あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  深田冽さん(1)



一日の盲のおもひより放されて眠らむしづけさに海鳴りきこゆ




触読にひたぶるなるときかなしかなし球ぬきし眼にも力凝らしつつ




点字器もてうちたる文字にも個性あり友よりの文読みつつおもふ




患者一人を検束すると取りかこむ職員はつめたく声をかけあふ

こういう短歌を残すにはかなり勇気がいっただろう。当時の療園においては。




毀されし園長の像をとり囲み哭きすがりゐし演技をにくむ

この短歌の補足説明・・・1953年(昭和28年)、「らい予防法」が改めて制定されました。この法は旧「癩予防法」が基本とする強制収容による終生隔離政策を継承していたため、すでに全国組織を作っていたハンセン病患者は、初めて国民の前に公然と姿を見せて反対運動を繰り広げました。前年のうちから始まった運動は、5月に入ると全国の療養所で作業ストライキやハンスト、そして国会への集団陳情、座り込みと激しさを増してゆきました。
 
この7月末には長島愛生園においても「大事件」が起きていました。「予防法」反対では一致するものの、その運動の進め方について強硬派と穏健派に分かれました。穏健派は予防法と光田先生個人は別として、光田園長絶対支持です。
7月末、強硬派の三百名が本館前に座り込みをしました。その夜、礼拝堂の小公園に建っていた光田園長の備前焼製胸像が何者かによって破壊されました。この胸像は岡山の「長島友の会」(会長・橋本富三郎元岡山市長)が1947年に光田園長の古稀を祝って贈ったものでした。破壊を知った穏健派三百名が胸像のあった礼拝堂横広場に集合、強硬派の糾弾を始めました。両派の激しい対峙を見た園当局が警察の出動を要請、警察が警戒体制を数日間続ける事態となりました。
・・・この頃には園長辞職要求の強硬派と園長に心服する穏健派の対立は目立って来ていました。そのため自治会会長選挙は紛糾、三ヶ月を要して一票差で穏健派が当選しました。
しかし、この胸像破壊事件は両派の対立を先鋭化させ、ついに後戻り不能とさせました。妥協点も見出せず、多数の役員が辞任、機能麻痺に陥った自治会執行部はついに自ら事務所の閉鎖を宣言しました(11月)。1954年(昭和29年)には、いよいよ園当局が乗り出し、「現役員は全員一年間就任しない」他の勧告を出し、冷却期間を置いて三月、改めて役員選挙を実施、自治会を再建しました。

かつて、自助会が解散させられ、戦時中は下請け機関になってしまったわけですが、それでも自治会は自分たちの組織でなければいけないという思いがありました。そこには長島事件(昭和11年8月)の、あのときあそこまでやって自助会を作ったんだという気持ちがどこかに生きていました。
(以上は、加賀田一さんの著書「いつの日にか帰らん」から抜粋させて頂きました)

加賀田一さんは詩も短歌も俳句も随筆も、いわゆる「文学」というものは一つも残されていない。しかし「いつの日にか帰らん」というこの一冊を残してくれたことに大変感謝している。
とてもわかりやすく、これ一冊で長島愛生園の歴史がわかると言っても過言ではない。





手さぐりて培ふ金盞花は咲くほどに目の見ゆる人にもらはれてゆく




探り杖つくに用なく馴れし庭形あるごとく沈丁花匂ふ





2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム