あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

生きる━━史跡は語る、亡き友の支え

石田雅男さん「隔離という器の中で」P121~P128抜粋


 話題らしいものは何ひとつない、無風状態の療養所の中で何故か私たちは、話ばかりに明け暮れました。

 それは「らい」を病み、社会から隔絶された身になれば過去は唯一生きてきた”証”でもあるかのように、私たちは過去を想い出しては、それを心のよりどころにして語り合い、語り尽きればまた繰り返す、同じ話となってもそれを聴き合うようにして付き合うのが療友仲間でもあります。

 そして、私も何時の間にか「愛生園」在園57年。歳月が流れて昔のことを振り返っては、過去がどうであれ、懐かしく想い出されて胸が熱くなったり、また痛く疼いたりすることもあります。

 過去の時間はまるで雨あがりの濡れた地面のように、ぬかるみ、そして水溜まりに足をとられたりして、時には顔を洗うほどの涙を流したこともありました。そのような辛い水溜まりがあっても、その水溜まりに映る青空に生きてゆく小さい勇気を持てたのは、人間としての”生”に対する執着であり、生きることのしたたかさがあったからです。辛く寂しい夜があっても、それなりに朝を迎え、心の疼くような冬が来ても、僅かな安らぎを覚える春も来ました。

 愛生園には今でも隔離時代の遺物のように「患者収容所」が残っていて、収容された患者の消毒風呂、身体検査、所持品あらため等当時の悲愴な思いが詰められたまま、その建物は蔦に覆われています。また、その近くの浜には患者が家族や故郷との永久の別れと唇を嚙みしめて船から降りた”患者収容桟橋”が根元部分のみであっても、当時を思い起させるように残っています。さらには、所内の秩序維持、治安のためとして、これらを乱す者への罰則の対象として設置された監禁室(監房のこと)の鉄筋造りの外壁の一角が、”俺たちのことを忘れるな”とばかりに顔を見せて、埋没に抵抗するかのように残されています。これらを見つめるとき、入所者は身も心も疼き、できるなら目に見えないようにしてほしい、そんな思いから一時期までは建物は解体もしくは埋めるということも検討されました。しかし、今では「人権」問題と「人権意識」から非人道的で過酷な過去を過去として、史実を風化させてはならない、二度と繰り返してはならない、そのためにこれらを保存すべきだ、という思いに変わりました。やがて何時の日か入所者がいなくなっても、保存されていればこれらの史跡はきっと多くの人々に人権を問う無言の語り部となってくれることでしょう。そう思う時、この史跡たちも時代の証人であれば、何処か共通した重荷を背負わされている者同士といった切ない友のようにも思えてきます。

 そして私の隔離の人生にあって、今は亡き親友K君の大きな支えがあったことを忘れてはならないと思うのです。K君は23歳の若さで世を去りましたが、私より1歳年上で、入所した子どもの頃から気がよく合う親しい友でありました。成人してからもお互いに助け合い、励まし合って過ごしましたが、K君は常に私のことを自分のことのように思い、温かい友情を注いでくれました。

 そんなK君がある日、激怒して私の頭を叩いたことがありました。それは私が飼っていた猫の頭を叩いたことが原因でしたが、その時、K君の怒りと悲しそうな表情を見て、私は子どもの頃のことを思い出したのです。

 18歳までの少年少女が住んでいた”望ヶ丘少年地区”では、ある時期に猫を飼うことが流行って相当数の猫がいました。そして、K君も猫を飼う一人でしたが、猫が増えるに伴って猫による被害も多くなり、やがて子どもたちの親代わりを務める人たちから、猫を飼うことが禁じられて、飼い主たちはそれぞれ責任をもって始末しなければならなくました。始末するということは殺すことであります。K君は泣きそうな顔をして、海に捨てる、と私に言いました。そして海岸の岩場から泣きながら海に落としたのです。猫は必死になってK君のいる岩場に戻ろうと泳いでいましたが、泳いでいるというより、苦しそうにもがいているようでした。可哀想だなあ、と思いながら見つめていた時、突然K君が高さ三メートルほどの岩場から海に飛び込み、猫を抱きかかえるようにして岸辺に上がったのです。その後、K君と私は猫をどうするか、小さい頭で悩み考えた末に、猫は殺さずに木の箱に入れて海に流しました。

 K君が猫好きであったことを思い出した時、叩かれた頭の痛みも消えてしまいました。

 優しい人柄のK君と永遠の別れとなったのは、K君が23歳、私が22歳の時でした。

 正月も近くになって私は大阪に居る両親の元へ一時帰省をすることになりました。K君は一年ほど前から胃の具合が悪く、時にはひどい痛みも伴って大変つらそうにしており、私のいない正月は面白くないから、この機会に病棟に入って胃の治療をする、そう言って12月28日に病棟に入りました。私は予定通り12月30日に一時帰省をしましたが、出かける前に私が病棟のK君を訪ねると、彼は私に「俺に代わってこれを着て帰ってくれ」と、新品のオーバーを差し出したのです。そのオーバーは名古屋で働いているK君のお兄さんからの贈り物であり、その頃は療養所でオーバーが着られる人はそんなに多くはいませんでした。そしてK君が一度も袖を通していないこともあって、私はためらいましたが、K君の思いを嬉しく受け入れて大阪に帰りました。

 そして、正月も明けて愛生園に戻るなりK君のいるベッドを訪ねると、K君の姿がなく病棟の人に尋ねたところ、「K君は胃の手術をしたので外科病棟のほうに移ったよ」と教えられて、その病棟を訪ねると、K君は私を待っていたようにベッドに坐り、笑顔で迎えてくれました。手術をしたことに驚いている私に、K君は「今日は帰って来るだろうと待っていた」と元気そうな表情を見せながら、思いもしなかった手術のこと、胃の状態について先生から聞かされたことなどを話してくれました。胃の状態については、胃潰瘍でかなり悪かったが、手術は成功した。しかし、体力が回復したらもう一度手術をしなればならない、とのこと。

 全く心配はない、という思いではなく、私は多少の心配を抱えながら青年寮に戻ったのですが、部屋で着替えて小一時間ほどして連絡を受けたのは、K君の死でした。信じられない思いのなかに驚きが走りました。嫌な聞き違いだ。耳がおかしくなっている、死ぬなんて筈はない、とひとり言のように呟きながら、私はK君の病棟に向かっていました。

 病棟の個室に入ると、そこには医師、看護婦がベッドを囲むようにしてK君を見つめていました。

 看護婦さんの中からすすり泣きをする声も聞こえましたが、私には一時間ほど前の元気で笑顔を見せていたK君の印象が強くて信じられませんでした。

 無念な別れから46年経ちましたが、心優しいK君の友情は心に残り、時として優しさを忘れた私を責めては励まし、私の歩む杖となって支えてくれます。

 人間はもともと優しい心を持って生まれてきた生きものだが、時に、その心を見失ってしまったり、何処かに落としてしまったようなところを見せます。

 どのような境遇にあっても優しさを忘れない、見失わない人間でありたい。

 10歳の時に発病し、哀しい宿命として愛生園に入りましたが、幼な友だちの親友K君とめぐり逢えたことは大きな宝を得たような喜びであります。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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