あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

線香をあげる人

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P156~P162抜粋


 1959(昭和34)年、二度目の失明の危機にあったこの年、私は十年ぶりに母に会いました。この出会いは母からの連絡だったのですが、岡山駅で別れるときには、「あー、よかった。池田の殿様の築かれた美しい後楽園で一日過ごさせてもろてよかった」と母親は喜んで帰りました。そんな一日を過ごす事ができて、私にとっても生涯の記念になる出来事でした。

 この日、後楽園で母は私への自分の気持ちを語りました。「人間の一生は苦労の連続だけど、お前の友達はほとんど戦死されていないよ。遺族の方たちは団体で東京の靖国神社に参詣されるが、お話ができるわけでもない。私ら親子は人目を避けてでもこうして会って話ができるのが何より楽しいなあ。お前が子供のときから好きだったオヤキをたくさん作ってきたから、しっかり食べなよ」と、私の前に広げました。オヤキとは飴入りのヨモギ餅をミョウガの葉に包んで鉄板で焼いたもので、私のために実家に寄って作ってきてくれたのです。

 オヤキを食べながら私が「母さんも齢とるから、今度は私が鳥取へ行って会いましょう」と言うと、母は「いや、お前が鳥取に来ても、わしは辛い」と言います。その理由を尋ねると、「お前が家の近くまで来ているのに、泊まってゆけ、一晩いっしょに過ごそうと言えないことがとても辛い。わしが来れる間は岡山へ来るから、こうして誰にも話せんことをお前と話し合うのが一番うれしい」と言い、さらに言葉を継ぎました。

 十年前に長島に行ったとき、お前は元気になるから帰ってくれと言うから帰ったけど、亡くなったという連絡が今日くるか、明日くるか、明後日来るかと、三ヶ月ぐらいは昼も夜も気になって、亡くなったと知らせがあったらどうしようかと悩んだよ。元気になれて良かったよ。これも綾子さんのお陰だよ。感謝せんといけんよ。いい人に出会えて、結婚していてよかったなあ。でも、子供がないのは寂しいなあ。お前が生きていてよかったけれど、わしは齢とってきて、このまま二人が誰にも言わずにいたら、お前が死んでも線香の一本も立てる人がいない。こんなむごいことではわしは死んでも死にきれん。

 今日まであんたと二人で苦しんできたけど、わしも六十五歳、もうここまで来てこれから齢をとるとどうなるかわからん。しかしな、お前が死んだとき線香の一本も立てる者がいないということでは、そんなことは我が子に対してできん。だから何か機会があったら、お前が生きてることをお前の妹に話をするわ」と言いました。

 その妹は私が大阪に出たのと同じ頃に大阪へ出ました。大阪の高島屋で和裁の学校に行き、嫁入り衣装まで縫えるようになりました。その和裁の学校に通っている時に、同じ大阪にいるはずの私が母にも告げずに行方がわからなくなったと知って、その私を一生懸命探したといいます。

 母と再会して三年くらい経った頃のことでしょうか。ある日の夜九時過ぎ、私は交換台から園内の公衆電話に呼びだされました。まだ個人電話はなくて、外からかかってくると「だれだれさん、電話です」と放送があって、近くの公衆電話へ行くというシステムでした。

 公衆電話の受話器を取ると、「兄さん、あんたはなぜ一人で苦しむの」と突然、言われました。妹からの電話でした。「なんで一人で苦しまなあかんの。お母さんに聞いた。電話だけじゃいかん。どこへどう行ったら会えるのか。明日行く。どう行ったらいいか」と、行き方を尋ねるので、翌日、赤穂線の日生駅で待ち合わせることにしました。当時は民間船が長島と日生を連絡していました。

 翌日、ホームで「にーさーん」と言って抱きついてきました。「なんで兄さん、一人で苦しまなあかんの」という、この言葉が忘れられません。やっぱり家族です。母親の愛情もそうだし、妹との血のつながりというのもそうだなと思います。

 一晩ゆっくり話をしました。妹は何かつらいことがあったらしく、母に相談したとき、母が「おまえも苦しかろうけど」と、妹の苦しみを和らげようと思ってか、「実はおまえには行先不明だと言っていたけれど」と、私の病気の話をして、「おまえの兄さんはこのように苦しんで一人でがんばって生きておる。おまえもひとつ、それくらいの苦しみに耐えて生きてくれ」と言ったというのです。

 妹は「ようわかった」と、「そんなことがあったのか」と納得すると、母は「しかし、これは誰にも言われんことだ。父さんにも言ってない。あんたの兄さんが病気だということがわかると、立派な家庭を築いて幸せに生活しているあんたが不幸になる。そのことを心配して今まで言わなかったんだ」と話したところ、理解ができたようです。

 妹は、私と会ってからもしばらくは、主人にも誰にも言わなかったそうです。そうやって過ごしてきて、妹も本当に一生懸命働いて、三人の子供を東京の大学にやりました。私もたびたび東京へ行っていた頃でしたが、その子供たちに会うことはありませんでした。それがらい予防法廃止になってからはしばしば会うようになりました。

 私はよく覚えていなかったのですが、妹に会ったとき「父の墓参りだけはしたいなあ」と、いつも思っていたことを口に出したようです。その翌年、故郷からの便りなどあったためしのない私に手紙が届きました。母の実家を継いだ叔父からでした。私の思いを妹が母に言い、それが私が育った家の当主である叔父に伝わったようでした。そこには「いっぺん父のお墓参りに帰ってきたらいいじゃないか」と書いてありました。息子一家は勤めの関係で嫁の里で暮らしていて、家には自分たち老夫婦しかいないから」ともありました。

 すでに四十六歳になっていた私は、こうして二十七年振りに故郷へ帰ることになりました。故郷の駅に降り立って、ホームを歩いたときはクッションの上で足を運んでいるような気分だったことをよく覚えています。そして念願の父親の墓参りもできました。その墓地の一角にあるひときわ立派な墓標は、近づいてみるとみないっしょに遊んだり通学した幼なじみの「戦死」者のものでした。私はハンセン病のために療養所に入所していたおかげで戦死せず長生きしてきたわけです。何か友達に相済まない気がしました。

 この墓参りのとき小事件が起きました。村のなかをどうしても通ります。その途中で隣のおじさんがどこからか気がついて、「あ、ハジメさんじゃないか!?」と声をかけてきました。私はおじさんだとすぐにわかりましたが、「いやいや違います」と言いながら知らん顔して、逃げるようにオーバーの襟をたてて通り抜けました。私は親族が「帰ってこい」と言ってくれたから帰ることができたのですが、そのように言うためには家族の人にも大変な勇気がいったと思います。

 従兄弟夫婦の不在を狙うようにしてしか墓参りができないこと、そして知人には自分を偽らなければならないこと、私のように恵まれた者でさえこんな状態でした。しかしとにかく故郷へ帰ることができ、このような形でも迎えられたこと、これが翌年の「里帰り事業」につながってゆきます。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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