朝日新聞 5月22日 1面 折々のことば 鷲田清一
私たちは、上手な引き算ができていないのだと思うのです。
(小山田徹)
アートの世界に”コミュニケーションの可能性”みないな「ポジティブワード」が並ぶのを、美術家は訝しむ。
それよりも、わからない、かなわないといった「不可能性」を体験することのほうがうんと大事だと。
多様性とはそういうこと。それに打ちのめされつつ、それを楽しむ。そういう「嬉しい敗北」から出発してこそ人は前に進める。
「TURN JOURNAL」春号から。
何度繰り返し読んでも、最初の一行の意味が理解できなかった。その次に書かれている意味はだいたいわかる。
石田徹也さんの絵のように好き嫌いが分かれる絵もある。
ぼくは「抽象画」というものが、見てもさっぱり理解できない。しかし、部屋に飾るには、こういう全くわからない絵の方が、インパクトが強い思う。
通るたびに、何だろうこの絵などと、思いながら。
ただ、家族がいたら、自分はわからなくても、家族の中の誰かがわかるのかも知れない。
例えば、愛知トリエンナーレ2019は、嫌がらせや脅迫等によりすぐに展示中止に追い込まれたが、アートの世界では、ちょっとびっくりしたり、瞬間立ち止まってしまうものだったり、見た目が気持ち悪かったりする方が、後で記憶に残ると思う。
ただ、ぼく自身はそういう芸術展に足を運んだことがない。そういうものが無くても生きていけるタイプである。もちろん音楽も。
しかし世の中には、いちいち、そういう芸術がもつ本来のものに、ケチをつけたり、いちゃもんをつけたりする人がいるようだ。
それだけならまだしも、エスカレートして脅迫などをするのは言語道断であり、それらは往々にして、時の権力に迎合して、それをバックに意識しながらやってくる。
そして、時の権力に行政も忖度しながら、特定の作品の展示に圧力をかけてくる。
よくよくのものでない限り、芸術表現は自由と思う。
美術作品は人に「大きな違和感」を与えるものほど「よい作品」と思う。
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