あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

十三年ぶりの母との面会

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P130~P134抜粋


 私からの手紙を読んだ母は生きているうちに私に会おうと決めました。米の持ち運びは食管法で禁じられていましたが、米さえ持っていたら何でもできます。愛生園や私が「どうなってるかわからへん。女だから裸にされることはないだろう」と、母は帯の袋に米を入れて腹に巻き、妊娠しているような格好で家を出たといいます。そして両手にも米を入れた荷物を提げていたそうです。

 終戦直後はお金は紙くずみたいなもので、それこそ物がものをいう時代でした。なかでもお米はお金以上に価値があり、何とでも交換できました。当時、食糧管理法という戦時中にできた厳しい法律がありましたが、農家が生産した米は自給分を除いて、政府が決めた価格で買い上げ、それを全国民に一定量を配給するというものです。配給量は家族数によりますから、そのために米穀通帳が配付されて、これを持たないと米の配給を受けられませんでした。

 物資の統制は戦争の進展とともに衣食のすべてに及び、量も少なく、しかも不定期になってゆきました。そして物資の不足とともに食管法を通さない「ヤミ=闇取引」が盛んになってゆきました。農家は働き盛りの男手を軍隊に取られて生産が落ちていたので、安い価格で政府に買い取られることを極力避けました。敗戦後、国民はヤミなしでは生きていかれませんでした。ヤミではなんでも手に入りましたが、そのヤミを警官は取り締まったわけです。

 因美線にのった母は、まず鳥取県の県境で引っかかりました。「手に提げているのは米じゃないか」と問い詰められました。そこで「そんなことは言わんでください。息子が今、岡山の病院で危篤状態で、これは私が食べるものだから放してください」と頼み込んでようやく第一関門を突破しました。

 ところが岡山駅についても長島というのがどこにあるのか、母には全然わかりません。駅員に「らい病の療養所はどこにあるんですか」と聞いたら、「警察に行って聞きなさい」と言われました。腹に米を抱えて、米の入った荷物を両手に提げた姿でしたが、やむなく警察に行ったのです。すると案の定、問い詰められました。ここでも「私の息子が危篤状態で、私が食べる米だから助けて下さい」と土下座をしてやっと通してもらったといいます。

 「西大寺まで電車がある。それに乗って、そこからバスで行きなさい」と、警察ではそう教えてくれたそうで、こうしてようやく母は長島に来ることができました。

 手紙を出して四日目でした。「面会人です」と呼び出されて、私は家内の肩にすがってやっと面会所にたどり着くと、そこには母がいました。
「お母さん、よく来たなあ」
 ぐるぐる巻きの包帯の間から私は振り絞るような声でそう言いました。しかし私の顔は、包帯の間からわずかに目がのぞいているという状態なので、母には私ということが全然わかりません。私は再び、「どうしたの、お母さん、よう来たねえ」と言いました。すると怪訝そうに私を見つめていた顔色が急に変わりました。
「許してくれ。間違った。こんな所に一人でやってしまって・・・・」と、面会者と入所者を隔てる、幅広のカウンターに泣きふしてしまいました。

 あとから聞くと、母は「どうしたの、お母さん」という声でやっと息子だとわかったと言いました。私は結婚の通知もしていなかったので、付き添う家内を「家内の綾子です」と紹介しました。それから三人で部屋に向かいました。

  部屋の玄関には馬鈴薯が十五、六個ころがっていました。母は「これはお前が作ったのか?そんな身体でかわいそうに。家にいたらなあ、こんな苦労はさせんのだが」と言ってくれました。また馬鈴薯をむいた皮が干してあるのを見て、「これはなに?」と聞くので「わしが作った馬鈴薯。これがなけりゃわしの命はないよ。食べるものがないのだから」と答えると、「かわいそうに。わしが持って来てやったのに」と言って、家内に「米は食べられる分だけ持ってきた。これでお粥を炊いて、ハジメに食べさせてくれ」と渡しました。

 母はまた、山陰地方の焼きサバを三本持ってきていました。当時、青いサバは病人にはよくない、白身の魚の方がいいと言われていたからか、母は家内に「綾子さん、サバはあんたが食べてな。ハジメには食べさせんでくれ」と言って渡しました。そして、母は「もうわしは帰らん。どんなことがあろうともう帰らん」と言うのでした。

 後年になって聞いたのですが、母は私の姿を見て、「命はあと四、五日だなと思った。そんな姿になっとるのを見捨てて帰れるかと思った」と言いました。

 それで、「いや、そんなこと言わずに帰ってくれ」、「わしは帰らん」と私と押し問答です。母は家族に黙って長島に来ています。他の人に一切言わずに出てきていました。だから「病気が出てから今まで十三年間、二人で苦しんできたんだから、帰ってくれ」と、私は頼みました。母は「他の人にどう言われようと、もう帰らん」と言う。「いい薬ができて、病気は治るようになったのだから、必ず治るから」と説得して、その晩一晩泊まると、やっと「それでは綾子さんがおられるので、お願いして帰ろうか」と、明くる日に帰りました。

 母は後ろ髪を引かれる思いで帰ったと思います。その頃は終戦直後の混乱期でしたから、入園時に注射をされたり診察をされたりはなかったようですが、交通事情、食糧事情の厳しい中で、よく面会に来てくれたものだと思います。

 幸い私は死なずに済みましたが、その後十年間、母と会うことはありませんでした。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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