あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

心のよりどころ(文芸・宗教)━生き甲斐を求めて


石田雅男さん『「隔離」という器の中で』P50~P57抜粋


 「長島愛生園」の園長は現在、七代目でありますが、初代園長であります光田健輔先生ほど光と影を色濃く映した人物はほかにいないと思います。

 明治28年、当時らい患者が四国八十八ヶ所の寺々、熊本県の本妙寺などで参拝者に物乞いをしている様子を見て、英国人宣教師のハンナ・リデルは、救済活動として回春病院を創設されました。

 ”らい”に目を向け、手をさしのべたのは総べて外国人宣教師たちであり、”これでは日本人として恥ずべきことだ”と光田先生が”らい”に関わった動機については多くの人たちの知るところでありますが、その後も”らい一筋”の姿勢は変わらず、やがて”救らいの父”と崇められ、文化勲章を授与された人物となりました。

 ある入所者は、「私たちは世間からも、そして親兄弟からも忌み嫌われましたが、愛生園に入り光田先生にお会いして、本当の親のように思えて安心と感謝の日々を過ごすことができました」。また、「愛生園があっていのち長らえることができたのです。愛生園がなければいつどこでいのち果ててもおかしくはない身の上でした」。

 今は亡き療友の言葉が耳に残りますが、時代の流れが過去を糾弾するにつれ、光田先生は非人道的な隔離の推進者であり、悪の根源とされました。まさに時代の中の功罪相半ばする光と影のようであります。

 入所して数十年、病気と対峙する中で、私は自らの病の醜さをなじり、哀しみながらも私自身をいとおしむ、という心の葛藤に明け暮れ、その状況の中から宗教・文芸等に関心が芽生えたように思います。

 それは、同時に初代園長の光田先生が入所者にとっての”生き甲斐””心の安らぎ”のためにと奨励されたところの「宗教」「文芸」であったのかもしれません。

 文芸活動については、開園早々の昭和6年に俳句会、短歌会が発足し、昭和9年詩謡会(後に詩話会)、昭和16年、創作会(後に随筆会)が発足しました。

 世間から忌み嫌われ、社会から排除され、隔離の中で病苦と闘い、病む身の辛さ、運命的な哀しさと切なさを文芸の場で綴る「らい園文学」と言われながらも文学という名に自分の思いを吹き込むことを生き甲斐とした先人は数知れずいたように思います。

 そして、文芸活動はその後も昭和27年、川柳七草会、昭和29年、評論部会が発足するなど、多くの入所者に関わりを持つようになりました。

 私も昭和29年に詩話会、昭和48年に創作会に入会し、深夜にペンを握り、まるで雨の滴のようにポツリポツリと思いの一滴一滴を人知れず書き綴り、励んだ記憶があります。

 恥ずかしく思いますが、その頃に綴った創作一編と散文一編を本書の末尾で紹介させて頂きます。

 また、生き甲斐対策である一方の宗教活動についても開園と共に真宗同朋会、真言宗大師講、日蓮宗日唱会、キリスト教曙教会が昭和6年に発会、その後、昭和10年、天理教誠心会、昭和23年、禅宗修証会、昭和36年、カトリック・ロザリオ教会、昭和32年、本門仏立宗六清会、昭和34年、日蓮正宗創価学会、このように各宗派が発足し、布教師、伝道師、巡教師、導指の来園布教の基にほとんどの入所者はそれぞれの宗派に入信し、宗教を心の安らぎ、生きる支えとしたようであります。

 私も21歳の時、ふとしたことで”聖書”に興味を抱いてキリスト教会の日曜礼拝に出席をしましたところ、そこには入所者の中でも相当に不自由と思われる盲人の方々、手足にも重い障害のある方たちが、とても明るい笑顔と大きな声で讃美歌を唱っていました。

 その光景は私にとって意外であり、驚きでありました。何故こんなにも明るいのか、と唖然とさせられたのです。”らい”を患っていても手指に若干の障害がある程度で、それほど不自由を感じなかった私でしたが、礼拝者の明るい笑顔に勝る喜びは私にはありませんでした。当時の私は21歳の若さのせいもあってか、宗教というものにあまり関心もなく、宗教の世界に入るようなことは考えられませんでしたが、その明るい表情を見つめていると、これが信仰というものの”力”なんだろうか、と思えてきたのです。

 そして私も何時かは健康を失い不自由になるかもしれない、その時に宗教に関心を持ち信仰を持つなら、今の健康で若い時に・・・と得体の知れない信仰の力に魅せられるようにして、その年の12月にキリスト教信仰者として洗礼を受けました。それなりに聖書もよく読み、礼拝説教にも耳を傾け、賛美歌を唄うクリスチャンらしいところも身についた時もあり、また信仰を見失ったような時もありの日々が今日まで続いております。

 「らい」に罹り隔離された中で入所者が宗教によって観念を押しつけられたのではなく、入所者自らが心のよりどころとして宗教を求めたものと私は思います。

 平成8年、「らい予防法」が廃止されたと同時に、真宗大谷派から”ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明”が出されました。声明文の中には次のように書かれていました。


 1931年、真宗大谷派は「らい予防法」の成立にあわせ、教団をあげて「大谷派光明会」を発足させました。当時から隔離の必要がないことを主張した小笠原登博士のような医学者の存在を見ず、声を聞くこともないままに、隔離を主張する当時の「権威」であった光田健輔博士らの意見のみを根拠に無批判に国家政策に追従し”隔離”という政策徹底に大きな役目を担っていきました。(中略)国家は法によって「患者」の「療養所」への強制収容を進めました。それと相俟って教団は「教」と権威によって隔離政策を支える社会意識を助長していきました。確かに一部の善意のひとたちによって、いわゆる「慰問布教」はなされましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。(中略)真宗大谷派は、これらの歴史的事実(教団の行為と在り方)を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」とそのことで苦しみを抱え続けてこられた家族、親族に対してここに謝罪いたします。(中略)私たち自身が継続的な「学習」を続けていくこと、そして「教え=ことば」が常に人間回復、解放の力と成り得るような、生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです。以上
『真宗』(1996年・5月号)より


 こうした謝罪声明を出された真宗大谷派の厳しい反省と今後の取り組みを示されたものですが、宗教と布教の在り方に限らず人の世では何ごとにおいても過去、現在の観点には、時代的な相違があるように私には思えます。そして時代はどうあれ、宗教によって自分を見つめ、心の安らぎを覚えた入所者の信仰であったことに違いはないと思います。また文芸によって自分の生き甲斐と存在感を覚えたことも疑いのないところです。私たちに残された時間が宗教・文芸に限らず、生き甲斐と心の安らぎを覚える日々となることを願っております。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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