あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

犀川一夫先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P194~P198抜粋


 犀川先生は慈恵医大の医学生時代にハンセン病医療に一生を捧げることを決意し、その道を貫かれた敬虔なクリスチャンです。愛生園を辞めるという話が伝わったときには入園者1700名が署名して、厚生大臣宛に留任をお願いしましたが、こんな例は他にはありません。戦争末期に光田先生を慕って長島へ来られ、召集され軍医として「中支」を転戦、復員して今度は正式に愛生園に就任されました。

 私は1944(昭和19)年、病気が悪くなったときに犀川先生にお世話になり、そして戦後はまたプロミンの主治医としてお世話になることができました。「プロミンは初めてで、その使い方は私にもわかりません」と、たいへん率直なお人柄で同年輩ということもあり、いろいろな世間話も親しくできました。

 プロミン使用によって菌の陰性者が続出し、園内の雰囲気がどんどん明るくなってゆきました。先生は、内服薬も開発されて自宅からの通院治療が可能になったのだから、もう隔離しているのは間違いだと思っておられました。しかしそれを言うことは光田理論から離れることであり、恩師に反対を唱えることは意に染まないということで悩まれたと思います。

 その頃キリスト教の医療団体から、今なおハンセン病者が多く発生している東南アジア地域に専門医師がいないので先生を派遣したいという話が持ち込まれて、先生は1960(昭和35)年、台湾に渡られました。そこで内服薬投与による外来治療制度という先生の考えておられた医療を、厳しい条件のなかで責任をもって実践されました。東南アジア各地で診療、調査された先生はWHO(国連・世界保健機関)に推挙されて、その専門官として西太平洋地区各国の状況に合ったハンセン病医療政策、体制造りに参与されました。

 先生はこの地域で医療に尽くす動機として、太平洋戦争中に日本軍が行った罪障への償いと奉仕の気持ちがあったと自ら記しています。この地域のハンセン病発生者の減少を見て、WHO本部は先生にアフリカのナイジェリアへの派遣を打診しました。しかし先生は恵まれた待遇のWHOを辞めて、米軍占領下の沖縄に行くことを選びました。

 沖縄においては1967年においても173名の新患者が発生していました。そして専門医師がなぜか一人もいませんでした。前から診察に行くたびに、琉球政府や患者から着任を懇請されていたそうです。

 先生は沖縄愛楽園の園長に就任されると、その最初の仕事として職員住宅と患者区域を隔てるだけでなく、園全体を囲った真っ黒な高い塀を撤去させました。1972年の施政権変換、沖縄の日本復帰にあたっては本土政府のらい予防の適用に抗って、ついに「特別措置法」によって在宅外来治療を公認させました。また本土においてはあり得なかった回復者の職員採用を認めさせました。そしてハンセン病医療を一般保健医療体制のなかに組み入れ、沖縄県全域の保健所の玄関窓口に表示される診療日程表に「ハンセン病診療担当 犀川一夫医師」と告知されるまでになりました。ここまでをほとんど独力で実現されました。

 予防法が廃止になったときの言葉が忘れられません。山縣有朋の邸だった椿山荘で廃止の記念式典が行われて、私も出席しました。玄関でタクシーを降りたら、ちょうどそこに犀川先生も降りてこられた。顔を合わすのは私が沖縄に行ったとき、先生のところを訪ねて喜ばれたとき以来でした。お互いにもっとも古くからの主治医と患者ですから、先生は「おお、永いこと元気でやっとるな!」と、久しぶりに肩を抱き合いました。

 そして会場まで歩きながら先生は、「いやあ、私も長島が好きだった。若いときあそこの果樹園の梅の木の下で一杯飲んだこととか、患者さんと一緒に勤労奉仕をしたことが懐かしいよ。予防法が今日のように、もっと早く廃止されとったら、きみらと一緒に長島におったのに。何年遅れたか」と言われました。

 その言葉を聞いて、やっぱり先生は私が思っていた通りだなと思いました。私としてはもう少し強く主張してほしかったのですが、恩師の考えを深く理解するがために、その恩師を裏切るような真似はできなかった。そのために大変苦しまれた先生でした。

 亡くなる三、四年前、犀川先生から愛生園に旧交を温めに行きたいという連絡があったので、先生を歓迎して親しかった人たちが集まりました。そこでは「私は遺言をしに来た」とおっしゃいました。その遺言とは光田先生の本心についての説明とご自分が愛生園を去った理由でした。

 ━━光田先生は本心から患者さんのことを思っておられました。この病気は深いから、特効薬ができたといっても十年たってみないと簡単には治ったとは言えないという信念をもっておられました。その頃、ひどい症状の患者を診察されたときに、「プロミンがある時代にまだこのような患者が隠れていたとは、これは我々医師の怠慢だよ」と涙を流しておられました。国会証言で、先生はそういう気持ちをそのままああいう言い方で言ってしまったのでしょう。

 その後、先生はお歳のことがあって勇退されました。私は十年たって、プロミン投与のその後の結果を身ながら、自分の意に染まない形で医療をすることはできないからと長島を出ました━━

 これを遺言として私たちに伝えたかったとおっしゃったのです。

 犀川先生は、国家賠償裁判では証人台に立たれ、原告側に極めて有力な証言をなさいました。私の生涯において、たまたまこのような先生と若いときに出会って親しくなったことは非常に印象深く心に残る出来事でした。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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