さんだって、外島の時の人たちがほとんどそのままでしょ、それで、自分たちの園をつくろうってんですから、もう、つらいのも何も忘れてやりました。
 ところが、やっと形ができはじめたところで戦争になってしまいまして・・・。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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