あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  北條民雄さん


ハンセン病に少し興味のある人なら「北條民雄さん」はご存じかも知れない。それくらいハンセン病文学者の中では著名である。

ハンセン病文学全集4(記録・随筆)のP587~P590を抜粋しました。

「だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味であっても、人間にとっては必要であるかも知れぬ・・・」


又か、ということ

 近頃人に会うと、もうそろそろ癩を切り上げて健康な小説を書いてはどうかとすすめてくれることが多い。そのたびに私は、ああそのうちに書きますよ、と答えておくのであるが、しかし本当のところを言うと、まだなかなか癩から抜け出ることなど出来そうにもない。いや、抜け出ることが出来ないというよりも、反対に、もっともっと癩小説を書くぞ、とひそかに肩をいからせるのだ。それは私自身が癩であり、毎日癩のみを眺め、癩者のみと生活を共にしているため、では決してない。私の眼には二千年の癩者の苦痛が映っているのだ。この長い間の歴史的存在を、僅か三つや四つのヘッポコ小説でけりにしてしまって、それでいいのか、と私の頭は考えねばいられないのだ。そう考えたが最後、又か、と言われようが、ジャーナリズムからロックアウトされようが、読者が一人も無くなろうが、歯を喰いしばってもここからそう簡単に逃げ出してはならぬと新しい覚悟が湧き出して来るのだ。

 無論私も健康な小説が書きたい。こんな腐った、醜悪な、絶えず膿の悪臭が漂っている世界など描きたくはない。また、こんな世界を描いて健康な人々に示すことが、果してどれだけ有益なのか。少くとも社会は忙しいんだ、いわゆる内外多事、ヨーロッパでは文化の危機が叫ばれ、戦争は最早臨月に近い。そういう社会へこんな小説を持ち出して、それがなんだというのだ。━━こういう疑問は絶え間なく私の思考につきまとって来る。
 実際私にとって、最も苛立たしいことは、われわれの苦痛が病気から始まっているということである。それは何らの社会性をももたず、それ自体個人的であり、社会的にはわれわれが苦しむということが全然無意味だということだ。猛烈な神経痛に襲われ、或は生死の境で悶える病者の姿を描きながら、私は幾度筆を折ろうとし、紙を引き裂いたことであろう。自分の書いた二、三の記録や小説も、嫌悪を覚えることなく書いたものは一つとしてないのである。

 そしてこれはものを書く場合のみではない。自分の生の態度に直接ぶつかって来るところのものである。
 生きること自体意味ない、自分の姿を眺めながら、真実そう思わねばならない時の気持ちというものは、決してそう楽しいものではないのである。
 私は時々重病室の廊下をぐるぐる巡りながら散歩する。そして硝子越しに眼に映って来る重病人の群を眺めては、こうなってまでなお生きる人々に対して、一体私は頭を下げることが正しいのか、それとも軽蔑することが正しいのかと自問するのだ。なるほど、これらの人々は苦しんでいる。人生のどん底でうめいている。しかしそれが何だと言うのだ。これらの人々が苦しもうが苦しむまいが、少なくとも社会にとっては無関係であり、ばかばかしいことなのだ。
 私は今、これらの人々、という言葉を使用した。しかし勿論この言葉の中には私自身をも含めているのである。私もやがてはそうなって行く。小説など勿論書けなくなるだろう。幾年か後には、自分もまた呻きながら苦しみもだえることであろう。私にはちゃんとそれが判っているのだ。しかも私は、そうなった時の自分の姿を頭の中に描き、視つめながら、なんと笑っていなければならないのだ。そういう姿を自分の中に描いた時の自分のとるべき心の態度は、ただ一つその苦痛する自分の未来の姿に向って冷笑を浴せながら、じっと苦痛に身を任せているより他にないのである。
 「兄弟よ、汝は軽蔑ということを知っているか。汝を軽蔑する者に対しても公正であれという、公正さの苦痛を知っているか。」
 ニイチェはかつてこんなことを言ったそうであるが、私には公正さの苦痛というものがよく判る。

 なるほど、生きるということは愚劣だ。人生はどう考えても醜悪であさましい。この愚劣さ、醜さ、あさましさにあいそをつかして首を縊ったり海に飛び込んだりした者は決して少なくない。しかし、私はここで呟かずにはいられない。愚劣な人生にあいそをつかして自殺をした人々の死にざまのなんと愚劣なことか!と。
 全くそれは愚劣なものだ。私はもう何度も縊死体というものを見たことがあるが、実際見られたものじゃない。主要なことは人生の愚劣さを知ることではなく、自殺の愚劣さを知ることである。
 例えば、私が首を縊ったとしても、癩者はやっぱし生きているのだ。もし私が死ぬと同時に、彼等もまた死んでしまうなら、私の自殺は立派である。が実は、私が死んでも人々は知らん顔して生きているのだ。この故に私の死は愚劣になる。デカルトは「我思う故に我在り」と言ったが、実は「他人思う故に我在り」の方が本当なのだ。
 それならもうどうしても死んではならぬ。生きることがどんなに愚劣でも、自殺よりはいくらかましなのだ。じっと耐えているより致し方はない。生き抜くなどと偉そうなことを言ってはならない。ただ、じっと我慢することだ。そこには愛情という意外な御馳走があるかも知れぬ。

 だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味であっても、人間にとっては必要であるかも知れぬ。



2030年 農業の旅→ranking

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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