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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  中山秋夫さん


中山秋夫さんは10月17日に紹介させて頂きましたが、続きを紹介いたします。





介助風呂恥部をなくするまでに病む




これまでを狂わず生きている狂い




空っぽの一升瓶のように居る




癒えてなお許してくれぬ予防法




長い夜断種へ想いさかのぼる




生きているしるし尿器へ朝の音




哀しみを捨てに来たかと海笑う




しぐれ雲しばし山頭火とあゆむ




ようやくに痛み無くした荼毘の煙





中山秋夫さんの略歴
静岡県西郷村の農家に生れる。父は旅回りの石工。秋夫5歳の時、父親がハンセン病を発症。6歳の時父は草津の患者部落に。家族は離散、秋夫は名古屋の今池小学校、さらに叔父を頼って釧路へ転校。小学校を出て4、5年目で身体の一部に知覚がないのを知る。昭和10年大阪大学病院でハンセン病患者であることが判明。同年父宇平が楽泉園で死亡。その後病気を隠しながら溶接工として働くが昭和14年19歳で邑久光明園に入所。20年秋、結婚。翌年断種手術を受けるが、同年、急性肺炎で妻が逝去。25年再婚。38年完全失明したため自己表現の道を詩から川柳へ。53年1月妻他界。その後の10年間の作品を集成し個人句集『親子独楽』(平成元年)。他に句集『一代樹の四季』(平成10年)。


第一句集『親子独楽』のあきらめにも似た境地から第二句集『一代樹の四季』は理不尽への怒りに転じているのがわかる。『一代樹の四季』冒頭の自序には題名の由来について次の記述がある。
 「一代樹。これは私たちがこの療養所で、自分一代限りで終っていく、との意である。
 長い療養生活の中で入所者同士の結婚もあった。だが療養者が子を産むことは許されなかった。結婚の条件として、否応なく優生手術がなされ、子供を産めなくされた夫婦。らい予防法は患者を保護するものではなかった。一貫して行われたのは患者を施設に入れることによる隔離撲滅。国民からの排除。一代樹とは、そうしたものの代名詞として使ったのである。90年という長い歴史の中で、その一代樹が入れ代わり、死に絶え、そして今、残された一握りの高齢者の群れとなった」

 中山秋夫は岡山原告団長として2001年(平成13年)5月の熊本地裁判決の勝利から和解、補償法成立に至る経緯を見とどけ、2007年(平成19年)12月、この世を去った。
(ハンセン病文学全集9 俳句・川柳)から抜粋。


2030年 農業の旅→ranking





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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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