あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

予防法反対闘争後の変化

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P146~P148抜粋


 予防法は通過成立しましたが、反対闘争は我々の生活と意識を大きく変化させました。新憲法発布後の後には園内通用票は廃止され、日本国貨幣を使用するようになりました。この頃には外出禁止もずいぶん緩和され、断種や堕胎も行われなくなりました。療養所の監房も廃止されました(これに代わるものとして、熊本の菊池恵楓園に医療刑務所が設置されました)。住宅については内縁関係の夫婦も四畳半程度の個室が整備され、プライバシーが守られるようになりました。

 義務教育も、裳掛小学校第一分教場(旧黎明学園=「未感染児童」用保育所)、第二分教場(愛生園内)、第三分教場(光明園内)に、岡山県教育委員会から正式に教師が派遣されるようになりました。

 また、ハンセン病者用の高校が、予防法反対闘争の成果として設置されました。それが全国で一か所、愛生園内にできた岡山県立邑久高等学校新良田教室(全寮制四年昼間定時制)で、1955年9月に開校されました。

 療養所内で学んでいた小中学生は、これまで将来の展望を持つことも許されず、特にプロミンによる治療が導入される以前の教育目標は自治会の仕事ができればいいというものでした。全国の療養所から入学試験を経てやってきた一期生30人の平均年齢は22歳、中には30歳を越す生徒もいました。対象者がいなくなって1987(昭和62)年3月に閉校しましたが、32年間に307名が卒業しています。その卒業生の中には複数の医師国家試験や司法試験の合格者がいます。興味深いところでは作家の冬敏之(多喜二・百合子文学賞)、伊波敏男(沖縄タイムス出版文化賞)もいます。

 愛生園ではそれまで患者が患者を介護することが慣例のように続けられてきましたが、予防法反対闘争の余勢を駆って、看護の専門職員への切替え闘争が1954(昭和29)年から始まりました。翌年、病棟だけは看護師が置かれるようになりましたが、愛生園において不自由者(身障者)棟での看護師への切替えを終えたのが10年後の1963(昭和38)年のことで、この年になってようやく入所者による患者付添いがなくなったわけです。療養所開設以来の「一大家族主義による同病相愛、相互扶助の楽園」構想はここに終わりを告げました。これは園内生活に大きな変化をもたらすことになります。

 1957(昭和32)年には、開所以来の光田健輔園長が退官、浜野藤楓協会理事長の斡旋によって国立駿河療養所所長だった高島重孝先生が二代目園長に就任しました。光田園長は1898(明治31)年、21歳で東京市養育院(渋沢栄一院長)に奉職、ハンセン病者に出会って以来、救済と医療と医療行政に生きて60年、81歳になっていました。このとき高島先生は就任を引き受けるにあたって浜野理事長に長島へ橋を架けることを条件とし、浜野氏も大蔵省との間に了解を取り付けていたとのことです。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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