8月31日 朝日新聞 2面 ひと

まぶしいほどに明るい。色使いも題材も。
描き手が過ごしてきたであろう歳月とは裏腹に、キャンバスは光であふれている。
ハンセン病の元患者たちの絵画に引き込まれ、保存活動を続けてきた。
国立療養所菊池恵楓園(熊本県合志市)に、入所者でつくる絵画クラブ「金陽会」がある。
熊本市現代美術館の学芸員だった2002年、初めて作品を見た。患者を差別した社会への恨みや悲しみの絵だろうと思って訪れたアトリエで、光の絵画に衝撃を受けた。
熊本にいながら何も知らなかった。そのショックを原動力に03年から現代美術館で「光の絵画展」を企画した。
元患者は高齢化が進む。70年近く前に発足し十数人の会員がいた金陽会で、今も絵筆をとるのは熊本・天草出身の男性だけになった。
他の療養所では処分される作品も少なくない。
「ハンセン病問題を知った者として、なかったことにはできない」。
15年に退職し、知人と一般社団法人ヒューマンライツふくおかを設立。ボラんティアとの調査で900点以上の作品を確認し、デジタル化を進めている。
古里や家族と引き離され療養所で暮らす入所者に代わり、作品を「里帰り」させる展覧会を計画。10月には天草で開く。
「人間の強さや希望に気づかせる、すごい財産。ハンセン病問題を自分事として考えるきっかけにしてほしい」
たいていの療園に「歌会」があり、長島愛生園には「詩会」もあったから、もちろん「絵画の会」もあっただろうが、絵に関してはあまり見たことがない。
絵具が高かったり、あまり手に入らなかったりしたのではないか。手の指がない人もあり、目の不自由な人も多く、絵画は短歌や詩よりハードルが高かったのではないか。
作品を残すにも、短歌や詩の方が場所を取らない。絵画を残すには「個室」もいるような気がする。
万博が開かれた1970年前後は各療園ではまさに「文芸のルネサンス」の幕開けだったと思う。今から50年ほど前のことである。
入所者は、文藝活動、宗教活動、自治会活動(政治活動)のどれか、もしくはその複数に熱心に取り組んだ。
そして入所者の楽しみに、各療養所でも文芸活動を奨励したようだ。愛生園でもそうだった。
療養所で一生を終える、社会復帰もできない、後遺症も残っている・・・そんな状況下で入所者はそれぞれの思いのはけ口として、文藝や宗教や自治会活動に精魂を傾けた。
多くの漫画家を輩出した東京の豊島区の「トキワ荘」のような状況が、各療養所でも繰り広げられた。
歌会や詩会・・・こういう場が定期的に催されたのは日本全国まさに療養所だけだったろう。
そこで生みだされた文学や絵画は「ハンセン病者の芸術だから差別」されたのかも知れない。一般の人の目に触れることも極端に少なかった。
今日の「ひと」で紹介されていた蔵座さんは、5年前に熊本市現代美術館の学芸員を退職し、知人と一般社団法人ヒューマンライツふくおかを設立。ボランティアとの調査で900点以上の作品を確認し、デジタル化を進めている。
まだ50歳。熊本市現代美術館の学芸員という安定した職を投げうって。
ぼく自身も、同じ瀬戸内市にありながら、そして家から30分ほどの長島に、邑久光明園(前身は大阪にあった外島保養院)と長島愛生園の2つのハンセン病療養所がありながら、「文学」があるとは知らなかった。
長島大橋ができたのは1988年で、農業を始める3年ほど前のことだったが、初めて長島大橋を渡ったのは、それから20年も過ぎた50代半ばのことだった。
例のポスターの件がなかったら、年に1~2回ドライブに行くくらいで、「ハンセン病文学」には縁がなかったと思う。
ハンセン病の文学という意識はなく、単純に面白く、癒されている。