あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  明石海人さん

(歌日記)

兆しくる熱に堪えつつこれやかの環が声を息つめて聴く


 「環女子来る」の噂が待望となり、待望が愈々現実となって、三浦環女史をこの島、長島愛生園の礼拝堂にお迎えしたのは、一昨年の紀元節の当日であった。この日女史は岡山で講演される忙しい日程の中を、わざわざお訪ね下すったのである。ふだんはソプラノなどには怖気をふるっている老人達までが、続々と礼拝堂へ集って来て、神妙に膝を正していた。

 やがて、導かれて這入って来た女史の面は、さっと沈痛の色が走った。堂に溢れた今日の聴衆の異様な相貌が、女史の鋭敏な神経をかき乱したのであろう。まことにその通りで、一人前の顔形を具へたものは一人も無い。今日まで華やかな聴衆の前でしか歌ったことのない女史には、怪奇にも無残にも映ったのであろう。

 不自由な手を叩き合す寂しい、けれど、ひたむきな拍手の中に幾つかの唄が歌われた。私は環女史の肉声を聴くのは今日が始めてであった。人の世を離れたこの島で、ゆくりなく聴くこの人の声は美しくも悲しかった。殊に、お蝶夫人の最期の唄━━床の上に掌を突き、肘を突き、花模様の裳を惜気もなく曳きながら、短剣を咽喉に擬して歌ったお蝶夫人の最期の唄を、私は何時までも忘れることが出来ない。

 歌が終ってから挨拶をされた言葉のなかで、自分は今迄数多あまたの人々の前で歌って来た。外国の皇帝や、皇后や大統領などの前で歌ったが、今日程心を打たれて歌ったことはなかった。と云われたとき、女史の眼には美しい涙が光っていた。次いで、患者総代が感激におののく声で謝辞を述べた頃には、女史をはじめ一千に近い会衆は、一つに融け合ったよろこびとも悲しみともつかない感激に、或いは落涙し、或いは嗚咽していた。


沈丁のつぼみ久しき島の院にお蝶夫人の唄をかなしむ



明石海人さんの略歴
1901年7月5日、静岡県駿東群(現・沼津市)に生まれる。静岡師範学校を卒業後、尋常高等小学校訓導として勤務。1924年結婚、二女をもうけるが、1926年に発病し退職。1927年、明石楽生病院入院。1932年、同院の閉鎖にともない、長島愛生園に入所。1933年受洗、1936年失明。1938年気管切開。1939年2月に上梓した歌集『白描』(改造社)はベストセラーとなったが、6月9日腸結核のため死去した。『海人遺稿』(1939)、『明石海人全集』(1941 ともに改造社)、『海人全集』(上・下・別巻 1993 晧星社)。





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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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