あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

政府の「軽快退所基準」

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P148~P150抜粋


 1956(昭和31)年のローマ会議では「隔離政策の誤り」が宣言され、「回復後の社会復帰に必要な援助を与え、人権侵害となるすべての法律を速やかに廃止すること」が決議されました。しかし日本だけは依然として改めようとしなかったため、2年後の「第7回国際らい学会議」は、ハンセン病者を隔離する必要はないということを日本の人々に広く知らせるために東京で開かれることになりました。

 日本政府も隔離政策が世界の趨勢に逆行し、国際的な批判を浴びていることは充分承知しています。その対応策として、厚生省は各療養所に「軽快退所基準」を通知しました。各種関連法の弾力運用による予防法の「空洞化」策の一つです。

 しかし強烈な伝染病だから隔離が必要との基本原則は変えようとしません。DDSを始めとするスルホン剤の使用による在宅通院治療は認めず、治る内服薬が出来ているのに、療養所以外、一般の病院で全く使えないシステムを固守しました。

 強制収容は止めましたが、治療しようと思ったら入って来なければならない。入ってくれば、飛んで火に入る夏の虫ということで、厳しい「らい予防法」の適用を受けなければなりませんでした。最近では早期発見、早期治療によって後遺症も残らなくなったほどですが、当時でも京都大学病院ではカルテの病名欄に症状名を書いて投薬治療していたそうです。

 この頃、ちょうど全患協の本部事務局を各地療養所が3年交替で引き受けることになり、予防法改正のための要求書の草案を瀬戸内三園(愛生園、光明園、大島青松園)で作ることになりました。その作業チームの委員長を愛生園の担当者である私が務めることになりました。

 その成案(「らい予防法改正要請書」)を予防法制度から10年たった1963(昭和38)年に当時の厚生大臣に提出しました。骨子はローマ会議の宣言に従うこと、各国がすでに行って成功していた家庭からの通院治療ができるようにすること、その場合、普通の医者が診てもわからないから指定医制度を定めることなどです。幼稚なものでしたが、その意味するところは隔離政策の根本的見直しでした。

 私自身としては、社会復帰者の場合は補償を受けて正式に実行し、後遺症による重度障害者はその程度に応じた療養生活の安定が図られることが必要だが、そのためには予防法の改正では限界があるだろうと考えていました。つまりは廃止することです。全患協内部には予防法はとにかく入所者の生活安定の前提になっているので、死文化、形骸化させることは必要だが、隔離による損失の補償もないところでの廃止要求では所外へ放り出されることになると危惧する意見もありました。

 そして1966(昭和41)年、私も会長として出席した栗生楽泉園における支部長(自治会長)会議において、全患協は厚生省交渉の第一スローガンとして、「強制隔離収容に対する損失の補償」を掲げ、要求することになりました。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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