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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  藤本トシさん



外島保養院時代(一部抜粋)




4ページ(1ページは525字)です


 そういうとなんですけど、園長さんの方針で、園の暮らしはずいぶんかわるものなんですよ。あたしは、大水で外島がなくなってしまってからは、東京の全生園にあずけられたんですけど、まあ何とちがうことかとびっくりしました。それに外島では、家から送金のない人には一円三十銭下さったんですけど、よそでは五十銭だか六十銭くらいでしたからねえ。
 よそに行ってはじめて、村田院長先生の偉さがわかりました。
 たくさんの著作がありましてね、その印税とかってものがくるんですよ。それもみんな患者のためにお使いになってでした。
 夜学もありましてね。あたしは小学校の高等科を出ただけですから、あそこで三年間教えていただいたのが、どれほどのはげみになっているかわかりません。だいたい、あたし、学校が好きなんです。雨が降ろうがどうであろうが、とにかく夜学がある日は一回も欠かさず行きました。精勤賞をもらいましたよ。
 生徒数は、はじめは六十人くらいいたんですが、だんだん減っていって・・・だけどあたしは閉校になるまでがんばって・・・科目は、ひと通りなんでもありました。哲学とか考古学も。哲学の時間は、いねむりする人が多かったようです。
 ほんとにねえ、大水とあの事件さえなければ、村田先生も・・・いえ、赤化追放事件っていわれてるのがありましょ、昭和八年の。あれで結局村田先生はやめることになるんですものねえ、ほんとに。


赤化追放事件

 今から思えば何でもないことですけどねえ。アカでもなんでもないのに・・・。最初はただ、いく人かのお方が、宗教を捨ててしまったというだけなんですよ。ひとつの礼拝堂に、キリスト教とか日蓮宗とかの六つの宗教が祀ってありましてね、患者はみんないずれかに属してたんです。それをあの人たちは、それまで入っていた宗教から自分を抜いてしまわれて、それが、宗教理事会との問題になって・・・たしかそうでしたね。

「指導者というか、そんな人がいてな、京大かどこかで社会主義の運動をしていた人で、長島に入ったんや、長島愛生園に。それがわかって追放されて外島に来たわけや。その人を外島に入れるか入れないかという問題が起こったけれども、村田院長は腹の太い人やし、入れたんや。反対もずいぶんあったらしいけど。赤化運動はしないという一札を入れてな。
 それで、しばらくはおとなしゅうしとったけれども、そのうちにいろいろなグループ活動を始めたわけや、ライ問題研究会やとか。そのまわりに、いろんな若い人があつまったんやな。中心になっていたのはその人と、あと四、五人やったと思うけど、結局、全部では十七人が追放されたわけなんや。秩序が保てんということで。
 追放てなことになる前に、そのいちばんの中心人物は亡くなるんやけど、ふつうならお葬式には患者もみんな出るんやけど、その時は、その人の支持者と導師だけで、他の人は出なんだんや。そんなこともあって、特に宗教理事会の方では、これは何とかせないかんと言うようなことになって、とうとう出てもらうことになったんやな。
 しかし、また一方では、時代ということもあったんやないかなあ。社会でも、昭和八年というと、いろんな、そういうことがおこっていた頃やからな。
 ともかくそんなわけで、出てもらうことになったんやが、それが、伝染病患者を出したということで、大阪で問題になって、結局そのいざこざで、村田院長が責任とらされて、やめなあかん結果になってしもうたんやね」

 村田先生はあんなお人でしたから、たいていのことは呑み込める人なんですけど、あの時は、患者とか宗教理事会の方がやかましかったんでね。しかたなかったんだろうと思います。
 たしかに、あの人たちとは、一時あたしたちと、気持ちの上ですこうし離れていたという感じはありましたけれでも、何か悪いことをしたわけじゃなしねえ、何も追放というようなことをしないでもと思いましたよ。
 あたしが、友だちと二人で身延から外島に来たって言いましたでしょ。その友だちも、それで出たんです。女の人はその人一人でしたけど。いまは草津の療養所で元気にしているそうですけど。だけど、あの壮健さんみたいだった人が、いまはもう盲人で、杖をついておられるそうです・・・・。
 そのことがあったあくる年が、大水です。あれでなにもかもおしまい。外島の全部がなくなったんですからねえ。あたし、書いたものにもございましょう。ほんとに恐ろしかったですよ。たくさん亡くなりましたものねえ(六百十名中百八十七名死亡)。
 遠いところへというんで、みなさん土手の上へ出て、大阪の方へ逃げなさったんだそうですけど、足がよくて遠くまで行った人ほど亡くなったんです。大丈夫だと思った土手が切れたりして・・・まわりは田んぼでしたが、そっちの方へみんな流されてしまって・・・。
 足も悪いし、もう半分諦めて、職員部屋のところにかたまっていた人とか、正門の方に逃げた人とかが、そこだけちょっと高くなってましたもんで、かえって助かったようなことで・・・子どもさんも亡くなりました。ほんとにねえ、健康な人ほど亡くなって、不自由なものほど、動けずにいたものほど助かるなんて・・・。

(注)外島保養院は明治42年4月1日、第三区連合府県立・外島保養院として設立された。12府県の連合で、敷地は大阪府西成群川北村(現・神崎川河口付近)に2万坪で、定員300名だった。初代院長は今田虎次郎。4月20日に収容を開始した。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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