あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

「義兄」の死

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P180~P182抜粋


 母の再婚先には先妻の子が三人いました。その家は鳥取に帰るときには、53号線を走る車の中から見えます。しかしその家には子供のときから、現在まで行ったことはありませんでした。

 母は本当に働いて働いて、姑が厳しくて、私は幼心に母はかわいそうだなと思っていました。その頃は養蚕をしていましたから、蚕が桑を食べる時期は養蚕場の蚕の中で寝ていると言っていました。それも二時間やそこらだったといいます。昼間は野良で働き、それから桑採りをして、何時間おきかにそれを与えます。蚕に桑をきらしたら大変なことになります。

 母の没後、妹たちからは、「兄さん、母さんのお墓参りくらいしなさい」と強く言われました。しかし母親はずいぶん苦労して、私もずいぶん苦労をかけています。「わしが墓参りに行ったことでどうなることでもないから行かん」と言って、私は墓参りには行きませんでした

 だいぶ経ってから、母にとっての義理の長男から私に手紙が来ました。私より一歳年上で、そのため一年違いで彼は師範学校に入学できました。教師になり、最期は校長先生で定年を迎えました。この人もどうして知ったのかわかりませんが、私の病気のことを知っていたわけです。そしてこの手紙を寄越しました。

 母と彼はお互いにわかっていたけれども腹に納めて、母親も私のことを言わなかったし、彼も知っていたけれど言わなかったといいます。「知っておりながらすまないことをした。自分は脳梗塞で倒れてベッド生活です。是非こちらに来たときは寄って欲しい。お墓参りをしてあげてくれ。悪かった」と書いてあり、ベッドの縁に立っている自分の写真が同封されていました。しかし私が見舞いに行けないうちに、この人も先に亡くなってしまいました。

 母が言ったように、お互い何も言わなくても通じていました。長男の方もわかっていました。母もわかっていて、でも言わなくても真心は通じていたという気持ちが、後になってわかりました。母が亡くなったとき、臨終にも立ち会えませんでした。しかし、最期に長男は理解してくれました。

 長男の嫁と母は非常に仲が良かったということです。これは非常に幸せなことでした。母は本当に幸せでした。私の病気について母がずっと言わずにい続けたのも「真心は通じる」と信じていたからです。そういうことが人間社会の中にあるのだなと、改めて思いました。

 母は1896(明治29)年生まれの明治の人です。小学校も当時は四年生までで、字もひらがなしか勉強しなかったので、ひらがなしか書けません。でも人間としては控えめでしたが、気骨のようなものをもっていました。自分の母親のことを褒めるようなことを言うのはおかしいのですが、母のなかには明治の人の気骨が残っていたということです。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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