あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

部落集会への招待

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P34~P36抜粋


 2001(平成13)年、5月27日、小泉首相が国の有罪判決を受け入れると声明した直後でした。私の出身集落、用瀬町塚ノ原という部落にちょうど公民館ができて、そこで出身集落の人と話をすることになりました。前年に一度町に帰っていましたから、今回、部落に行くのは全く平気でした。町長と一緒に行って、偏見と差別はどうして起こったのかを中心に話しました。

 その後で婦人会の料理クラブの方たちが作ってくださっていた田舎の伝統料理を、部落の方たち全員と家内と町長と一緒に食べさせてもらいました。町長が、「加賀田さん、あんたもえらい目に遭われましたね。ビールの一杯もつがせてください」と言ってくださり、近所の人も膝をつき合わせてビールを酌み交わしながら、「はー、あんたはえらい目に遭うたな。せっかくの人生を棒に振ったな」と慰めてくれました。

 療養所に残って歳を重ねている人はたくさんいます。この人たちはみな、「自分だけが犠牲になればいい。家族に迷惑をかけとうない」と、施設から一歩も出ないでいるわけです。これについては私の個人史でお話したいと思っていますが、病気になったときの私がまさにそうでした。故郷で向こう三軒両隣の人が理解をしてあげられなければ、家族も「今さら悪夢を思い出させるな。寝た子を起こすようなことを言ってくれるな」ということになり、入所されていることを薄々知っている近隣者にしても、偏見や差別の強い中では「お元気でおられますか」とお見舞いのことばもかけられない。これでは遺骨の引き取りの問題も進みません。

 ハンセン病というのは、近所、両隣の人、知人、友達が膝をつき合わせて話し、正しく理解しないと、啓発が進んだことになりません。講演、シンポジウム、フォーラム、集会も正しい知識普及には絶対必要なことですが、それだけでは本当の啓蒙は進まない。私が信念としていつも言うことは、「近所にそういう人がおられたら理解をしてあげてください。その家族の人を励ましてあげてください」です。

 私としては故郷に受け入れられたこと、これが啓発の必要を感じた一番の原点になっています。これこそが人権回復の証になると思いました。それまではやはり自分自身を隠していました。町を挙げての町民大会へ招かれたことが出発点になって、それからは啓発活動を一生懸命やるようになりました。ここから私の社会復帰が本当に始まったような気がします。今では、村のなかで出会うと、「アア、帰って来てたんだね。今晩また話を聞かせて下さいよ」と、近所の人が集まってくるようになりました。これも予防法の誤りが認められてからの大きな違いです。

 しかし結局故郷への移住は、親族の方々の強い要望もありましたが、82歳と歳をとってしまってできませんでした。故郷で住むには遅すぎました。本来、ローマ会議後すぐにやらなければならなかったことです。50年くらい前にやるべきことがやられていたら、その後、ハンセン病も世間の認識としては結核程度の病気で治まっていたと私は思います。

 私たちにしてみれば、結核だった人が回復して普通に社会復帰しているのと同じになれたと言いたいわけです。そうすれば忘れられた病気になっていたでしょう。でも今は逆に「風化させてはならん」ということで、いろいろな所で話をしています。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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