あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

朝日訴訟を知る

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P151~P154抜粋 


 作業賃を始めとする経済的処遇については、ずっと懸案のままでした。そしてこの頃になると、老齢福祉年金、拠出制国民年金、障害福祉年金が大きな問題になってきました。その社会背景として、高度経済成長政策による大衆消費文化が、テレビを始めとするマスコミを通して否応なく波及してきたということがありました。園内においても家庭用電気器具の普及が急速に進みました。

 この頃、結核の国立療養所の患者同盟の方が愛生園の自治会を訪ねてきて、朝日訴訟の支援を訴えました。この訴訟はすでに1957(昭和32)年に提訴されていたのですが、私たちは不明にも自分たちの問題とは感じていませんでした。私たち自身がハンセン病を特別視していたということです。

 朝日訴訟というのは国立の結核療養所に入っている朝日茂という方が、その処遇が生活保護基準の示す最低生活にも達しない劣悪さであり、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す」と謳う憲法第25条に違反するとして国を訴えたものです。

 朝日さんの入っていたのが国立岡山療養所で、長島からすぐ近くの所にありました(現在の南岡山医療センター)。裁判の結果は、第一審の地裁では全面勝訴でしたが、二審の高裁では逆転敗訴となりました。私たちは早速支援に取り組み始め、私も応援に行きました。朝日さんにも会いましたが、たいへんやつれておられました。そして十年の年月を経て1967(昭和42)年に最高裁判決が出ました。

 判決は上告を棄却するというものでした。しかしこの間、生活保護基準が段階的に引き上げられるとともに、国立療養所の入所者の生活が生活保護基準まで引き上げられることになりました。高度経済成長の絶頂期が続いていた頃で、ようやく生きることが保障されるようになった、というよりも私に言わせれば、生きるための一縷の希望が出来たということです。私は1965、66年と続けて自治会長を務めていたので、とくに思い出深いものがあります。ただ朝日さんご自身は判決確定の二年前に残念にも亡くなっていました。

 私は朝日訴訟によって「人権」について新たな目を開かせられました。私たちの生とは恩恵による施しではない。権利としての生活の自覚です。劣悪であると感じても黙って我慢するというのではない。さまざまな形の弱者がそこにいて共生するのが人間の共同体だという考え方です。

 だからこそ人がみな平等の権利をもち連帯ができるという思想です。私たちハンセン病者が結核やその他の病気の方たちと同列で連帯できるようになった、そのきっかけを与えてくれたのが朝日訴訟でした。これ以後、特に「公共の福祉」を大義名分にした病人排除、たとえばエイズ問題なども私には他人事ではなくなりました。

 この支援の過程で私たちの生活実態を細かく計算したところ、確かに生活保護基準すら満たしていないことが判明しました。そして現物支給だった日用品の現金支給等も要求、それまで月額千二百円だった「慰安金」が、1971年から生活保護基準まで引き上げられて月額一級障害者一万円、二級以下が八千円の支給と改められました。「所得倍増」の時代でしたから、これが翌年には二万五千円になりました。

 1973年、鹿児島県選出の自民党副総裁だった二階堂進さんが、強制隔離による損失補償という私たちの要求に対して、これまでのやり方の間違いを認めたのです。「隔離は障害と一緒。障害年金を出したらいい」という考えに基づき政府内の調整に尽力してくださいました。その結果、これをスライド制にして「患者給与金」の名目で出るようになり、これによって私たち一人ひとりは、やっと園内作業などしなくても生活ができるようになりました。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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