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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

光田健輔園長が初診察で「宇佐美、出て行け!」


だってね、ここ(長島愛生園)へ入れば、すぐに、プロミンを注射してもらえると思っていたんですよ。23才だったね、愛生園に来たのは。昭和24年の4月27日でした。それから13日後にね、光田健輔園長がはじめて診察してくれたんですよ。待ち遠しかったですねえ。一日千秋の思いでしたね。嬉しかったですよ。これで、俺のハンセン病は治るんだあ、と小走りで医局へ向かいましたねえ。私はプロミンの注射を期待してね、光田先生の前に立ったんですよ。ところが、
「お前、何でもっと早くこなかったんだ、ここで気に入らないことは何だ」
と聞かれたので、私は、
「国立療養所というのに、衣食住も衛生状態も悪いですよ。夫婦が4組、12畳半に8人がカーテン無しで寝かされている。非人間的な取扱いじゃないですか。これじゃあ、豚でもケンカしますよ」
と言ったんですよ。そうしたら光田園長は、
「文句があるなら、すぐ出て行け!」
とものすごい大声で、怒鳴ってねえ。退去命令を出すんですよ。強制収容しておきながら、ですよ。
家には帰れないし、行くあてはないし、困りながら、まー、出ていかにゃーしょうがないのかなーと思いながらとぼとぼと歩いていると、うしろから追いかけてきた看護師さんが、
「ちょっとー、宇佐美さーん、戻りなさい」
と袖を引っ張って、私を医局へ連れ戻したんです。医局には別の先生がいてね、私に、
「キサマー、コミュニストかー」と怒鳴るんですよ。
「ニヒリストやー」
と言い返してやったんですよ。そしたら先生は、
「キサマ、うまいこと言うじゃないか」
という話し合いになって、
「行くところはないだろう、園長には私がよく言っとくから、宇佐美、ここにおりなさい」
と言ってくれたのです。
私は、ほっとしましたよ。後から知ったんですが、その先生は、難波政士といって岡山大学出身の人でした。
この一件は私にとって、衝撃でしたねえ。


「救癩の父」と言われる光田園長の実相は

光田健輔医師は、「救癩の父」とか「日本のシュバイツアー」と呼ばれるほどに、神様的な存在でした。ところが私に対する態度でわかるように、ハンセン病患者を救う医学者ではなかったんですよ、彼は・・・。患者の人権をないがしろにして、終生隔離政策でハンセン病を根絶やしにしようと、医学界・国民を欺いた犯罪者と言ってもいいくらいなんですよ。私に言わせればね。
光田医師は全生病院の院長のときに、「断種(精管の一部を切除したり、結びつけたりして、生殖能力を失わせること)」を考案しているんですよ。大正5年のことです。
「癩病は、遺伝する、強烈な伝染病だから、患者を一般社会から強制隔離して、根絶やしにする。子孫をつくっちゃならない。そういう法律をつくりなさい。手錠をかけて強制隔離をしなさい」
と言った張本人なんですよ。国会でね、そう証言(昭和26年11月8日、参議院厚生委員会)してるんですよ。それで、離れ小島や僻地に「癩病国立療養所」という名前の収容所を国につくらせて、ハンセン病患者の強制収容をはじめたんですよ。患者たちは、てっきり、国立の療養所へ行けば、病気を治してもらえると思うじゃないですか。療養所と聞けば、病院、と連想しますよねえ、だれだって。
ところが、療養所へ到着してみたら、クレゾールの消毒風呂へ入れられるは、狭い部屋に押し込まれての雑魚寝ですよ。症状が重い人も放ったらかしで死を待つばかり、病気になっても治療もろくにしてくれない、軽度な患者には、土方作業やら、重度な患者の身辺の世話係をやらせるんですよ。
重労働や栄養不足で後遺症がひどくなってね、死んでいったんですよ、入園者の先輩たちが・・・。残酷だったねえ、あのころは。人間扱いされてなかったんですよ。
長島愛生園の初代園長になった光田医師は、
「ここはお前たちの楽園になるんだから、自らの力で、山を削れ、道を作れ、家を建てろ、相互扶助だ、報恩作業をしろ」
と患者に重労働を命令したんですよ。
あまりのひどさに耐えかねて、療養所から逃げ出し、海を泳ぎ切れずに溺れ死んだ人もいるんですよ。脱出に失敗して捕まえられた人は、監房に閉じこめられたんですよ。

日本癩学会のなかで、愛知県海部郡甚目寺町出身で京都帝国大学医科大学の小笠原登医師は、「癩病は治る病気であり、伝染力は強くない。強制隔離の必要はない」と、自分の学問的見解を貫いたんですよ。長いものにまかれないでね。私は小笠原医師を尊敬しているんですよ。
小笠原医師は、昭和9年に、「癩の極悪性の本質について」を発表して、「感染力の微弱性」を主張しているんです。ところが、光田医師たち多数派は、小笠原医師の主張を検証もしない、世界の医学の進歩に目を背けたまま、「癩病は恐ろしい伝染病説、遺伝病説」を唱えていたんですよ。
昭和9年の42年も前の明治6年には、ノルウェーの細菌学者アルマウェル・ハンセンが、「らい菌」を発見しているのにですよ。そして、昭和18年には、アメリカで、「プロミン」という薬が、ハンセン病治療に有効であることがわかったのです。
ところが、こともあろうに、光田医師たち多数派は、昭和16年の第15回日本癩学会で「国民を惑わす小笠原登医師を京大から追放しろ」という決議文を採択して、京大総長に届けているんですよ。しかし、京大は、小笠原登医師を定年まで京大の特別皮膚科で、ハンセン病の治療と研究にあたらせたのです。
ひどいですねえ、て・・・。想像を絶するひどさですよ。
小笠原医師の学説を弾圧して、日本の医学のあり方を誤らせ、権力者と一体となって、国民に偏見、差別という間違った考えを植えつけたんですよ。患者と家族の運命を、人生をね、むちゃくちゃに壊した張本人なんですよ。光田医師たちは。
昭和26年に「癩予防法」改正問題が国会で議論されたときにはね、国会で、「手錠をつけてでも、根こそぎ、癩患者を強制隔離すべき」、「逃走罪を法制化して刑務所に入れよ」と、証言しているんですよ、光田医師は。
こういう光田医師の実相を知らない若い医師が、光田医師を慕ってねえ、結果として、強制隔離政策を遂行したんですよ。映画にもなった小川正子著の「小島の春」を読むとわかりますね、このことが。
私たちはね、人権無視の法律をただし、国のやり方や、光田園長のやり方をあらためてもらって、人間らしく生きたいと思って運動してきたんですよ。
ところが、同じ僚友仲間でも、
「光田園長が気にくわないなら、出て行けばいいじゃないか。国にたてついたら予算を削られるだろうし、追い出されたら行く所がない。野垂れ死によりましじゃないか」という考え方になってしまうんですねえ。残念なことに・・・。


「野道の草」 著作 宇佐美治さん
P12~P17を抜粋させて頂きました。
宇佐美さんは昨日の金泰九さんの「わが八十歳に乾杯」にも出てきた長島原告団の代表です。 

この最後の3行の問題は、長い間、入所者を真っ二つに分断してきたようだ。つまり「園長派」と「反園長派」の対立である。

このことは「いつの日にか帰らん」にも、昭和26年の参議院厚生委員会の光田発言に関して「この頃には園長辞職要求の強硬派と園長に心酔する穏健派の対立は目立って来ていました。そのため自治会会長選挙は紛糾、3ヶ月を要して1票差で穏健派が当選しました。したがって内部では執行部を含め両派がしのぎを削りながら予防法反対運動を進めていました。」と書いてある。 

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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