あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

孤児Kさんの縁

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P219~P223


 ちょっと小説のような話があります。
 東京の目黒に「慰廃園」というカトリックの方々が建てた私立のハンセン病救護所がありました。カトリックでは堕胎は大罪です。入所者の男女は厳格に分離します。夜はそれぞれの居住棟にシャッターを下ろしていたそうです。それでも男女が近くにいると、子供ができるようなことが起きます。しかし、そこでは生めません。

 二親は園から出て、都内で子供を生みました。その赤子がKさんで、これらの経緯もKさんから聞きました。それから両親はKさんを伴い愛生園に来たらしいのです。その愛生園もまだできたばかりで、健康な子供を世話する用意はありませんでした。そこでKさんは草津にあった聖バルナバ教会に預けられ、そこの救護所で育ちました。

 Kさんは何年か経って病気は出たけれど、少し症状があるだけで後遺症もなく回復しました。そして、多摩全生園にいた福島県出身の女性と結婚しました。この女性は一家十一人、病気の人も病気でない人も全員が全生園に入所しました。両親が病気だったために子供も全部連れての強制収容でした。そのなかの次女とKさんが知り合って結婚し、社会復帰したのです。それが終戦の年でした。

 二人は東京巣鴨近くの六畳一部屋のアパートに入居して、紙問屋に勤めていました。ところが都営住宅の建設のために立ち退くことになりましたが、住むところが見つかりません。そこで思い切って都営住宅の抽選に応募、くじを引いたところ、三百人を越す応募者の中で幸運にも当選しました。「これはただごとではない。両親が巣鴨近くで生んだと聞いたことがあるけれど、その両親が見守ってくれていたものに違いない」と信じて、以後、両親の行き先を探し始めたといいます。

 私たちは患者運動で東京に出ると、宿賃がないので多摩全生園に泊まります。全生園には池袋から清瀬まで電車に乗って、清瀬からバスに乗ります。私がたびたび東京へ出ているとき、全生園で奥さんのほうのご兄弟からKさんの話が出ました。「Kさんはどこで生まれたかわからない。両親もKさんを聖バルナバ教会に預けてどこへ行ったかもわからないけれど、設立間もない愛生園に夫婦で行ったらしい。その両親の名前はセツオとキミエというらしい。愛生園になにか手がかりが残っていないか調べてほしい」と、多摩全生園には愛生園からも多くの宿泊があるにもかかわらず、たまたま私が依頼されました。

 私は帰ると、すぐにセツオとキミエという名前の夫婦が長島愛生園にいたかどうかを調べました。そうするとお骨がありました。1933(昭和8)年にセツオさんが亡くなって、そのあと何年かたってキミエさんは再婚され、1942(昭和17)年に亡くなっていることがわかりました。

 再婚後のキミエさん夫婦の住んでおられたのが「遍路寮」でした。それは下村海南という朝日新聞の有名なジャーナリストがいて、戦前は貴族議員、戦中は情報局総裁もやったと思いますが、その海南さんが寄付した建物でした。海南さんが『遍路』という著書を出版し、その印税によって建てられたので「遍路寮」という名称が付けられました。

 キミエさんが昭和17年に亡くなった後、「遍路寮」のその空いた部屋に順番が回って入ったのが、私たち夫婦だったのです。調べてみたら、なんと私が住んでいる部屋が、Kさんのお母さんが住んでおられた部屋でした。

 このことをお知らせするとKさんは大変喜ばれました。私が「納骨堂にお骨がありますよ。分骨されるんだったら私が手続きをしますよ」と伝えると、何十年ぶりかに自分の親がわかったと、喜んでここへ来られました。Kさんにとっては生んだというだけのつながりであっても、それは何ものにも代えがたい縁でした。そしてお母さんの住んでおられた部屋に住んでいた私が調べたというのも縁に違いありません。さらに縁がつながりました。

 Kさんはここの納骨堂に初めてお参りに来ました。するとたまたま散歩に来た入園者が突然、「おい、えっちゃんじゃないか」と驚きの声を上げました。その人も聖バルナバ教会で育ち、そこの救護所を出て社会復帰し、再発して今度はここに入園した伊豆大島出身の人でした。その人とKさんが聖バルナバ教会の小学校時代の友達だったわけです。こういう小説みたいな不思議な巡り合わせが、こうして身分を隠して療養したりする人の中にはあります。

 以後、Kさんと私の交流が続き、亡き両親のいるところへ来させてくださいと、毎年というわけにはいかないけれど、何年かに一度お参りされて、会っていましたが、この間、亡くなられました。これは、カトリックの小さな十五人ほどの救護所で「禁断の恋」によってこの世に生を享けて、両親を知らずに育ち、そして両親を慕った一人の生命の話です。

 私が交際するだけでも、ハンセン病者となったがための、いろいろな一生があります。

 下村海南先生と私たち夫婦の縁についても一言つけ加えておきます。海南先生が長島に来られると、毎早朝、必ず園内を散歩されました。その折り遍路寮にいる私のところを訪ねて来られます。戦後になってからのことですが、東京に帰ってから私宛に色紙を託して下さいました。色紙には、「遍路寮もいたく古びたり 我と語る主の妻の新々ういういしき哉」と歌が詠まれていました。古びた寮の姿に、戦に敗れた後の自分を託し、いまだ若くて病気も軽かった私の妻を対照させた感慨でしょうか。この色紙は愛生園歴史館に納めました。

 
2030年 農業の旅→ranking
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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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