あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

「らい予防法」反対運動

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P140~P142抜粋


 1953(昭和28)年、「らい予防法」が改めて制定されました。この法は旧「癩予防法」が基本とする強制収容による終生隔離政策を継承していたため、すでに全国組織を作っていたハンセン病患者は、初めて国民の前に公然と姿を見せて反対運動を繰り広げました。前年のうちから始まった運動は、五月に入ると全国の療養所で作業ストライキやハンスト、そして国会への集団陳情、座り込みと激しさを増してゆきました。

 新法は衆議院本会議(7月4日)で討論もなく3分間の賛成演説だけで通過しました。参院厚生委員会での討議も終局を迎えた7月31日朝8時半、多摩全生園の600人は職員の制止を振り切り園の正門を突破、国会へ向けて田無街道を都心に向けて歩き始めました。11時、武装警官隊200名が出動、田無町の入口で行進を阻止、夕方まで対峙した後、患者の一部は近くの清瀬結核療養所他のバス5台を借りて国会へ向かったということです。

 結局8月6日、新「らい予防法」は入所者の要望である家族援護、高等学校の設立等9項目を含め、「近き将来本法の改正を期する」という「付帯決議」を付けて参議院も通過しました。

 この7月末には、長島愛生園においても「大事件」が起きていました。「予防法」反対では一致するものの、その運動の進め方について強硬派と穏健派に分かれました。穏健派は予防法と光田先生個人は別として、光田園長絶対支持です。

 7月末、強硬派の300名が本館前に坐り込みをしました。その夜、礼拝堂の小公園に建っていた光田園長の備前焼製胸像が何者かによって破壊されました。この胸像は岡山の「長島友の会」(会長・橋本富三郎元岡山市長)が1947年に、光田園長の古稀を祝って贈ったものでした。破壊を知った穏健派300名が胸像のあった礼拝堂横広場に集合、強硬派の糾弾を始めました。両派の激しい対峙を見た園当局が警察の出動を要請、警察が警戒体制を数日間続ける事態となりました。

 胸像破壊犯人は不明のまま、両派の対立は治まらず、自治会幹部による事態収拾の不能から、ついに機能麻痺に陥ってしまいます。この強硬、穏健派の対立の元はすでに2年前の参議院厚生委員会にあったのです。


1936(昭和11)年にあった長島事件は園当局と入所者の対立であり、1953(昭和28)年の「らい予防法反対運動」に関しての事件は入所者の内部抗争(対立)であり、混同されませんように。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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