3時50分頃から10分間ほどだったが、強い夕立があった。10分間のシャワー雨は、1時間半のエンジンポンプによる潅水より効果的である。
今日は1日曇天だったが、雨はあまり降らなかった。明日も曇り雨のマークがあるが、もう少し降ってほしい。
明日は芽キャベツ、キャベツ、ブロッコリーの種播きをする予定。例年、8月14日に播いていたが、芽キャベツは7月中に播いた方がいいらしいので、2週間早める。
エンサイとツルムラサキの挿し木であるが、エンサイはほとんど活着したが、ツルムラサキは3分の1ほどしか活着しなかったので、すべて抜いて、別の場所に定植しなおした。不足を挿し木で追っかけるのはやはり不便で、時期的にもよくない。
ツルムラサキを抜いた場所に今季最後の地這いキュウリを定植した。
来春の巣箱置き場予定地の雑木を少しずつ切り倒しながら、ヤギに与えている。「ヌルデ」を与えたら、樹液でヤギの口のまわりがこっけいなほど黒ずんだ。
以前にも朝日新聞に登場していた村崎太郎さん。今回は「おやじのせなか」というコーナーで登場だった。
この親にしてこの息子という感じである。
書かれていた内容を一部抜粋して原文のまま掲載します。
『父は部落解放の運動家でした。山口県の被差別部落の出身で「貧しさから抜け出すには、部落を改善しなければ」と立ち上がった。世話好きで、市議も務めました。
私が高校2年の正月、父に「太郎、猿まわしにならんか」と告げられました。「ロマンのない人生はつまらん。猿まわしには千年の歴史がある。努力し、差別をはねのけ、部落が誇るスターになれ」と。
民俗学者の宮本常一さんや俳優の小沢昭一さんが家に出入りして、父が伝統芸能を復活させようとしているのは知っていました。大学受験をするつもりで勉強していたのですが、「やります」と答えました。
父は「周防猿まわしの会」をつくり、初代会長になった。熊本県の阿蘇に悲願の劇場を建てた翌年、56歳で急逝しました。猿まわしを残して人生を終えるんだと言い、夢をかなえました。あまりに若く、息子としては残念でしたが、命を燃やし、父こそがロマンに生きたのだと思います。
猿まわしの復活を試み始めた時、父は「世界に飛び込め。苦しい時には一歩、足を前に出すんだ」と言っていました。部落出身だと明かしたことを父が知ったら?
「お前はやはり、そう生きたな」と言ってくれるでしょうか。』
略歴
村崎太郎 49歳 猿まわし師。17歳で猿の次郎とコンビを結成し「反省」のポーズで人気者に。2008年に被差別部落出身であることを公表。妻の栗原美和子さんと6月に「橋はかかる」(ポプラ社)を出した。
村崎さんの著書「橋はかかる」は、映画化もされた「橋のない川」という著書を意識されたものだと思う。
小学校の時に講堂で「橋のない川」という映画を見た。映画の前の先生の前口上が長かったので、何か特別の映画なのかなあと思ったが、その時はその理由がわからなかった。理由がわかったのは後年になってからだった。映画のすじも忘れてしまったが、なぜかあの時の雰囲気だけは覚えている。
「苦しい時は一歩前へ」という言葉が強く記憶に残ったが、そんな思いに至ったことがないのは、自分がまだ村崎さんの父親ほどの苦しさを経験していないからだと思う。