あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

死までの隔離


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P9~P12抜粋


 私は「人権」という思想を戦後になって初めて知り、素晴らしいものだと思いました。それ以降、患者運動を実践しながらその中身について学んできたのが私たちです。若い人たちは人権について教育を通じて幼いときから学んでいるのでしょうが、感覚として体得していることに驚かされます。

 「らい予防法」が廃止されてから、私も講演に呼ばれる機会がずいぶん増えました。そこでお話しする内容は「差別と人権」といった演題になりますが、ハンセン病に罹った人がどのような処遇をどういう社会状況のもとに受けてきたのか、それを規定した法律がなぜこの10年ほど前まで生きていたのか、そしてこの問題を真に終わらせるとはどういうことかと言ったことについて、私の体験や考えを述べます。

 そのなかで私は”断種”を受けた体験を話します。断種が結婚の条件だったこと、断種によって、国は私たちに子孫を作らせなかったという話をします。ハンセン病は従来信じられていたような遺伝病ではなく、伝染病だから隔離が必要だと大宣伝していたにもかかわらず、です。仮に遺伝病だとしても断種が認められるかどうかは大きな問題です。

 というのは戦時中、「国民優生法」ができて、遺伝病の種類によっては断種が認められました。その目的は、「優秀頑健な民族」を作るために足手まといになる社会的弱者をなくそうというところにありましたが、ハンセン病は遺伝病ではなく伝染病だからと除外されました。それが戦後、新憲法下において「優生保護法」となって、ハンセン病は伝染病のなかでも唯一、断種の対象になりました。同意の上でと言う事になっていましたが、結婚による個室確保には断種が条件になっていました。

 また、妊娠した入所者や妊娠して入所した女性患者は堕胎させられました。胎内感染はほとんどないと判明していたにもかかわらず、です。理由は育てるための施設や人員、つまりは予算がなく、生まれた子供の将来を考えると幸福な人生を送ることが困難と考えられたからです。発病した母や父といっしょに島へ来た「未感染児童」(という名称が付けられて、つまりは健常者なのですが、医師や職員などの児童とは別に扱われていました)が療養所運営上の問題になっていました。

 名称こそ「療養所」でしたが、現実には病者が死亡するまで閉じ込めておく施設だったわけです。ハンセン病の患者を日本全国から狩り集めて隔離し、その死滅を待って民族の優秀化を図ろうという狙いです。結婚を認めたのも、園内で一生を送らせるためでした。結婚後に発症して入所した男女の多くが内部で伴侶を見つけました。入所者が定員超過で住居が足りなかったので、多くが通い婚でした。それも12畳半に6人が住む女性部屋が「通い婚部屋」となって、夜になると6組12人になるという残酷なジョークのような、動物以下の現実を日常の姿として受け容れていました。一歩園の中へ入ると、それを当り前として受け容れざるを得なかったわけです。

 この未入籍結婚、実質的には同棲もできないような結婚でしたが、それでも許可を得るためには断種手術を受けなければならなかったのです。とにかく夫婦生活をさせて平穏安定を図るという秩序維持政策でした。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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