あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  東條耿一さん(3)



夕雲物語 其の一


 リノリウムには先刻から朝日が溜ったり跳ねたりしているのに、いくら揺り起こしてもお父さんの返事がない。よっぽど眠いのだろう。と暫く枕頭で待っていると、付添夫は黙って眠っているお父さんを担架に乗せ、解剖室へ連れて行ってしまった。一体なにごとが起きたんだろう、と蟻子は小さい胸を痛めたが、いつの間にやら忘れて遊び呆けてしまった。夕方になってふと思い出し、解剖室へ行って重い扉のすき間からそっと覗いて見ると、確かに台の上に寝ていた筈のお父さんの姿が見えず、そのかわり白木の大きな箱がちょこなんと座っている。それならきっと何処かへ用事に行ったんだろう。とその日は帰って寝てしまった。

 翌る朝。お父さんのお骨上げですよ。と保母さんに連れられお友達と一緒に来て見たが、火葬場にもやっぱりお父さんの姿は見えない。さては厠の中へでも墜ちているのかしら。とすくなからず心配した。見ると保母さんもお友達もみんなしくしく泣き乍ら灰皿のきれいに焼けた骨がらを拾っているので、ではお父さんは本当に死んでしまったのかも知れない。と初めて悲しくなったが、心の中ではきっと何処かに隠れているに違いない。そうして不意にわたしを吃驚させるおつもりなんだわ。と考えられ、手にする骨がらも貝殻のように美しく見えてくるのだった。

 帰ってから病室の厠の中も探して見たが墜ちてはいない。これはいけないぞといよいよ心配になり、それからは思い出す度に病院じゅうを尋ね廻るのだったが、お父さんは何処にも見えず、彼女はしみじみひとりぼっちになったことを感じ、淋しくなるばかりであった。

 ある日、望郷台へのぼって西の空いっぱいに流れている夕雲を見ていると、雲の形がさまざまに変わってゆくので、すっかり面白くなって見惚れていた。子どもを抱いたヒグマになったり、お伽噺に聞いた海の中のお城に見えたかと思うと、もう青い堤の向うに耳だけ出して隠れたつもりでいるらしい兎になったりした。はては人の様になり、優しい眼まで出来てそれは次第に誰かの顔に似て来た。蟻子は思わず、お父さんだ。と叫んで、まがった指も伸びてしまうほど空いっぱいに両手をあげた。雲の中に隠れてしまったんだもの、いくらさがしてもわからない筈だった。と思い、それにしてもどうしてあんな所へ行ってしまったのだろうと不思議になった。すると、急にお父さんとの間に遠いとおい距離を感じ、お父さんのバカ、お父さんのバカ。と小さく呟いた。あまつさへはるか彼方の山脈の上に一つ星がきらきら輝きそめると、望郷台にはせうせうと冷たい風が流れ出し、ようやく見つけたお父さんの姿も、見ているうちにひっそりと灰色の闇の中に沈んでしまったので、蟻子はとうとう声をあげて泣き出した。



2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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