あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

戦争末期


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P117~P119抜粋


 昭和20年に入ると、食料が療養所に廻ってくることなど期待できなくなり、私たちも園の許可をもらって開墾作業をすることになりました。島の森を拓いて畑にして、種芋も本州のほうから融通してもらって植えつけました。溜池や水田も入所者の労働で造りました。いずれも重労働ですが、自給しなければ飢え死ににします。動ける人(7割)は男女の別なくみなゲートルを巻いたり、もんぺ姿で畑作業ですから、まったく異常ですが、その異常が日常となったのがこの時期でした。

 開墾地へ上がる急傾斜をだれ言うともなく「自殺坂」と呼びました。重い「肥たご」や水桶を提げて上がります。途中でひっくり返せば、そこまでの努力がまさしく水の泡と消えました。また「たこ足作業」とも言いました。自分の食い扶持を自分の生命を削って獲得しようとしているからです。動けない不自由者、重病者は自分で食い扶持を確保できないので、かわいそうでした。

 こうした状況のなか、さらに療養者に対して松根油の採集労働が義務付けられました。松根油をというのは、読んで字の通り、松の根から採る油です。島に生えている大きな松の木を切り倒してその根を掘り起し、海辺にまで運んできて斧で割り、その鰹節大の塊りを海辺に据え付けた大釜で長時間焚いて精製した油です。

 これが戦闘機の燃料になるのだそうです。松の大木が密集した緑の島もハゲ山に変わり、松の大木を求めて他の島にも行きましたが、すでに制海権も制空権もなく、南方から運んでくるべき石油もない状況下での窮余の策でした。こんなものを飛行機に使って戦争に勝てるわけがないと、私でも思っていました。

 健康人にも重労働のこの作業のために、屈強な人を、当時の言葉で言う「軍事徴用」に出すよう、施設側から要請されました。その代わりに食事をうんと出すと言うのですが、それで松寿寮で患者の中から十五、六人だったと思いますが、選んで徴用労働に出てもらいました。私たち役員も応援に行きました。

 愛生園にいた私たちにとって、戦争というのはこのようなことでしたが、しかしくだらんことをやったと思います。戦争には負けてよかったと思います。

 愛生園入所者数がもっとも多かったのが1943(昭和18)年で2009人(死者163名)、前年は1800人でした。1942年から1945年まで4年間の死亡者が889人(逃走が413件)、1945年は死亡者最多で332名(1478人の23%)、翌1946年の死亡者は312名です。死者のほとんどは栄養失調です。そのため戦後2年目の1947(昭和22)年には在所者が1200人に減少しています。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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