あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  朴 学信さん

原稿用紙(400字)換算で、約11枚です。


遠い記憶

 私が生れた時、すでに黒い影があった。私の成長と一緒に、その影は大きくなって今日に及んでいる。私の生命がこの地上から消えた時、私を執拗にとり囲んでいた影は消滅するのだろうか。


 祖国の不幸は日本の植民地となってから始まっていましたが、私の不幸は支那事変が勃発した頃から出発しました。その頃から物価は日毎に値上がりし私たち百姓は哀れでした。米がとれる時は米の飯を、麦がとれる時は麦飯を何んとか食べられましたが、それが戦争のため米麦の強制的供出でそれも取りあげられ粟などの雑穀で露命をつないでいました。若者は日本の工場や炭坑の自由応募に応じて村を去りました。生きるためには、だまされると知りながらそうするより仕方がなかったのです。それも戦争がだんだん激しく大きくなりますと、自由募集ではなく強制的に若者を何処かの工場、炭坑、飛行場などに連れて行くようになりました。
 私はその頃、警防団におりました。軍事教練や防空訓練をやらされていました。そのうちに、志願兵になろうと考えまして、警察署へ手続きをとりに行きました。すると、自由な筈の志願兵願書を、巡査の立ち合いで書かすのです。そこで相手の言う事を聞かないと、監獄だと言う話でした。
 そんな事をしているうち、一九四三年十一月十八日、警察署から呼び出しを受けました。びっくりして飛んで行ってみますと、巡査部長が君も徴用に行け、と言いました。そして、もし行かないと言うなら手錠をはめても行かす、とおどかすのです。私は徴用でも仕方がないと思いましたが、一度家へ帰って家族に会って来たいと言いますと、それはならぬ、と許してくれませんでした。私はこのまま二年間、万期になるまで家へ帰る事が出来なくなりました。
 翌十九日、私のような若者が地方から狩り出され釜山に集結していました。そして明くる日の二十日に関釜連絡船に積まれ、その日の夕方六時半に下関桟橋におろされました。水上警察による入国の手続きを終えると駅前に連れ出されました。そこは異国の夜風が冷々と吹いていました。私たちが汽車に積み込まれたのは夜も更けた十一時すぎでした。それから長い汽車の旅が始まりました。夜明けに広島を過ぎ、昼に弁当が配られましたが、それは甘藷だけでした。私たち五十名の者は、何処まで行くのだろうと思い思いしているうちに大阪に着きました。もうその時は日が暮れていました。そこからまた電車で天王寺、さらにその先をまたまた汽車に積み込まれました。もうすっかり精も根も疲れた私たちは、やっと汽車から降ろされました。そこは名出という駅でした。すると、鉱山から出迎えの人が幾人か来ていました。私たちは駅を出ると野原の中を歩きました。紀ノ川大橋を渡り麻生津村を抜けると道は蜜柑畑の中に入りました。その時、月の光りに濡れていた蜜柑の色の美しさを今でも忘れていません。やがて十一時頃でしたでしょうか、私たちは目的地である鉱山に着きました。そこで出迎えてくれた職員に連れられて寮に入りました。しばらくして後、私たちの一行は鉱山の食堂に集められました。そこで労務課長が所長代理として挨拶され、それに続いて寮長が色々な人を紹介してくれました。その中には、後でわかったのですが、私たちを監視する人も幾人かがいました。寮の出入口にはその監視人が何時も坐り切りで、一人一人の挙動を鋭い目付きで監察するのであります
 私たちは旅の疲れをいやす間もなく、中二日して二十四日の日から仕事につかされました。朝、坑口で所長の訓示を受け、また責任者から現場配分と仕事の項目などを教えられました。私は振作夫でした。それは機械で穴を掘り火薬をつめて、ハッパをかける作業でした。それで私は先輩の後について入坑しました。生れてはじめての地下は、頭の方がおしつぶされそうに重苦しいので、上ばかり気を取られていますと足をつまづかせてばかりいました。やっとの思いで着いた現場で無我夢中で初仕事をしました。やがて仕事を終えた私は、仲間たちと出坑し、坑口の事務所で札を受けて寮へ帰りました。それから浴場へ行って汗を流すと、一日が終るわけです。
 三日目でしたか、同居人の二人が時間が過ぎてもなかなか寮へ帰って来ない事が在りました。心配して探しますと、医務室で医者に治療を受けていました。その頭は包帯がぐるぐる巻かれていました。聞いてみますと、寮長にたたかれて頭に穴があいたと言うのです。私たちはそんなむごい事をする寮長を皆んなで辞めさせましたが、そのかわり監視人の目はますます激しく光り出しました。
 そんな事があってからのある晩の事でした。仲間の一人が鉱山から逃亡しました。ところがその翌日、捕えられて戻されて来ました。そして、このまま仕事をさせたら後のためにならぬ、皆のみせしめにする、と言って事務所へ連れて行き、殴る、蹴るの暴行の限りをつくしました。そして仲間は、這うようにして寮へ帰って来ました。それを見た私たちは、暗い気分で心が痛みました。
 どんな事件があっても鉱山は活動していました。私は坑内に慣れるにしたがって仕事を覚えましたが、振作夫が嫌になって来ましたので現場主任に申し出て、火薬とノミを坑内の各現場へ運ぶ仕事に変えてもらいました。この作業は危険ですが、朝十時に入坑して昼の一時半には出坑出来るという時間的にも肉体的にも恵まれたものでした。
 半年が夢のように過ぎて行きました。その日私は、火薬とノミをトロッコに積み込み、押して現場へ行く途中、激しい爆発音と響きを体に受けました。消えたカンテラに明りをつけて、私は不安を憶えました。爆発音のあった現場には親友がいた筈でした。私は自分の仕事を他の坑夫に頼んで、事故現場へ走りました。もうそこは煙が渦巻いていて、何も見えませんでした。うめき声をたよりに這い進み、重症の親友を見付けて背中に負い、やっとの思いで危険から脱出する事が出来ました。しかし背中の親友はもう虫の息で、かすかに何回も私の名を呼び続けていました。早く地上に出なくてはと気は焦りましたが、そのためには混乱した坑内車を幾度も乗りかえなければなりませんでした。一時間もかかって、やっと坑口が闇の中に小さく見える所まで来ました時、親友は私の背中ですでに息絶えておりました。もう体をゆすぶっても名を呼んでも、その汚れた黒い顔は動こうとはしませんでした。その夜、せめて一緒に渡航して来た仲間たちが集まって通夜をし、葬式もしてやりたいと所長へお願いしましたところ、それは聞き入れてくれませんでした。やっと火葬場だけの時間を許してくれました。こうして親友は異国で淋しくその生涯を終わったのです。そんな事件がありましてから、私も何だか鉱山がいやになって来ました。そこで国へ帰りたいと事務所へお願いしますと、一時帰国はとてもじゃないがだめだ、と取り合ってくれませんでした。とうとう私も逃亡するより仕方がない事を知り、その機会をねらっていましたが、あの監視人の鋭い見張りがあっては、なかなか大変な冒険でした。しかし、私は秋のある日遂にあの忌まわしい鉱山から、二本の足をたよって山や谷を幾つも越えて逃亡に成功しました。
 それから私は、枚方の中宮砲兵工廠で働きながら、帰国のための金をつくっていました。やがて空襲がだんだん激しくなって交通がひどく制限されて来ました。私は旅行証明書と帰国証明書を受けるため、憲兵事務所へ幾度もお願いに行きましたが、なかなか作ってくれませんでした。空襲に追われ逃げまわっているうちに、八月十五日が来てしまいました。仕事もなくぶらぶらしているうちに、持っていた金も使い果たしましたので、国へも帰れなくなりました。そんな私は、知人に身を寄せたり、滋賀の皇子山の進駐軍工事に出掛けたりして暮らしていました。
 一九四七年の夏のことでした。浴場で自分の体に赤い円いアザがあるのを見付けました。それが日が経つにしたがって、その周囲が痛くなく汗も出なくなりました。おかしいので町医者に診てもらいましたが、そこでもアザだと言うことで注射をしたり薬を呑んだりしましたが、仕事もなくなりますと金も絶えましたので、治療は続きませんでした。それから半年もした頃でしょうか、顔に何かぶつぶつが吹き出して来ました。ある日、年寄りの一人が私の顔を見て、あんたはライ病だ(ハンセン氏病)と言われました。私はその時、まさか自分がそんな病気になろうとは、あまりの事に死のうかとも思いました程でした。そんな思案に暮れていた時、福井に地震がありました。私はそこへ出掛けて働きましたが、もう体が言う事をきいてくれませんでした。ある晩、禁酒をおかして友達と呑みましたところ、体はだるく、顔はますます赤くはれ上がり、鏡を見るのも恐ろしいほどになりました。そうしているうちに病気は体中に広がり、道を歩くことも人目につくので出来なくなりました。春のある日、鯖江保健所員が来て、私にあまり動かないようにと注意して行きました。私の病気が伝染病ですからなのです。
 三ヶ月後に県庁の衛生課員が見えました。そして、療養所がありますから行きますか、とたずねますので私は素直に、行きます、と答えました。それから、私の面倒は隣りの人がよくしてくれました。県庁の人がよく頼んでくれたからだそうです。
 六月二日の午後、山中村役場の民生係の人が見えて、明日岡山の療養所へ行きますから、朝の六時には役場に来て下さい、と言いました。こうして私は翌日、鯖江を午前八時半に汽車で出発しました。駅々の停車は、私に随分辛い思いをさせましたが、とうとう岡山の療養所「光明園」に参りました。その日は一九四九年六月三日でした。


2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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