あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

戦後の変化

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P122~P123抜粋



 終戦の翌年、衆議院の補欠選挙で初めて選挙権を行使しました。それまで「入所者」には公民権がありませんでした。税金のお世話になっている者が何をいうか、ということでしょう。新しい憲法で初めて「人権」という考え方を知りました。

 終戦直後は、一般国民と同じで入所者も竹の子生活でした。竹の子の皮を一枚ずつはいでいくように、なけなしの衣類と少しずつ交換することで僅かの食糧を確保しました
。海に囲まれていながら魚釣りすら、付近の漁業権を犯すということで激しく禁止されていましたから、魚類を獲って食べることもできませんでした。ですから、付近の陸地の漁師が魚を持ってきます。すると家内が「おじさん、魚わけてちょうだい」と、衣類とか、配給されても使わずにとっておいたタバコやマッチを差し出すわけです。これはすでに戦時中から始まっていました。

 漁師には衣類、木綿のものが好まれました。母が行李の中に入れておいてくれた、自分で織った絣の着物はたくさんの魚と交換できました。レインコートや案外に学生服が喜ばれました。

 あるとき大事な衣類と交換した魚を外で七輪で焼いていたら、通りかかった職員が「おまえらだけ勝手に贅沢してどうしたことだ!贅沢もの!」と七輪ごと足蹴にしました。私も腹が立って、思わず「この野郎!」と立ち上がりましたが、家内が「やめてくれ」と泣くので我慢したなどということもありました。衣類もすっかりなくなりました。

 同じ長島の光明園では、敗戦の翌年のことですが、児童舎にいる十代前半の子供たちが罠を使って、カラス、トビから野良猫、ヘビ、カエルなどを捕まえて解体し、寮母に雑炊にまぜてもらっていたと崔龍一さんが書いています。(『猫を喰った話』)。その子供たちには暗さや惨めさはなく、むしろ誰の世話にもならず自分たちで獲物を取ってくるという明るい逞しさがありました。確かに長島から野良猫がいなくなったと言われたものですが、それほど飢えとは厳しいものでした。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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