あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

非合法の社会復帰

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P27~P29抜粋


 1953(昭和28)年、政府は戦前以来の強制隔離策を基本に据えたまま「らい予防法」を提案しました。しかしその頃には画期的な治療薬「プロミン」の注射によって、入所者の八割が無菌の治癒回復者になっていました。すでに1951(昭和26)年には、そのプロミンにDDSという経口内服薬ができて自宅からの通院治療が可能になっていたのです。

 この新「予防法」に対して入所者は初めて国会と厚生省前に代表を送って座り込み、園内では作業放棄やハンストを決行するなど全国の組織を挙げて反対闘争を繰り広げました。しかし外部に向けた初めての人権闘争は激しい反対運動にもかかわらず、マスコミや法曹界の関心を引くこともなく、新予防法は通過しました。

 しかしこの闘争以降、国の管理は幾分かずつ緩和されてゆきます。入所者には、二十代、三十代の回復者がたくさんおり、その平均年齢も三十歳台でした。犯罪者でもないのに、強制隔離されるなど我慢できるはずもありません。療養所の壁と予防法の網を抜けて、多くの者が社会復帰してゆきました。1960(昭和35)年ごろが社会復帰者のもっとも多かった時期で、その数は三千人とも四千人とも言われています。

 外に出てからのこの人たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。施設からの正式退所ではないので、転居先が特定できません。だから戸籍をつくれない。住所が書けない。米穀通帳もない。履歴書には過去が書けない。学歴も書けない。国民健康保険も使えない(国民健康保険法の第六条第八項、「ハンセン病患者は適用除外」となっています)。

 ちょっとした風邪薬くらいならまだしも、歯の治療や開腹手術などとてもできません。医者はよく知っています。「あんたはハンセン病だったん違うか」と、すぐにわかりますから「療養所へ帰りなさい」と言われて、厚生省の手が回ったりする。

 本来、支援されてしかるべきなのが、まったく逆でした。これが後の国家賠償裁判を起こした理由になりました。社会復帰に成功しても、その社会における偏見差別がそままでしたから、やがて志破れたり、また園の方が気兼ねなく生活できるからと戻ってきた人がいたのです。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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