あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  具 南順さん


原稿用紙(400字)換算で約13枚です。


一人の女

 この三月で、私は八回目の結婚記念日を迎えました。光陰矢の如しとか言いますが、ほんとうに月日の経つのは早いもので、ついこの間の事と思っていたのに、もう八年も経ったのかと今更のように驚いています。
 私たちは子供を生む事を許されていませんので、八年経ったいまでも、結婚当時とそれ程の違いはありません。何かの変化をしいて求めるのでしたら、その年のわりにえらく落着いて、この島の療養所に根を生やしてしまった事くらいです。午前中の作業と治療の時間、午後は洗濯物やつくろいをして、夜になれば知りあいの誰れ彼が訪ねて来て、その人たちと火鉢を囲んで雑談をかわす毎日が続いています。その間に夫は時たま山の畠へ行くか、そうでなければ日向に出て本を読んだりスポーツを楽しんだりして、よほどの事のないかぎりこの日課は変る事はありません。それでもハンセン氏病療養所は、結核の療養所等とは違って、夫婦寮があって、三度の食事にしても一日に一度大体夕方が多いのですが、現品で副食が支給されます。約千人近い入所者が一つの炊事場から炊き出されたものを同じ量で、ニューム製の飯器で受けるのですが、女である私にとっては現品支給は一つの大きな楽しみです。一寮八室、一室四畳半の夫婦寮は壁一つをへだてているだけで、みんな同じような生活をしているのです。小さな前庭にはそれぞれに花壇が作られていますし、食膳に乗せられているものも殆ど同じものです。それが現品支給の夕方の食膳はそれぞれに創意と工夫をこらして、勿論同じ材料で大した変化はないと言えばそれまでですが、ともかく二人の食膳ですからいろいろと型を変えて並べる事が、女の一つの楽しみです。それに私たち韓国人は調味料の使い方が全く異なるのですから、その夕食はほんとうに美味しくいただけるので、私は他人見にはコッケイな位大いに張切っています。

 私は十九歳の春に光明園へ入園いたしましたが、それは太平洋戦争が終わって、ようやく世の中が落着きをみせはじめていた頃でしたが、この島の療養所ではまだ戦争の余震が残っていて、何もかもが不足していました。大風子油がたった一つの治療薬でしたが、それも一グラムか二グラムが隔日に受けられるだけで、長い列をつくって皆んな必死でした。食べ物は真っ黒な麦飯で、調味料も不足していて、いまから考えますと全く隔世の感がいたします。私は年老いた父母に伴われて入園して来たのですが、一時自殺を思いつめて、母の留守中に塩酸を吞んで多量の血を吐き、それが充分に治りきっていなかったのでほとんど入園後の一週間位は御飯を食べる事が出来ませんでした。胃が焼けただれて何にも受付けなかったのです。それで、私は直ぐに入室したのですが、私の入った部屋<女子独身寮>の人たちは、そう長くはないだろう、葬式をもらったようなものだと噂していたという事を、ずっと後になって聞かされました。
 私もそう望んでいましたし、それに部屋の人たちもあきらめていたのに、入室後一ヶ月ばかりすると私の身体は人々がびっくりするほどの早さで回復して、私は五十日あまりで退室しました。身体が回復するに従って、私の気持ちも落着いてきたのでしょう。あれ程望んでいた死の影は消えて、今度はそれに数倍する激しさで、私は必死に生きる事を願っていました。私はあちこちと尋ね歩いて、大風子油を分けて頂くために、それこそ本当に馳けずり歩きました。医局から隔日に受ける注射だけでは不安で、じっとして居られなかったのです。その頃はみんながそうでした。それは此れ以上の病状の進行を喰い止める、それだけの願いだったのです。自分の周囲の人たちが一夜のうちに全く変貌してしまう姿を目のあたりにして、その生地獄から逃れるために、あらゆる努力を重ねたのです。大風子油を多く注射する事によって、それがその儘治癒につながるとは決して思ってはいませんでしたが、しかし、じっと狂い死にを待っている事は出来ませんでした。私は母に無理を言って送金して貰って、それで闇の大風子油を買い求め、二、三人して共同で注射を打ち合いました。熱湯で消毒して太モモへ注射するのですが、その頃のそれもヤミで入って来る大風子油は粗悪品が多く、よく化膿して高熱のため一週間、二週間と床に臥す事はめずらしい事ではありませんでした。医局に隠れて自分たちが勝手に治療するのですから、大風子油で化膿しても手術を受けに行く事が出来ませんでしたので、自分で切って切口へ消毒ガーゼをつめ込んで一週間でも二週間でも寝てなおすのです。いまから考えると、ほんとに無茶な事をしたものだと冷汗をかきますが、その当時はとにかく必死でした。そんな必死の療法の甲斐があってか、私の病状は固定いたしました。大風子油の手足は火傷のあとのように傷あとだらけですが、それからしばらくしてスルフォン剤プロミンが出来た事を併せて、入園当時と較べてそれほど悪化はしていません。大風子油ではどうにもならなかった人たちも、プロミン剤によってライは奇蹟的に、それは嘘のように外傷や結節が人々の手足や顔からひいて行きました。このプロミン剤は最初は非常に量が少なく、プロミン剤の予算獲得のために、一時全国の療養所は異常な興奮に湧き立ちました。
 プロミン剤の出現と昭和二十八年のらい予防法改正闘争はライ収容所を、ハンセン氏病療養所へと大きく変革させました。最近は早期に発見された人たちは、四、五年間の治療によって、又、元の職場へ帰って行く事がそれほど困難の事ではないようになりました。
 
 私は塩酸を呑んでいためた胃腸が回復して、女子独身寮へ帰ったのですが、ようやく落着いてみますと、私の周囲には多くの韓国人患者が見受けられました。そしてその事が私を一番驚かせました。私はこの療養所に百人近い韓国人患者が居るなどとは夢にも思っていませんでしたし、何か力強いものを感じますと共に、異郷の地で大きな病を養っている人の姿に、自分の事を忘れて涙が流れて来ました。私たちはお互いの不幸を慰め合うために、いきおい同胞たちが集い合うようになりました。私の入っている部屋は五人定員でしたが、日本人僚友が四人と私の五人でしたので、新しい患者である私を慰めるために同胞の誰れかが何時も来てくれましたが、言葉とか風俗や習慣の違いから、あまりしげしげと同じ部屋へ集まる事は苦情が出るという事を聞かされました。そう言われてみると、うなづける幾つかの問題がありました。私たちの韓国人は総体に声も大きいのと、その育って来た環境や性格から、非常な誤解を招くことがあり勝ちですし、此の療養所の制度では不自由になって不自由寮へ移るか、又は結婚して夫婦寮へ下るか、一時帰省をして籍でも切らないかぎり一生をその部屋で暮らさなければならないのですから、あまりの我儘は許されませんし、それぞれがひかえ目な生活をしています。
 女子独身寮は男の部屋と違って、口論やケンカのような事はありませんが、子供寮を上がったばかりの人から、四十歳、五十歳の人まで雑居生活ですから、みんなの気持ちが一つにまとまる事は不可能なのはあたり前の事ですし、最近とは違ってその頃は此の病気が完全に治るとは考えられませんでしたから、女同志の冷たいいがみ合いなどもあります。表面上はしっくりととけ合っているのですが、病状に対する苛だちと焦りが、つい角を出すのです。それに男女の比は独身者では五対一位の割合で、夜になれば男の人が遊びに来ますが、一生をこの島で送るより仕方がないと皆んなが諦めているのですから、男女関係についても神経質になっています。一方で男の人としゃべっているかと思えば、片隅では残して来た子供や夫の事を、ぐちをこぼしていますし、その両方に神経を使わなければなりません。この島の噂は無責任で、毎日噂に神経をすりへらさなければならない事より、一緒になって笑いころげている方が生きて行くのに好都合なのです。
 この島の男女の交際ほど、およそロマンチックらしからぬものはないでしょう。殆どの人たちは見合いと言うよりも、それぞれの親しい人からの推めで結ばれています。子どもを育てるとか、将来の設計を考えなければならないという事はなかったのですから、それほど真剣に考えなくても良かったのでしょう。私も夫との結婚は見合いもせずに式を挙げました。別に見合いをしなくても、歩いて十五分か二十分足らずの療養所では、みんなが顔見知りで、その性格も人の噂等でおよそは解っています。女の部屋では雨が降って誰も遊びに来ない時などは、誰かの口切りで、男の人の品定めが行われる事は決してめずらしい事はありません。
 私が夫の事について最初に知ったのは、私の親しく出入りしている人の部屋で、丁度来合わせた彼に紹介されたのですが、その時彼は入園後二十日も経つのに未だ部屋が決まらなくて、収容所にいるとの事でした。私がその当時の事を後々まで憶えていたのは、私の知人が彼を指さしてこの島の療養所の韓国人について語った事が記憶に重たく残っていたからです。と言いますのは普通日本人僚友は収容されると一週間でそれぞれの寮へ入るのですが、私たち韓国人の場合は中々受取って貰えないのでついつい日延べになって、彼の場合は二十五日目にやっと部屋が決まりました。新しい入園者があると患者自治会の人事係が各寮へ入居の交渉をするのですが、一旦入ったら特別の事のないかぎり、そこで一生共同生活をしなければなりませんので、その部屋の人たちは出来るだけ良い人をと希望するのです。
 私の知人の言葉を彼はじっと聞いていましたが、それに軽くうなずいただけで、それ以上何んにも口を開きませんでした。かえってかすかに微笑をためていました。私の結婚について知人から推められた時、その相手が彼である事を思い出したのですが、一週間ばかり考えたあげく、私は彼と結ばれました。その頃の夫は病状も比較的軽症でしたし、私は人並の生活は出来るだろうという考えでした。
 一旦ライと宣告されてたら、プロミン剤の出現はありましたが、私のように後遺症の残っている者は退園する事はできません。よほど早期に発見された人たちだけが社会へ帰れるのですが、その人たちに対しても世間の人たちはライに患ると忌み、嫌う事は少しも以前と変わりありませんので、ハンセン氏病と訣別する事は今日の社会情勢ではまだまだ無理な実状です。一日も早く大手を振って社会へ帰れる日が来る事をみんな望んでいます。
 私は病状が固定して来たのと、それから世間で言う適齢期を迎えていたので、どちらかに決めなければなりませんでした。一つは社会へ帰る道ですが、これは先に書きましたようにほんの一部の人に限られていますし、又中々きびしい道です。が、私のように一応病状は固定したとは言うものの大きな後遺症の残っている者はもう一つの生き方、この島を永住の地と決めて結婚生活に入る事しか残されていません。私が発病したために母はすぐ下の弟を連れて私と三人で父や家族と別居しました。それは夜逃げ同様にして、誰も知らない土地へ移ったのですが、そこで私は塩酸を呑んで自殺を計ったものの死に切れずに、この島の療養所へ渡って来たのですから、若しかりに全快治癒しても一般社会へは帰る決心がつかなかったかも知れません。
 私は毎日夫婦寮の人たちの生活を、、見聞きしていましたから、結婚についての大きな期待は持っていませんでした。一寮八室の夫婦寮は左を向いても右を向いても、何んの変化もありません。一つの規格の中に二人の別々の人間が、その不幸な魂を寄せ合ってひっそりと暮らしているのです。来る日も来る日も何んの変化もない時間が連続して流れる、そんな単調な生活を続けながら、何時とはなしに人生を終るのです。しかし、それでも殺風景で、ギラギラした独身寮の生活よりは、うるおいがありますし、愛する自信があったらわずらわしい独身寮よりは、少しは人間らしい生活が夫婦寮では出来るのではないかと考えたのです。
 此の三月で、私は八回目の結婚記念日を迎えましたが、毎年その日はささやかな食膳を飾って、私たちはお互いの生命をたしかめ合っています。



2030年 農業の旅→ranking


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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