あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

神谷美恵子先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P198~P207抜粋


 神谷美恵子先生が亡くなったのは1979(昭和54)年10月22日でした。今年(平成21年)、京都の思文閣美術館で先生没後30年の催しが企画されており講演を頼まれていますが、亡くなって30年たってもそういう会がもたれるところに先生のお人柄、人間性が表れていると思います。

 神谷先生が医官として正式に愛生園に入られたのは1961(昭和36)年ですが、戦時中の学生時代も一人で実習に来られています。光田園長を「慈父」として尊敬し、愛生園の医師になりたかったというのですが、お父様がどうしても反対されて正式に赴任されるのはずっと後になりました。お父様は前田多門といって岡山県出身の内務官僚であり、また新聞人でした。神谷先生もお父さんの仕事の関係で少女時代をヨーロッパで生活しています。

 前田多門は敗戦直後に文部大臣に就任し、その父の頼みによって英仏独語の会話にも堪能な神谷先生はGHQと日本政府間の通訳の仕事をしています。先生は精神科の勉強途中だったので、早く学校に戻して欲しいと要求するのですが、その能力を買った政府要人が許さなかったようです。

 神谷先生は精神科の先生で、今で言う統合失調症の人だけを対象にしておられましたので、普通の入所者で直接話したことのある人は少ないと思います。私が非常に感動したのは先生の考え方でした。私はこんな所に入ってまで、朝から晩までがなっている人が近くの監房の中にいるので「困るなあ」と思って見ていました。

 それを先生は「隔離されている中で隔離されている人がいる」と言われました。私はその言葉にハッと気がつきました。同じ病気なのに、確かにそうだ。隔離されながら、さらに偏見をもって隔離している。偏見の中に偏見がある、ということを感じられるのが、先生の素晴らしさでした。

 神谷先生は、人間はどんなに精神病を患っていても愛情は通じるという信念を持っておられたと思います。統合失調症の患者さんを看護婦さんが散歩させるときは必ず一人に二人がついて歩きました。それを神谷先生はお一人で五、六人といっしょに散歩しておられました。何人かで弁当を持って山へピクニックに行く姿を見かけたこともあります。

 ですから先生の愛情というものが精神病者の中に伝わっているというふうに私は見ました。先生は「この人たちは私に代わって病んでくださっておられる。私はこの人たちと友達になることを一生の仕事としたい」と言っておられますが、それが患者さんと接する基本の姿でした。

 精神病の患者は監房廃止後、日赤から寄付された日赤寮に移されましたが、寮は施錠されていました。神谷先生が来られて、精神病棟を別に建てる必要についておっしゃっていました。当時、昼間は入所者が付き添い、夜間は担当職員が一人付いていた「杜鵑寮」という病棟で、昭和40年、一人の患者が不満からわざとストーブを倒して全焼するという事件がありました。幸い死傷者は出ませんでしたが、その後で瀬戸内三園共同の精神病棟が建ちました。

 その頃、先生が「加賀田さん、入園者のアンケートを取らせてください」と言ってこられたことがありました。その後「アンケートの結果はどうでしたか」と尋ねますと、「そうですね。あまり公表できませんが、自治会の会長さんに協力をお願いしておいて結果を知らせないのはおかしいですから、・・・・そうですね。七十%の人が異常です」と言われました。私もアンケートに答えた一人でしたから、「あ、私も精神異常でしょうか?」とすぐに聞き返すと、「いや、そうではありません。社会的異常が起きています」という説明でした。

 それは隔離の中にいるからということでした。考えてみると入所者は普通の社会人ではありません。国費で賄っていますから、経費を一切出す必要がありません。税金も納めていません。医療費、食費も出していません。そういうことが長く続くと、「異常を起こすんです」という話をされたので、私自身についても大いに考えさせられました。生活意欲を失い、社会性が失われていくのですから閉鎖的で独りよがりになっていきます。ですから若い人のセンスを受け容れることに柔軟にならなければいけないと反省しました。

 先生は心臓が悪かったそうで、自分の意思に沿わないまま人生を終わらせるのは気の毒、というご主人の神谷宣郎先生(大阪大学名誉教授)の思いやりから、先生は愛生園の医官に正式に就かれ、宝塚の自宅から通っておられました。その先生が亡くなられたときに、ちょうど私が自治会の会長をしていましたからお葬式に参列することになりました。

 その前夜、休もうとしていたら、神谷先生といっしょにこの精神科の医官を務めておられた葬儀委員長の高橋幸彦先生から「自治会として弔辞をいただきたい」と、電話で言って来られました。
「いや、困ったな。今から弔辞を書くといっても明日の朝の新幹線で行かなきゃならないし・・・」。急遽、先生から外国語を教えていただいていた島田ひとしくんに、「なんか、あんたが印象に残ってることはないか」と尋ねると、「じゃあ、私の詩を読んでくれんかい」ということになりました。島田くんはその後亡くなられましたが、独学でフランス語とドイツ語を学んでおり、神谷先生が来られると疑問点を尋ねていました。詩人で理論家、患者運動にも積極的で、愛生園入園者五十年史『隔絶の里程』の中心編集者、執筆者の一人でした。

 葬儀場の大阪の千里会館へ行くと、私は遺族席に座らされました。そして弔辞として島田くんの立派な詩を読ませてもらいました。

神谷先生に捧ぐ

そこに一人の医者がいた

五十年の入院生活を続けている私たちにとって

記憶に残るほどの医者に恵まれてきたわけではないが

めぐみは数ではない


そこには一人の医師がいた

「なぜ私たちでなくて、あなたが?」とあなたはいう

「私の”初めの愛”」ともあなたはいう

代わることのできない私たちとのへだたりをあなたはいつもみずから負い目とされた

そこにはたしかに一人の医師がいた

私たちは いまとなっては真実にめぐり会うために痛み


病むことによってあなたにめぐりあい

あなたのはげましを生きることで

こうして

あなたとお別れする日を迎えねばならない


さようなら

神谷美恵子 


さようなら


 葬式が終った直後、高橋葬儀委員長が「ご遺族の意思によって、本日の御香典はすべて長島愛生園に寄付させていただきます。どうかご了承願います」と、出棺前に言われました。私は突然のことに驚き、言いようのない感動に襲われました。

 その帰りです。愛生園の庶務課長と私がいるところに光明園の原田園長が来て、「加賀田さん、神谷先生には光明園にも来ていただいとったので、うちの患者さんにもちと分けてやってくれ」と言われました。これには私もびっくりしました。「自治会が貰ったわけじゃないですから。帰って、園長にちゃんと報告しますから」と答えましたが、原田園長と愛生園の友田園長は、二人とも愛生園で同僚医師だったのですが、どういうわけか犬猿の仲でした。

 香典は六百万円もの高額でしたので、光明園に百五十万円を渡しました。四百五十万円をどうするか。園長は「君に任した」というので、何か記念として残るものをと自治会で考え、五百二十平方メートルの土地に「神谷書庫」を建てました。

 香典はあとになってさらに、アメリカ、フランス、ドイツなどの知人友人から届いたという八十万円が贈られてきました。これで書庫内部の棚や調度品を揃えました。「愛生」編集部に送られてきた全国療養所の機関誌や資料、蔵書が、古い倉庫に大量に溜まっていましたので、それを集めて整理し神谷書庫に収め、いつでも利用できるようにしました。お陰で研究熱心な方による利用が最近、頻繁になっています。

 神谷書庫落成の折りには神谷宣郎先生にお越しいただきましたが、先生から「あの小額でこんな立派なものを建てていただいて」と丁寧にお礼を言われ、私たちは恐縮するばかりでした。その後、予防法の廃止や違憲判決があって関連書物の出版もかなりありましたので、それら新しい図書も古い資料とともに蒐集しています。

 先年、天皇皇后両陛下が長島愛生園にお見えになったとき、美智子妃殿下が神谷書庫の見学を希望されましたが、コースから外れると宮内庁が言うので行かれなかったということもありました。妃殿下が皇太子妃の頃、精神的に悩まれた時期があり、そのとき神谷先生が面談していろいろ話をされて、美智子様も立ち直られたということがあったそうで、神谷先生の著書は愛読書とのことです。

 このとき私も妃殿下に握手を求められる光栄に浴しましたが、その後になって、看護婦さんや看護学校の生徒さんから私に「握手して下さい!」といわれて、「えっ?」と戸惑うと、「美智子様と握手した手でしょ!」と言うので、「あれから手も洗ったし、顔も洗ったよ」と答えると、「それでもいいから」との明るい返答です。ああ、美智子様は若い女性にずいぶん人気があるものだなと感心しました。

 神谷先生の息子さんはストロー笛で有名ですが、この方は愛生園にも来られて、今でもご縁が続いています。

 それにしても「私の代わりに病んで下さっている。この人たちとお友達になりたい」という思いやり、考え方、そしてそれを実行し貫かれた、そういう立派な人とお話できたことを私は誇りに思います。園内には、どこか聖女の趣きがあった神谷先生の写真を飾っている人もいます。先生は私より四歳ほど姉さんになりますが、その先生を思いますと、比較するのではありませんが、自分がほんとに俗人だと感じます。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム