あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  近藤宏一さん


よき精神看護を望む


点字愛生50号に掲載された「盲人会によせて」という楊井総婦長の一文を読んで私はひどく胸をうたれた。長い間重病棟に入室していて、暗い心の窓を閉ざしたままだんまり抵抗を続けているというAさん、味噌汁に卵が入っていないといって助手さんを困らせたというBさん、それは決して他人事ではなく、まるで私の心の中を覗き見られたような気がしたからである。Aさんのだんまり抵抗、それはいつから始まったのか、どうして生まれたのか。誰がそのようなことを教えたのか。私はAさんなるその人を知らない。しかし私の体験してきた長い療養生活30年の過去をふり返るとき、そのだんまり抵抗なるものの本質が、ほぼ分かるような気がするのである。それは口先だけの言葉や、形式的な、事務的な看護だけでは決していやすことの出来ない古く深い傷跡なのである。私は次にCさんの場合の実例をあげてこのだんまり抵抗なるものの本質を解剖し、今後みんなのために、よき看護が行われるよう要求したいと思う。

Cさんは文字通り戦前の強制収容にによって長島愛生園に入園した。もう二、三日待ってほしい、その間に妻や子供たちを親戚に預ける話をするから、と平身低頭頼みに頼んだのだが、係官はこれを許さず、おろおろと見守る妻子を後に彼は無理矢理トラックに乗せられたのであった。その後、彼が使用していた衣服や、道具類は忽ちにして火に焼かれ、家は消毒液に満たされ、それまで平和だった彼の家庭は瞬時にして地獄へと化したのであった。あくる日、近所の人々の冷たい目をのがれて妻子が鉄道に身を投じた事を知らされたのは、彼が島に来てすでに半年を経過してからであったという。Cさんのだんまり抵抗は実はこの時から始まっているのである。

私は彼の場合の話を更に続けねばならない。昭和21年の夏の頃、彼の掌に一枚の伝票が届いた。それは当時ものすごい勢いで園内に蔓延していた赤痢病棟への臨時付添6日間の繰出し伝票だったのである。彼は拒否しようとした。しかし当時の付添作業というのは患者間の最高の美徳であり、最高の義務とされていたので、作業場が忙しいということを理由にすれば、作業部長の証明書を持って来いといわれ、健康状態が悪いといえば医者の診断書を出せとつっぱなされて、彼はすごすごとこれに従わざるを得なかったのである。終戦後の混乱していた時代に瀬戸内海の小さな島のらい療養所、しかも急性伝染病の赤痢病棟がどんな悲惨な有様であったかは、想像に難くないであろう。医薬品の欠如、栄養源の不足は勿論、昼間でもうす暗い病棟からは毎日のように死亡者が運び出され、停電や断水がくり返される中では室内の掃除や給食の状態、或いは一人の患者が一日に何十回とくり返す用便の後始末など、患者の看護業務が適正であろう筈はない。彼は忽ちにして感染した。赤痢病棟における闘病生活は悲惨で苦しかったが彼は奇跡的に退室することが出来た。しかし退室後健康が快復するに従って彼の本病は騒ぎはじめた。神経痛や熱コブによって手足が侵されるのみならず彼の瞳に光が届かなくなるのに数年を要しなかったのである。後日医者が彼に対してやはり赤痢という大病を患ったことが病気を騒がせた原因になっている、と述懐したのをきいたとき、彼の心は一層かたくなとなり、だんまり抵抗は一層深くなったのであった。

強制収容によって妻子を失い、看護体制の不備によって赤痢が感染して遂に手足のみならず瞳まで犯された彼は、一体何によってその生涯を報われるというのであろうか。彼が療養所へ来たのは誰のためか。何のためか。固く暗く閉ざした心の窓、だんまり抵抗の冷たい表情はこうした歴史のしこりを深く深く内在しているのである。

Aさんの場合もBさんの場合も、このCさんとそして私と一体どこが違うのであろうか。私は思う。現在の看護体制が完全に職員の手によって行われ、医薬品も充実し設備もある程度充実している中で、今まで報われなかった古い傷跡を一体どうすれば癒すことが出来るのか。

今私が望むのは、そのよき精神看護の面である。表面的な言葉のやりとりではなく、或いは形式的な事務的な看護でもない。救らい事業という美名の陰で犠牲となった幾多の生命や心の古傷に対して人々は今こそ等しく心からの理解とねぎらいを送るべきではなかろうか。一服の薬を与えるとき一本の注射をうつとき、こうした長い歴史の中で傷つき傷ついてきた心を思いやることによって固い固いだんまり抵抗の表情は少しずつほぐれてくる事を私は信じて疑わない。それは一日や二日では駄目だ。何日も何年もかかってくり返しくり返し行うべきであろう。味噌汁の中に卵が入っていた入っていないという問題を起こしたBさんの場合も単に卵一個の問題ではない。それは看護る者とみとられる者の信頼の問題である。信頼は理屈では生まれない。通り一ぺんの説法では勿論駄目だ。不自由者看護の問題にしてもそうだ。補導員は女中ではない。最初園当局が計画した肉体的なリハビリテーション、精神的なリハビリテーションを、その侵された条件の中において少しでも実施してほしいものと思う。

十数年前、吾々の組織である全盲連が、不自由者看護切替を要求した時に夢見た理想は今、目の前に迫っているともいえる。本省や園当局がその考えをいま一歩前進させることによって、それは実現するのである。私はAさんやBさんが一日も早く病室を退室することを祈り、また今は亡きCさんの冥福を祈りながらこのペンをおきたいと思う。
(「点字愛生」第56号 1969年12月)

近藤宏一さん著作「闇を光に」P96~P99 より抜粋させて頂きました。


2030年 農業の旅→ranking



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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