2020年 8月13日の記事の再掲です。
毎日新聞 8月13日 11面

日本のポツダム宣言受諾は、米国の原爆投下とソ連の対日参戦のどちらが”決定打”だったのかという議論については「単純に比較できないが、中立条約があり仲介を頼んだソ連に裏切られたという心理的な打撃の方が大きかったのではないか」とみる。
ソ連にも敗れた日本
戦後75年 表現者たちの夏
日露戦争と異なり、太平洋戦争末期の1945年8月9日に日本の関東軍とソ連軍の間で始まった戦闘は「日ソ戦争」と呼ばれることがない。
「それは日本が先の大戦は米国に負けたのであり、ソ連に敗れたと認めたくないから。
多くの犠牲者と捕虜を出し、短期間であれ明らかな戦争だった。
日本は中立条約を破って参戦したソ連を非難するが、真珠湾を奇襲しておきながら偉そうなことを言う資格はない」。
「触れたくない」敗戦ゆえに分析が立ちおくれていた日ソ戦争の全体像に迫る『日ソ戦争1945年8月 棄てられた兵士と居留民』(みすず書房)を先月中旬に出版した富田武・成蹊大学名誉教授(74)はこう語る。
開戦75年に間に合わせようと、構想からわずか半年で原稿を書き上げた。
シベリア抑留研究の第一人者である富田さんにとって、抑留の原因となった日ソ戦争を書くことは「長年の宿題だった」。
10年前に戦間期(17~37年)の日ソ関係に関する本を出し、次は本丸の日ソ戦争に踏み込もうとしたが、当時はロシア側の関連文書が公開されておらず断念した。
状況が変わったのは昨年6月だった。ロシア国防省が独ソ・日ソ戦争の作戦文書を機密解除すると発表。同9月にモスクワに飛んで調査を開始し、「これでようやく日ソ戦争を正面から書けると確信した」。
追加調査で今年3月に予定していたモスクワ行きはコロナ禍で取りやめたが、5月にロシア外務省の公文書館からウェブサイトで文書が閲覧できると連絡があり、原稿を補強できた。
「戦後75年でロシアも戦争関連の文書を公開するようになり、いいタイミングだった」と振り返る。
ソ連崩壊で抑留関連を含む公文書が原則公開された92年から数十回ロシアを訪れていた実績もプラスに働いたという。
新著は、日ソ双方の公文書と兵士の回想録を駆使するマルチアーカイバル手法で戦争の詳細を描き出した。
「お互い都合の悪いことは文書に残さないので、両方を照らし合わせる必要がある。
また参謀の視点からでは味気ない戦闘記録になる。実際に戦う兵士が出てこないと血の通った戦史にならない」という。
このほか、米国がソ連軍の南樺太や千島の上陸作戦に必要な兵士の訓練と艦艇の提供を行ったことや、満州(現中国東北部)で洪水に阻まれたソ連軍戦車が盛り土した鉄道道床の上を走行したことなど、初めて明らかになるエピソードが盛り込まれている。
開戦前の日本について富田さんは「ソ連が45年4月5日に中立条約の不延長を通告した時、ソ連の参戦意図に気付くべきだった。ソ連に終戦の仲介を依頼したのも愚かだった。
『溺れる者はわらをもつかむ』呪縛にとらわれたのだろう」と指摘する。
日本のポツダム宣言受諾は米国の原爆投下とソ連の対日参戦のどちらが”決定打”だったのかという議論については「単純に比較できないが、中立条約があり仲介を頼んだソ連に裏切られたという心理的打撃のほうが大きかったのではないか」とみる。
来月で75歳。戦後の日本の歩みと重なる。5年前に軽度のがんが見つかり投薬・通院治療を続けるが、毎朝のジョギングを欠かさず、1日12時間を研究と執筆に充てている。『日ソ戦争』の要約版をロシア語で出版する構想もある。
ライフワークとして主宰する「シベリア抑留研究会」は今年12月で設立10年を迎える。先月あった研究会では中高生2人が初めて参加し、95歳の抑留体験者の話に聴き入った。
富田さんは「体験者が減っている代わりに次の世代や、その下の世代の人が来ている。僕も年だし、いつまで研究会をリードできるか分からないが、抑留のことを知りたいという人がいる限り続けたい」と話す。
ウェブサイトで文書が閲覧できると連絡があり・・・ロシア語も堪能なんだ
若い頃、まったく勉強をしなかったから、今ごろ、少し勉強をしている。と言っても、ぶ厚い本は読む気がせず、もっぱら、晴天とら日和さんのブログに出てくる政治ブロガーの中で、その日に関心を持った記事を3つ~4つほど読むだけ。それと新聞は文化欄を中心に読んでいる。
これだけでも、随分と勉強になる。
今頃になって学んで何するの・・・と問われても、別に目的などはない。
興味や関心がある自分がいるというだけ。
誰もが富田武教授のようになれるわけではない。ぼくは単純に、この記事がおもしろかったので、あなたに紹介しようと思った。
ブログで紹介ができるという「自分なりの役割」も、小さな生きがいに通じる。