(ここで、藤本松夫さんの略歴を紹介しておきます)
藤本松夫さんの略歴
1922年7月18日、熊本県菊池郡水源村生まれ。1950年自覚症状のないまま、ハンセン病の宣告を受ける。1951年同村F宅にダイナマイトが投げ込まれ、Fが熊本県衛生課のハンセン病調査に際し藤本を患者として報告したことを逆恨みしての犯行として逮捕された。懲役10年の判決を受け菊池恵楓園内の拘置所に収容されたが脱走。脱走中にFの刺殺体が発見され53年死刑判決。57年8月最高裁で死刑確定。この事件は、裁判官は調書や証拠を扱うのにゴム手袋に長い箸を使うなど偏見と、はじめから藤本を犯人とする警察・マスコミなどの予断に満ちたものであった。58年「藤本松夫を救う会」(会長 中野菊夫)が発足し、全患協とともに松夫の救援を行う。62年には「救う会」による現地調査が始まり、運動が次第に盛り上がり再審が請求されたが、1962年9月14日福岡刑務所で処刑。藤本は、はじめ文字も読めなかったといわれるが獄中で文字を学び、短歌や詩を作り全国の支援者に書簡を送り無実を訴え続けた。
護送車の窓にすがりつくごとくして叫びし母の声を忘れず
出獄の背広に替えて別れ言う囚友の笑顔は日本一なり
扉開くれば背むきし吾に会釈する母夏やせて先ず泣きにけり
闇を貫く群蛙の声哀し母と暮らせし日と異ならず
死刑なるが故の孤独かまなぶたの焼け付くまで本を熟読す
夜勤終えてかえる看守に羨望を感じていたり獄の休日
主の平安汝にあれと祈る母の手紙束になりて幾度か読む
さようならと立てばおろおろ面会の母は寂しき瞳し給う
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