あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

高島重孝先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P207~P214抜粋


 二代目園長の高島さんは非常に人間的でした。出身は東京の渋谷と聞きましたが、そこの高島外科の次男坊です。慶応大学の医学部に在学中、草津にある栗生楽泉園に医療援助に行かれ、そこで会ったきれいな娘さんがどんどん症状を悪化させていく姿を見たそうです。そしてまた、「お医者さんがいないから是非来て下さい」とたくさんの患者さんに頼まれました。そんな体験があって、自分の家が病院なのにとうとうハンセン病のなかに入ってきたという方です。

 その後先生は、楽泉園から東北新生園の医務課長を経て、駿河療養所の所長になられました。そして光田先生の後任として愛生園の二代目園長に就くことになったのですが、そのとき長島に橋を架けることが約束だったことは、その後の頓挫の経緯とともに「架橋」のところで述べました。

 先生は就任の挨拶で「光田先生の後を私が継ぐのは木に竹を接ぐようなもの」とおっしゃいました。これは隔離政策と反対の「解放」政策をとるということでした。まず就任条件の架橋がそれでした。

 しかし職員には光田イズムが深く浸透していましたから、そしてまた高島先生は人がよく、強引さの全くない方でしたから、なかなか自分の考えどおりにはゆきませんでした。入園者との窓口(現在の福祉室)の職員には、開園のころには就職する人がなく定年になった警官上がりがほとんどだったこともあって、患者に対して「おい、こら」と、犯罪者か身分の下の者に接する態度でした。

 窓口に「帰省願い」を出すと、医師でもないのに「オマエは治療が足らん」とか「鏡をよく見てこい」などという暴言を吐く者もいて、これに抗議もできないのが予防法闘争前でした。こうした職員の気風はその後も残っており、折りを見て出てきました。これを改めさせるためにも、先生はずいぶん苦労されたと思います。

 私は自治会長としてお会いする機会も多く、個人的なエピソードはたくさんあります。最初に強く印象付けられたのは、「看護婦さんは菩薩だ」とおっしゃったことです。親や兄弟の反対を押し切ってハンセン病療養所を志し、人の嫌がる病人を胸に抱きかかえて治療している姿は菩薩ですとしみじみおっしゃいました。

 前にも書きましたが、あからさまな差別がひどかったのが職員用の連絡船であり、その船長でした。患者用の船は乗り遅れたら何時間も待たねばなりません。しかし職員船の船長は「乗ったら絶対あかん」と乗せませんでした。船長の理屈は「この船は職員家族や通学児童も利用するから患者と同船は伝染の危険がある」という光田イズムです。路線バスでは乗車拒否に遭ったり、そんないやな思いを身近なところでしょっちゅうしていました。

 高島園長は「そんな差別があっちゃいかん」という考え方ですから、港で「ああ、乗りなさい」と言う。ところが船長が「園長、困るじゃないですか」と言い張る。船ですから、園長よりも船長のほうが強いのでしょう。

 夜、虫明の桟橋で園長といっしょになったことがありました。もう患者用の最終便が出たあとで、虫明には旅館などありません。園長が「乗りなさい、乗りなさい」と勧めて、私が乗ると、船長が「デッキにおれ」というので、外に立っていた。すると園長は中から「そんなところに立っていると危ない。中に入りなさい」と強く招くので、私が中に入ると、「腰かけたらいい」と横に座らせて、「今日、これを貰ってきたからあげるよ」と言います。見ると泡盛でした。光田園長時代は酒、米は禁制品でしたから驚きました。

 自治会長としては1971(昭和46)年、光明園と愛生園の自治会が共同して架橋運動をすることになったことを園長に報告すると、「なんだ、14年前に話がついていたのに、そのときは反対しておいて」くらいのことは言われるかと覚悟していたのですが、先生はもっとずっと心の広い方でした。返ってきたのは「それはいいことだ。一生懸命やってくれよ。応援するし、できることはいっしょになってやろう」でした。

 政府の謝罪後、過去を調査する「検証会議」が開かれましたが、そこで大問題として取り上げられたのが堕胎であり、胎児のホルマリン漬でした。私たちは罪責として堕胎も大きく取り上げていましたが、ホルマリン漬についてはその一つの例でした。外からの「一般の眼」がこれを重大視することによって、私たちは私たちの「異常への馴れ」を気付かされたのです。

 というのも本館建替えの際、私たちは、「異常」の「証人」として機敏に対応することなく、あの大量の胎児標本を職員が処分するのに任せてしまったからです。それより以前に、内部の医者および統治責任者という当事者として、その異常さへの反省感覚をもっておられたのが高島先生でした。

 あるとき高島先生が私に、「加賀田くん、お地蔵さんを買ってきたんだが、山のなかに建ててきたよ」と言われました。「子供を堕ろして捨てて、あんな無慈悲なことをしたらいかんのじゃないかと思って、それで石屋によって既製品だったけど地蔵さんを買ってきた。ところが職員に『こんなもの建てちゃいかん』と言われてね。建てるところがないんだよ、きみィー」と嘆かれました。職員としては、自分たちがやったことの罪業を認めることになるということでしょう。

 高島さんは「したことは間違いです」という考え方ですし、なによりも心を痛めておられました。ここにいる以上「どうも気が安まらない。何か心の支えになるものがないと居づらい」と、ご自分のポケットマネーでわざわざ求めてこられたのです。これを聞いて私たちは自治会としてすぐに山の中へ探しに入りましたが、すぐには何処だかわかりませんでした。光明園へ行く旧道から上がって行ったところ、現在の道路からは下になりますが、林の中に見つけて、周囲の雑木やら草を刈って祀りました。

 それからはこっそりとお参りする人が出てきて、花やら線香が手向けられて、いつか自然に道もできました。外からくるお客さんもお参りするようになりました。現在は整備した万霊山に遷しました。親の入っている納骨堂の横手に水子地蔵として祀っています。先生はこういう優しさをもっておられました。

  個人的にもいろいろな話がありますが、文字通り「裸の付き合い」がありました。高野山の宿坊でのこと、風呂に入ると、高島さんが入ってきて、「背中を流そう」と、私の背中を流してくれました。あとで坊さんが「園長先生は患者さんと一緒に風呂に入る」と感心していました。

 園内部では特に職員からの非難に「高島園長は岡山の名士のところばかり行って、大風呂敷を広げている」というのがありました。光田園長は非社交的な学究肌でしたから、その違いが目に付いたのでしょう。しかしロータリークラブの会員になって広く交際したのも、先生としては愛生園を特殊な場所としてではなく、医療の場として認めさせ、地元との風通しをよくしようという意図からでした。このことをはっきりと知ったのは、先生が七十歳の定年を迎えられ、退官と同時に勲一等を授与された、そのお祝いの会の席上でした。

 私にも声がかかり、出席させていただきました。そのとき先生は冒頭のご挨拶で、「今日のような会に私は値するものじゃない。勲一等をもらうような者ではない。この席に患者代表が祝いに来てくれている。このことの方が意義がある」とおっしゃいました。この挨拶のあと、「患者はどこにいる」と、岡山大学の小坂学長や両備バスの松田社長、県の名士が私のところへやってきて、「よく来てくれた」と盃に酒を注がれました。

 これは私個人のことだけではありません。両備バスは長く患者を乗車拒否し、切符を手で受け取らず足で外へ蹴飛ばしたり、かぶった帽子の内を覗き込んでハンセン病者と分かると途中の山道で降ろしたり、入所者の恨みの籠った相手でした。岡山大学とは、歳とともに多くなる合併症治療のためにも医学部との人的交流が不可欠でした。その道が高島園長時代に拓かれたのです。高島園長の活動によって園並びにハンセン病が地元の人々に徐々に理解されて行ったこと、これは充分に成功であり、大きな功績でした。

 先生は晩年、神奈川県の二宮に家を建て、障害者となられた奥様の面倒を見ておられました。愛生園に出入りの業者と患者の大工を連れて行って建てた三十坪の小さな家でした。加倉井夫人と本多さんという方がその家を訪ねた後、私のところに電話がありました。それは「勲一等で表彰しておいて、あのような老後の住まいでいいのでしょうか。生涯をハンセン病に尽くされた方の老後としてはあんまりです」というものでした。このお話も先生が生涯をこの病気に捧げられたことを証明しているように思います。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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