


7月26日朝日新聞19面 一部抜粋
複雑な出自を抱えていた。政治家で養豚業を営んでいた父と母の間ではなく、京都にいた女性との間に生まれ、出生後は家を転々とした。
不登校や家出、大学生のときには北海道に長期間「失踪」もした。お供だったのが詩集。中原中也やランボーらの詩を読んでいると、自分の中のわだかまりがやわらぐ気がした。
大学卒業後も定職に就かず、東京で現実逃避の日々を送っていた西谷さんを変えたのが、29歳の時の親友の死。西谷さんは詩人、親友はギタリストをめざすとよく語り合った。そんな相手との突然の別れで、西谷さんは現実に引き戻された。
生計を立てるための唯一の武器となったのが英語だった。詩や雑誌を原文で読むことに始まり、語学学校で勉強を続けていた。東京の別の塾での評判がきっかけで、代ゼミから声がかかった。
1980年代はカリスマ講師がしのぎを削った時代。教える技術が高いのは当然で、生き残るには頭一つ抜ける「何か」が必要だった。
たどりついたのが「素の自分を出す」こと。逃げてきた自分の人生と向き合い、自身が抱える不安定さや挫折、後悔を包み隠さず自分の言葉で話し、渾身のエールを送った。志望校に通しさえすれば評価される予備校講師の中で稀有な存在だった。
「生徒は電流で、自分は『有機交流電燈』」だと西谷さん。宮沢賢治の詩集「春と修羅」の「序」に出てくる一節だ。「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」。
「自分が自分であるために媒体が必要で、それが生徒だった。自分を光らせてくれた」。この仕事が天職だと思うようになった。
以前、雑誌の企画で対談したミュージシャンの忌野清志郎さんの言葉を思い出す。「好きを大切に」。今日も生徒と向き合う。
西谷昇二さん(64)
1956年生まれ、高知県出身。国際基督教大学(ICU)卒業。88年から代々木ゼミナールの英語講師に。本部校(東京)で行われる授業は全国の校舎や提携塾などに配信されているほか、札幌や新潟でも授業を行う。自身の過去や生徒らへの言葉をつづった「dreamtime 負けたら終わりじゃない、やめたら終わりだ」(PHP研究所)など著書も多数。
何か一つでも「得意」があったらいいが、何もなかったのでぼくは農業者になった。子供の頃、親が農業をしていたので、農業がどんなものかは想像できた。
家も田んぼも農具も父も健在だったので、本当に恵まれていた。だから他所から来て、見知らぬ土地で農業を始める若い人には頭が下がる。
自分の場合は他に選択肢がなく追い詰められた状態で農業がひらめいた。
農業は自分に合うと思ったが、能力が伴わないことも直感としてわかった。
農業の能力にかなり欠けると、スタートする前から認識できたのは、農家育ちだからである。例えば簡単な大工仕事だったり、道具(機械)を使う能力だったり。
その後30年、真似ようと思っても他の農業者の真似ができなかった。
だから自分にできる方法で、違うやり方(例えば支柱作物にせず地ばい作りにする)で作ったり、小規模に抑えたり、出荷方法で活路を見出すしかなく、もう後がなかったので、がむしゃらだった。
この経験から、「好きなこと、得意だと思えること」と「能力」は異なると思う。
「好きこそ物の上手なり」とはならない。
しかし、嫌いなことや得意と思えないことは、なおさらできないので、能力がないことが直感としてわかっても、自分に向いていると思えることを職業に選ぶだろう。
例えば医者でも、とても不器用な人はいると思う。そういう人は医者に向いていないかというと、そうでもなくて、「精神科医」などは理工系の能力より文系の能力が高い人が必要とされるのではないか。
還暦を過ぎてから年に1度の大阪彷徨を始めたが、この時、日本橋の地下鉄の改札口や、宿泊するホテルの職員が、自分にはわからない「韓国語」や「中国語」で説明している光景に出くわす。
こんな時、語学が一つでもできれば、それを活用したいろんな仕事に就けるということに今さらながら気づいた。
カリスマ講師の西谷さんも「英語で人生を切り開いた」一人なのだろう。