あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

”晩婚”五周年━━雨の日も晴れの日も二つ割り

石田雅男さん「隔離という器の中で」P129~P137抜粋


 平成11年5月22日、私たちは結婚しました。私が62歳、妻は49歳、13歳違いの夫婦の誕生でした。

 入所者の平均年齢76歳という療養所の世界では結婚ばなしも縁遠く、私たちの結婚は25年振りの目出度いでき事として多くの友人知己から祝って頂きました。

 早いものでそれから5年が経ち、私たちもそれなりに落ち着いたベテラン顔を見せながら日々を過ごすようになりました。

 5年間を振り返りますと当然のことながら、夫婦であっても人格をもった人間が二人一緒に暮らすのですから、何度も考え方の相違と虫の居所が悪い時には、主張合戦も交えました。

 私たちが一緒に暮らすことになりましたのは、年齢的に人生の後半に至っていることで、決心しかねていた私たちの背中を押してくれたように思います。

 一般的には年齢についてある時期を過ぎますと、この齢になって今更・・・と結婚を煩わしく考えられる人が少なくないと思いますが、私たちはその反対側の思いから結婚を決意しました。確かに煩わしく思うことも喧嘩のような口論もしましたが、その一方では何かにつけて助け合う二人として孤独な状態を避けることも出来ました。人間とは寂しい生きものなのか。年々加齢するほどに人間関係が煩わしく思え、部屋に閉じ込もりがちになり、やがて孤独という枠の中に身を置くケースをよく見かけます。しかし、私たちは身体障害者ですので、肉体的にも精神的にも弱い人間として、励まし合い、助け合うことが最も必要なことと思い結婚しました。このように思って結婚しました私ですが、一つだけ時折複雑な思いに心が揺れることがあります。それは、今は亡き両親のことです。私がハンセン病を患い、「長島愛生園」に入所しましたのは昭和21年、10歳の時でした。両親はよく面会に来てくれましたが、私が20歳を迎えた頃を境に、面会の度ごとに両親と私の結婚について口論を交わすようになりました。

 母は「子供を産むことのできない結婚は反対や、雅男には療養所を出て結婚してほしいんや」。

 父は「たとえこの療養所の中でも、雅男に好きなひとができて、その女も雅男のことを思ってくれるなら結婚するのもいい、雅男の自由だ」。

 この頃の私には”結婚”ということに全く関心がなく、何故か縁遠いものに思えていましたから、うんざり気味に眺めていました。しかし、今にして思えば父の言葉も母の強く反対した気持ちも真剣に私の結婚、私の将来について考えてくれたことであって、両親の温かい思いが痛いほど理解できるのです。

 同時に他人事のように構えていた当時の私の態度を思い出し、両親に対して申し訳なかった、と神妙に反省もしました。

 療養所内で結婚が許可されて、多くの入所者は結婚しました。隔離の厳しい時代では所内結婚は逃走防止、療養所への足止めとして隔離の徹底の象徴のようにも思えます。考えようによっては不幸にして「らい」に罹り、隔離の身となった者たちが終の棲家として、この地で過ごすなかで同病あいあわれむに愛が加わり、互いに励まし合い支え合う、善意に解釈すればこのようにも考えられる所内結婚でもあったのではないでしょうか。いずれにしても所内管理者にすれば入所者の逃走防止と落ち着いた生活につながるといった一石二鳥のようにも思われます。

 私の結婚に熱い思いを抱いた両親は、もうこの世にはいません。両親の会話を聞かされてから数十年、結婚に縁のなかった私にも「結婚」の二文字が、まさに遅まきながら頭の中に棲みつき、結婚について考え、そして結婚しました。これからの人生に残されている時間は多くはない、お互いに生きてゆくことに不器用な者同士ゆえに晩婚となってしまったのかもしれない。それだけに二人して力を合わせて時間を大切にしてゆこう、笑うことも泣くことも、雨の日も晴れの日も二つ割りで共有して暮らそう、これを心がけて今日に至っております。

 私の両親が生きていればどんな会話をするだろうか、口論ではなく、きっと心から喜んでくれるに違いない、そして、私たちの歩みを灯台の明かりのようにして見守ってくれているような気がします。

 また私たちの結婚で大きな収穫となりましたのは妻、懐子なつこの母のことであります。

 結婚して間もなくして私は懐子に、「お前のお袋さんはどうしているのかなあ、元気で生きておられるかなあ」と、母のことをどう思っているのか、私も気になっていましたのでそれとなく尋ねました。母と音信が絶えて三十数年、逢いたい、しかし何処にいるか分からない、もしかして生きていないかも・・・母を慕う思いと諦めのようなものが懐子の胸に交錯していることを知りました。懐子の母が生きているかどうか分からない状態で時を過ごせば、きっと大きな後悔をする。そう思った私は、「懐子、お母さんを探そう、私たちのお母さんだよ」。

 私たちは早速、懐子の出身地である山口県に問い合わせをしたり、当時の県予防課の担当官を探したりして協力を求めました。そして、半年ほど経って元担当官の方から、「お母さんの居所が分かりました。お元気でお兄さんご夫婦の元で暮らしておられます」と嬉しい連絡を頂いたのです。

 懐子は泣いて喜び、私も胸が熱くなり、元担当官の方のご努力に心から感謝し、お礼を申し上げました。

 そして、次は母からの連絡を待つことになりましたが、母のほうにも躊躇するものがあったのか、一ヶ月経過しても連絡がなく、妙な不安にかられていた頃、母から電話が入りました。

 懐子にとっては、32年振りに聞く母の声でした。

 そして、翌年の平成12年の春に母は愛生園にいる私たちに逢いに来てくれました。三日三晩、母は懐子の子どもの頃の話、発病した11歳の懐子を愛生園に連れてきて、懐子を愛生園に残して帰った時の悲しく辛かった話に終始しました。また、懐子も子どもの時に母と祖母に連れられて愛生園に入り、自分を置き去りにして帰ってしまった母を恨み続けながらも、成人してからは「らい」に罹った自分も辛いけれど、親は親でいろいろと世間体もあって辛い思いをしたことだろう、そう思えるようになってから、母への恨みは何時しか消え、母の立場に重きを置くようになっていたようです。

 母の消息が知れた時、母は再婚もしていなかった。そのことが懐子にとっては自分のような子がいなければ再婚したかもしれない、そうも思えた。懐子が4歳の時に父が亡くなり、懐子が11歳で愛生園に入った後も母は再婚しなかったのです。「再婚の話はあったけれど、病気の娘のいることを言わなくてはならない、それが辛くて」と母は語っていました。子どもの時に親と引き離され、寂しさと心細さに毎日毎日泣き明かした懐子でしたが、母の話を聞いて自分の罪のように悲しく切なかったようです。

 また、母は懐子が「らい」に罹ったことで県の衛生担当者から、「愛生園に入らなければ家の中も家の周りも消毒する。愛生園に行くのであれば消毒しない。だから愛生園に行ってくれ」と言われたそうです。

 公衆衛生上、伝染の怖れから消毒するのではなく、消毒行為はあきらかに周囲への見せしめであり、家族に対する脅かしであって如何に理不尽に扱われたか、今更のように憤りに頭の中が熱くなるのを覚えました。

 私たちに逢いに来て下さった懐子の母はその後もよく来て下さり、来られると一週間前後を一緒に過ごし、最近では懐子との三十数年の空白も相当埋められたようで、お互いに言いたいことを言い合って親子喧嘩のようなところも見られます。三十数年前に母と別れた後、収容所前の入江に立って、毎日母を求めて泣いたという涙の跡も見えない。生きていてよかったナ、私まで何か救われたような気分になりました。

 母には何時までも元気でいてほしい、と願う私たちであります。

 私たちは一緒になって丸五年が経過しましたが、今でも私たちのことを「新婚さん」と声をかける人たちがいて照れますが、多くの友だち仲間から励まされ、助けて頂いて感謝しております。そして若干の健康にも恵まれていることを大きな喜びとして、構えることなく自然体で日々を過ごし、できるものなら次なる「晩婚」十周年を健康に迎えたいものと心から願っております。


石田さんご夫婦は愛生園で元気にお過ごしです。今年は平成29年ですから、結婚して18年を迎えられました。懐子さんとぼくは、3歳しか違わないということが、ひとつの衝撃です。
最近はお会いしておりませんが、
北田由貴子さんや辻村みつ子さんらの文学談義ができたらなあと願っています。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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