あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  近藤宏一さん


うらを見せ おもてを見せて

 朝起きて、身支度をしていると、突然婦長さんがお見えになった。こんなに早くどうしたのだろうと訝りながら、上着を着ようとしていると、
 「今朝方、守口さんが亡くなられましたよ」と言われる。思わず顔を上げると、
 「昨日入室したんですけれど、もう遅かったんです。肺炎だったんですよ」と。
 風邪をひいて休んでいるということを聞いて、私が廊下伝いに守口さんの部屋を訪ねたのは、一週間程前のことだった。その時は、床の中とはいえまだ元気で、久しぶりに思い出話をしたり、教会の話をしたり、守口さんの好きな讃美歌「ここも神の御国なれば」を一緒に口ずさんだりしたことなどを思うと、今朝の訃報は信じられない。婦長さんは言葉を継いで、
 「あの時、介護員の報告を聞いてすぐ部屋へ行ってみたんです。そうしたら熱は高いし、食事は取っていないと言われるし、これはいけないと思い、入室を勧めたんです。ところが普段でも一徹なおじいちゃん、その時は一層頑固で、私の言うことなど聞き入れてくれそうにありません。でも私、一生懸命勧めたんです。そうしたら、やっと一つの事を打ち明けてくれたんです。それは、自分の娘に会いたいって言うんです。守口さんが愛生園に来た後、間もなくお嫁に行った一人娘だと言うんです。時々、面会に来ておられた奥さんが亡くなられてからは、もう肉親といえばその娘さんが唯一人、それも長い間の音信不通、まるで雲を掴むような話です。でも私、守口さんのその願いを叶えてあげたいと思って、福祉へ頼んでおいたんです」

 私は婦長さんの話を聞きながら思った。ハンセン病を発病した私たちは、世間の目を恐れて、自分から身を隠そうとしてきたし、家族から遠ざかる例も少なくはない。まして他家へ嫁いで四十年、会える可能性は非常に少ない。ところが婦長さんは意外にもこうおっしゃるのだった。
 「実は昨日の昼頃、その娘さんという方が面会に来られたんです。六十過ぎの、和服を召した上品な方で、S子さんとおっしゃる。早速部屋へお連れして、守口さんの耳元にそれを告げると、さすがに驚いて、二人はしばらく顔を見合わせたまま、声も出ないでいるんです。でもやっぱり親子、それと分かると、S子さんはいきなり布団の上へ覆いかぶさるようにして、わっと泣き出す。守口さんも呻くような嗚咽を・・・。そうなると他人の私のいるところではありません。そっと部屋を出たんです。それから三時過ぎだったでしょうか、そのS子さんが管理室の私の所へおいでになって、「大変お世話になりました。父をよろしくお願いいたします、この次来る時はもっとゆっくりさせていただこうと思います。」と丁寧な挨拶を残してお帰りになったんです。私はホッとして部屋へ取って返してみると、守口さんは床の上に体を起こしていて、私を見るなり、「婦長、わしゃ入室するぞ、入室じゃ入室じゃ」とまるでだだっ子なんですよ。娘さんに会えたことが余程嬉しかったんですね。それだのに、病室へ入ると急に容体が変わってね」

 婦長さんはすすり泣きをこらえるように廊下に立って戸をいっぱいに開けられた。涼しい風がさっと流れ込んで来た。中庭のむこうの守口さんの部屋から、例のしわがれ声の讃美歌が聞こえて来そうに思えた。私は初めて守口さんと出会った遠い日のことを思った。

 私が眼を悪くして不自由者棟に移ったのは、昭和二十五年であった。その部屋には池山さんというおじさんがいて、その人の所へ、時々裏の方から訪ねて来ていたのが、この守口さんだった。このお二人は、去る昭和十七年、東海地方のある県から、同じ列車に乗せられて、この島へ送られて来たという。池山さんはお百姓、守口さんは海産物問屋の番頭で、当時国防婦人会の会長をしていたしっかり者の奥さんと、年頃の娘さんを残して来たという。二人は共に五十歳がらみ、何かにつけてよく似ていた。いかめしい髭面といい、病気による手指の欠損といい、片足義足というのも同じであった。二人はお茶が大好きで、時折カタログを広げては、今日は玉露にしよう、煎茶にしよう、いやこっちの抹茶がいいよなどと、高い金を出し合ってそれを注文し、果ては部屋の中央の木の火鉢でお湯を沸かし、懇ろにそれを立てて、同じ部屋の私たちにもふるまってくれた。

 夏のある朝、私は野点のだてに誘われた。目指すロザリオの丘までは約二百メートル、満天の星がこぼれ落ちそうにまだ残っているという夜明け前であった。曲がりくねった道を上り詰めると、そこには思いがけない人が待っておられた。耳鼻科の女医のN先生であった。先生は、私たち三人を足元の茣蓙の上に、円座を組むようにして座らせて下さった。眼の前では炭火の匂い、お湯のたぎる音、もう用意は万端整っているらしい。深呼吸をすると、丘の上の佇まいが胸いっぱいにひろがってきて、とても気持ちがいい。
やがて先生は、
 「東の空が白み始めましたよ、日の出ですね。そろそろ始めましょうか」
 とおっしゃって、まずは私たちの手の平にそれぞれ小さなお菓子を、次いで鮮やかに茶筅をさばく音。
 「さあどうぞ一服を」
 と、初めは池山さんから、次に守口さんに、続いて何の作法も知らない私にも、それは文字通り五臓六府に染み渡るものであった。先生ご自身も、口に含んでゆっくり味わっておられるご様子。
 「こんなお茶の会、いつから始めたんですか」とおたずねすると、
 「今年になってからですよ。今朝で三回目です。もっと来てあげるといいんですけどね」と、先生は優しくおっしゃる。
 「いやいやありがたいことじゃ、こんな朝のええ空気の中でのう。そうじゃ、ここも神の国じゃでのう」とは守口さん・・・。

 あれから幾星霜、池山さんは既に世を去り、N先生は南の方の療養所へ転勤して行かれた。そして今朝、平成6年9月16日は、その守口さんが逝ってしまわれたのである。

 ハンセン病はドラマだと思う。ここに十人おれば十遍の、百人おれば百遍のドラマがある。守口さんもそのヒーローの一人であって、この限られた療養生活の中では、しかし比較的自由な心で生きた人のように思える。良寛の句に、
 「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」
というのがあるが、墓碑銘にしてあげたいものだ。
 「守口さんは九十三歳だったんですって」と、婦長さんのすすり泣きもようやく終わったようだ。

(「点字愛生」第167号 2005年6月)



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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