あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  近藤宏一さん


太平洋戦争

 昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争の荒波は、らい療養所の子供達にも容赦なく襲った。十八年十九年の頃、日用品のうち特に食料が欠乏して、子供達を餓鬼道に落とし入れた。
 年長者を中心とする農作業は、五反歩の畑を耕すのに激しい汗を強制され、大人の入園者が栄養失調でばたばた死亡していくのにつれて、子供達も例外ではなかった。指導者たちは、戦争遂行に迎合して、寮生活、学校生活、少年団活動、農作業等の運営を一つに纏めて「望ヶ丘錬成道場」と名づけて勤労奉仕に駆り立てた。しかも農作業による収穫物は、百パーセント中央炊事場に供出させられたから、子供達の飢えを和らげることは無かった。

 抵抗することを知らない子供達、批判することを許されない時代、地獄の惨劇はいたいけな命を奪いさりながら、昭和二十年八月十五日の終戦の日が過ぎてもなお続いたのであった。

 ある夜、非常呼集のラッパが丘にこだまして、向うの谷間の豚舎に火事が発生したことを告げた。この養豚場は入園者自治会が患者作業として経営していて、時には一千頭を超える岡山県で最大の規模を誇っていた。私も急いで団服を身に付け、皆と一緒に広場に集合し、消火作業に駆け出そうとしたが、暗い屋外に出ると、目の前が黒幕を張ったように見えなくなるのにハッと息をつめた。瞬きをしても見えない。幾ら目をこすっても見えない。栄養失調による夜盲症であることがわかった。

 戦時下における栄養失調は慢性的となり、光田園長は、長島全体を農地として耕すことが出来るように政府に懇願し許可を得た。患者一人二十坪の山地を割り当てて、ジャガイモやサツマイモ等を作らせて、飢えをしのいだのは苦肉の策であった。軽症患者は言うまでもなく、手や足に後遺症を持つ不自由な患者までが鍬を振るって命をつないだ。これを「報国農園」と呼んだのは皮肉であった。

 しかし、入園者千四百七十八名の中三百三十二名が飢餓と結核によって命を失ったのは太平洋戦争終了の年、昭和二十年であった。

 昭和十八年一月二十八日、私は父の許可を得て故郷に帰り、大阪市内にある海軍監督工場に就職した。やがてくる徴兵検査に備えるためであったが、兵器をつくる一挙手一投足は生きがいに満ちていた。初めて手にした給料袋、厳しいけれども優しい職場の先輩達、思わぬ出会いとなった恋人。あの島の療養所の生活とはまったく異なった喜びの日々であった。やがて、生まれ故郷の役場から、兵隊検査の予備的な通知が届いた。私の胸は躍ったが、父はその書面を開いたまま眉を曇らせた。
 当時父は新しく迎えた母に、私が病気を持っていることを隠していたので、この役場の通知は父の心を当惑させて止まなかったのである。
 やがてその日が近づいたとき、私の胸は騒いだが、父の言葉は重かった。
 「もしも検査を受けて、お前の病気が分かればこの家庭は崩壊する。諦らめてくれ」と言うのであった。約束が違う、悔しさで体が震えた。

 夜行列車に乗り、バスに乗り換えて、思い出の長島を目の前に見たとき、諦めていた胸のつかえが涙となって溢れ出た。海の向うに潤む長島の灯、今度こそ生涯の友となるであろう病友の面影、これが人生のすべてを失った者の第二の失楽園であった。



2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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