あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  石田雅男さん



夕映え讃歌

 あかねの空が海を染め、その燃え立つ色が紅葉した山林に点火しそうな晩秋の夕映えによく出会い、そして燃えに燃えている光景に大きな感動を覚えて眺め入った。
 過ぎ行く秋の日暮れの早さ、一日の短い時の流れ、それを惜しむような哀愁を示唆するように、限りない赤さで燃えているのではないだろうか━少女のような感傷を抱いて眺めたり、あるいは短い一日であればこそ、悔いなく過ごそうとしている謳歌の輝きなのか━とも思えて眺めることもある。そうした夕映えを私一人で受け止めているような気分の中で、遠いある日を思い出すのである。

 それは、軽症だった私が突然、らい性神経症に襲われ、初めておのれが病者であることの惧れを自覚し、らい患者であればだれもが等しく心に刻む暗い翳りを自らの心に刻み込んだ頃のことである。
 
 三ヶ月ほどの病床生活から解放された時、私の両足は下垂し、歩行困難な重症患者となっていた。それは今の今まで想像だにしなかった。自ら背負う病の重さ、らい者であることへの疼く痛みであった。そして、当然のことのように━こんな人間の生きる価値が何処に、生きてゆく日々の”はり”が何処に━。
 
 私の幾日もの時間は暗闇の中での手さぐり状態となって、それらしい生きてゆける目標を見出そうと努めた。だが、療養所に身を置く者でありながら、病者である「自分」を見つめることに全く盲目であった私には、何も見えるものはなく、ずるずると暗い底なしの闇をさ迷うほかはなかった。
 
 そんなある日、私は衝動的に長島の東海岸の岬にそそり立つ「楯岩」に登りたい心にかられたのである。
 
 「楯岩」はその名前のように武具の「楯」の格好で海から十数メートルの高さで聳え、その昔、風流を愛した万葉の歌人たちが歌に詠み、また源平合戦のさなか、南下する平家の武者も、それを追う源氏の武者もそれぞれの思いを胸にこの「楯岩」を眺めてすぎた、と聞く。
 
 見上げれば高所恐怖症の私が相手にできるシロモノではなかったが、私の心の何処かで本能的に湧き出る「死」への期待が高所恐怖症をも忘れさせ、ある種の勇気を与えたのだろう。ともあれ私は楯岩の荒々しい肌に頬ずりするような恰好で登っていった。
 
 高い所に登るには下を振り返ってはならない。子供の頃に聞かされた言葉が脳裏をかすめた。いくら「死」を覚悟し、期待すらしているとはいえ、私は無意識にそれを厳守していた。そして、どれほどの時間が経ったであろうか、かなりの所まで登っていることを意識した時、ある岩角に手を掛け力を入れた瞬間、その岩角は思いもよらない脆さで崩れた。それでも私が崩れた岩角と共に落下しなかったのは、不自由な足ゆえに動作が緩慢で、完全に離れ切っていなかったからである。
 
 一瞬、ギクッ!となったもののやがて落ち着きを取り戻し、用心深く岩角を確認して登らねばと自分に言い聞かせたが、結局は一歩もその場から動けなくなってしまった。何故なら、私が手を掛けた周囲の岩角は驚くほどの脆さで崩れたからである。
 
 これも駄目だ、これも・・・と焦り、手当り次第、岩角に手が動いた。しかし、すべての岩角はまるで私を見捨てたようにポロポロと崩れた。その落下する音が私を嘲笑するように響き、焦燥感と恐怖が胸に広がってゆくのを覚えながら、私は見てはならない下を振り返ってしまったのである。眼下は鋭い角を海から突き出した岩、それに呼応する白い波の牙が、今に落ちてくるであろう獲物を待ち受けているように映った。私は完全にその光景に飲まれてしまい、もはや登る気力も引き返す勇気も失せて金縛りに遭ってしまったのである。
 
 壁にへばりつく一匹の蛙のようになってからどれほどの時間が過ぎたであろうか。私がふんばっている足もとの岩角が突然動いたように思えた。だが、それは私の恐怖からくる錯覚だろうと思いつつも、全神経が足に集中すればするほど、足の小振るいがひどくなって止まらない。しかし、足元の岩を確認しなければならない。私はあるかなしかの勇気を出し、祈る思いでそれを見た。
 
 するとどうだろう、小振るいしているのは足ばかりでなく、現実に岩角は足の小振るいに合わせてまるで抜けかけた歯のように動いているではないか。肌が硬直し、血の気が岩肌に吸いとられてゆく恐怖に襲われ、続いて今度は「死」の直前にする清めのように全身に汗が噴き出した。流れる汗が「生」の終わりを私に意識させた時、涙がとめどもなく流れ出た。何の涙なのか「死」を期待すらして登ってきたはずなのに・・・。過去の思い出が走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。どれもこれも後悔に満ちた心残りするものばかりであった。
 
 健康な時から無意識のうちに見栄と外聞のために神経を労し、八方美人的な行動をしていた自分であった。それは生き方として好かれる一面はあるが、それでは自分らしさは何処にあるのか、自分は死んでいたようなものではなかったのか・・・。
 
 今までの生きかたが滑稽なほど哀れに思えてならなかった。私が流した涙はぬぐいきれない後悔の涙であった。こんな後悔を背負って死んでゆくのか、そう思うとたまらないほど、もう一度生きたい━という「生」への未練でいっぱいになった。
 
 これからの人生で後悔を少しでも埋めてゆけないか、そのための努力を払いたい。
 
 私は何時の間にか必死に命乞いをしていた。そして、この場をなんとかしなければ、と焦った。
 
 ここまで登ってきたのであれば、下りることもできる。自信を持とうと努めたものの死を恐れなかった登りに比べると、それは大変な相違であった。しかし、幸いなことに登りに労した時間の何倍もの時間を要しながら、私は無事に岩の下に戻ることができたのである。
 
 疲労が波のように押し寄せるなかで、見上げる楯岩は真っ赤な夕映えの中にあった。西空の雲を焼くような情熱的な夕陽と向かい合っていると、何時の間にか清々しい気分となって今までの疲労も恐怖も消えてゆくのを覚えた。
 
 あれから16年の歳月が流れた。
 
 思えば今日までに、私は随分と生き方が変わったように思う。少なくとも他人に繕う見栄とその虚像が消え、自分を縛ることもなく、正直にありのままの言動で日々を過ごしているように思える。それは反面、他人には好かれないかもしれない、だけど私は今の生き方が好きであり、過去の自分に比べて救われていると思っている。
 
 あの楯岩に登った日から私は「自分」をこよなく愛し、少しでも悔いのない生き方をと努める日々である。
 
 今年も、そして来年も、いつも私は夕映えのなかで自分を映し、自分の心を燃やしながら、あの日のことを忘れず茜空を賛美しようと思う。


昭和53年 2月「愛生」掲載
(石田さんが40歳の頃の作品です)



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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