あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  近藤宏一さん


近藤宏一さんの思い出


近藤宏一さんの一周忌になります。
ずっと「青い鳥楽団」のことを思っていました。
 
私がハンセン病療養所東北新生園に入所したのは、小学6年生、12歳の夏休みの時でした。左手の指が少し不自由になり、父に連れられて診察に行ったのです。診察の結果は即入園でした。

夏が過ぎ、冬が過ぎても、左手の指は治る様子がありません。それどころか中学校を卒業する頃には、両脚にも神経麻痺が広がり、特に足の裏に傷ができようものなら、治ることは難しくなっていきました。私の体質にはプロミンは合わなかったので、肉体的に不安がいっぱいでした。

昭和36年当時、私たちが入学できる高等学校は、日本で唯一長島愛生園にしかありませんでした。私は、その県立邑久高等学校新良田教室を受験して合格したので、愛生園に転園することになりました。「伝染病患者輸送」と書かれた紙の貼られた列車に乗って岡山駅まで行ったのです。本土と長島との距離は、最も近い瀬溝から約三十メートルほどしか離れていないのですが、橋は架かっていませんでした。

高校の校舎、職員室、寄宿舎は同じ敷地内に建っていました。教師に用事があるときは、職員室に入れないので、外の壁に取り付けてある教師の符号が記してある表示を見て、ブザーを押すのです。モールス信号みたいなものでした。園内の売店にない品物を教師にお願いするのですが、出入口の所にクレゾール消毒液の入った洗面器が置いてあり、その中にお札を浸して、窓ガラスに張り付け乾かしていました。十五歳の私にはショックでした。

桜の花が満開になり、「青い鳥楽団」の発表が愛生会館でありました。大きな会館でした。一階は入園者の座布団席、二階は職員の長椅子席でした。

カラオケのない時代に、当時流行っていた「有楽町で逢いましょう」「南国土佐を後にして」等々、「青い鳥楽団」の伴奏で、入園者、職員がマイクの前で歌っていました。看護学生の生徒さんたちの合唱、クラシックの演奏もありました。入園者と職員の心と心を結び、会場を明るくしていたのです。
 
東北新生園出身の私には驚きでした。その時初めて近藤宏一さんを見たのです。近藤さん三十五歳の時でした。(私と二十歳違い)

後にこの楽団に出演するようになり、練習のお手伝いもするようになりました。

楽長の近藤さんは、点字を解読するのも、感覚が残っている唇か舌で読んで暗譜し、一人ひとり、パート別に手拍子や大きな声を出して教えていました。その練習は教える方も教わる方も真剣で、ハーモニカに命を賭けていました。熱気が伝わってきました。

愛生園にあった高校に入学ができてよかった。

在学中は近藤さんに会うのが楽しみで、頻繁に部屋に通い、あらゆることを話題にして時間を忘れて話し込んでいたものでした。

奥さんの貴江さんも盲人で、忙しい近藤さんを気遣って休むように声をかけると、「君、うるさいよ」との返事。「近藤は言うことを聞かないんだから・・・」と言って、りんごの皮を口で剥いていました。近藤さんがそれを食べていました。これが夫婦か、と思いました。

その頃に接した詩は、


盲目の譜

人間の

ものを見るという不思議

見えないという不思議

これぞ まこと

神の傑作・・・


高校生だった私はこの詩が好きで常に口ずさんでいました。

私と散歩のときは、両足が不自由なので長靴を履き、私と腕を組み片手に白杖を持ち、お喋りをしながら光ヶ丘方面に行くのです。種々の小鳥のさえずりが聞こえます。「僕にはこのさえずりが、ドレミの音階に聞こえるよ」。近藤さんは一度曲を聴けばハーモニカを吹けるので、「近藤さんの頭の中はどうなっているの?」と聞くと、「黒板と同じだよ。次の曲が入ったら前の曲は消えてしまうんだよ。ウフフフ」。「せりふでアクセントの違いを覚えるのは・・・」と問うと、「ドレミの音階で覚えるんだ。その方が覚えやすいよ」と言って、やってくれました。また、私たち二人は「讃美歌」などを二部合唱しながら散歩していたのです。

卒業の頃、同級生たちが社会復帰していくことが羨ましくて、そのことを近藤さんに話すと、「どこにいても卑屈になるな」と言われた言葉が忘れられません。

亡くなる三ヶ月前のことです。悪性リンパ腫の疑いがあるとのことで、岡山の医療センターに検査入院をすすめましたが、「私はこの部屋を出たくないんだ」「この時を大切にするんだ」「自分を表わすんだ」と言うのです。

長時間かけて説得し、いったん入院したのですが、愛生園の自分の部屋に帰ってきました。愛生園に帰っても、病棟に入ろうとしません。「僕はここで死ぬ。松雄君、僕は弱いよ。これが僕の総てだ」

2009年十月五日、息をひきとりました。死の時まで、自分を表現していました。

十二歳から八十三歳までの生涯の作品を、残していきました。一冊の本に集め、出版できることを嬉しく思います。

2010年9月
佐々木松雄

「闇を光に」の末尾に佐々木松雄さんが書かれていた追悼文です。
 


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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