昼寝をして目が覚めたら、田んぼまで散歩をしてきたという家人が、銀ちゃんは警戒して逃げるのに、ラムちゃんが全然動かないと言う。
夏に病気になってからメスヤギに元気がない。農作業の合い間に見ても、横たわって寝ていることが多い。首もいつも少し傾けている。それでも食欲はあるので大丈夫だろう。
ただ最近は頭突きを見なくなった。元気だったら頭突きをして遊ぶことが多いのに。
エサは草と木の葉だけ。米ぬかも4ヶ月ほど与えていないし、与えた方がいいらしい「塩」も月に1~2回、申し訳程度に与えるだけ。水だけは小屋に常時置いているが、ほとんど飲まない(草で水分補給が十分できているのだと思う)。
今回、白黒のニワトリに変更したのは、今までの茶色のニワトリに飽きたから。18年、茶色のニワトリを飼ってきたので、違った色のニワトリを飼ってみたかった。
11月12日で半年が来るので、卵を産み始めてもおかしくないが、まだその気配は全くない。茶色のニワトリは、
(1)初産、交尾
(2)オンドリどうしの闘鶏
(3)オンドリの初鳴き
の3つがほとんど同時期にあったので、今回もそうだと思うが、まだオスとメスの区別も定かでないから、初産はまだ1ヶ月ほど先になると思う。前回導入したニワトリも初産は7ヶ月が過ぎた頃だった。
ニワトリは1坪(2畳)に8~10羽までと言われるが、高さの空間が大事だと思う。ニワトリは食べる時以外は止まり木にいることも多いので、止まり木が天井近くの高い所や、地べたから1メートルほどの所など高低にたくさんあれば、4坪半しかない地べたでも、空間を有効利用して2倍の9坪の広さに使える。
今回の「岡崎おうはん」という品種は通常のニワトリの1.2倍ほどの大きさになる卵肉兼用種であり、おまけが4羽も入っていたので36羽いるが、空間を有効利用できれば4坪半でも飼えると思う。
家人は散歩でたまに田んぼに来るが、農作業を手伝ってもらったことは一度もない。農業がひらめいた時も「一人でする農業」だった。二人でする農業など想像もしなかった。夫婦でしている人は主となる方の能力が高い。
田んぼが一箇所にまとまってあり、収穫時も農作業時も「移動」しなくていいのは、ずいぶん楽である。
防御力
20年前、現在のようにイノシシやシカが出ていたら、農業に二の足を踏んだと思う。
現在の農業者はイノシシやシカからの「防御力」という能力も要求される。電柵等を購入する経済力と、それらを設置する設備造作の能力の2つが防御力である。
動物による被害は台風による被害より数段大きい。
今後は害獣によって「農業からの撤退」を迫られる現実が多くなるだろう。
井戸がなくても作れた理由
田んぼに井戸を掘ったのは農業を始めて9年目の夏だった。農業を始める前、野菜に水が必要とは知らなかった。雨水だけでできるものと思っていた。
それでも8年間は井戸なしでできたのは、
(1)秋冬作の種蒔きや定植時期の9月12日~9月20日頃には、秋雨前線が雨をもたらしてくれた。→最近はこの時期に雨がほとんど降らないことが多く、9月、10月の少雨が目立つ。
(2)6月15日~9月15日頃の3ヶ月間は池の水を引かせてもらっていた。しかし、梅雨の少雨が原因で池の渇水が目立つようになり、池の水を引かせてもらうのが難しくなった。不本意ながら口論になってしまい、それが「井戸をつくらなければ」という引き金になった。業者に「探り堀り」をしてもらったが1箇所だけ水が出た。それが現在の井戸であり27万円かかった。直径1メートル深さ3メートルほどであるが、雨が長く降らなくても、毎日60~90分はエンジンポンプが使える。逆に言えば、90分で賄える水の量しか夏野菜は作れない。
(3)メタン菌液肥の導入は井戸ができてから後のことである。液肥だから水がないとできない。
(4)4月の育苗時に水がたくさん必要になりだしたのは、スイートバジルの育苗を始めた9年目からであり、それまでは4月、5月にさほど水を必要としなかった。
ニワトリ小屋(4坪半)と物置(6坪)は、就農して1年後に大工さんに建ててもらった(合計41万円)。中島正著「自然卵養鶏」に出てくる鶏舎と同じように建ててもらった。ニワトリ小屋ができる2ヶ月前にヒヨコを姫路まで買いに行き、家の軒下で飼い始めた。
就農したその年に必要になったのは軽四と管理機(ミニ耕運機)の2つだけだった。乗用トラクターはすでにあった。
できた野菜を軽四に積み、7月には近くの団地を引き売りしながら「野菜会員」の募集をした。野菜会員(1パック1500円×月2回配達)はすぐに20軒ほどでき、最も多い時は地元だけで30軒を越えていたが、なかなか「継続して」もらえなかった。地元の会員が続かず、県外の宅配を考え始めたのは3年目の秋からであり、友人や知人や親戚に依頼をした。
8年間は地元と県外の個人の顧客だけであり、ハーブの電話営業を始めた9年目以降からイタリア料理店の宅配も始まった。
あめんぼ通信の小冊子を作り始めた13年目の末から、そっちに力点が移り、個人や業務用の営業活動を全くしなくなり、それが顧客の「ジリ貧」につながり現在に至る。今また「稼ぐ」ことに必死になり始めた。