蝉
あそこは暗かった
あそこで食べたのは
木の根の汁だけ
あそこは長かった
もう明るみに出る日はないかと思った
なんと明るいのだここは
思い切り声を出して暮らせる日が来ると
あの長い年月
考えられもしなかった
大勢の仲間と
好きなだけ声が出せる
声が出せることがこんなにすばらしいことだとは
知らなかった
あそこでは
言いたいことがあっても
じいっとがまんしていた
声を出しても
回りからふさがれたものだ
ああ
太陽をいっぱい受けて
愛し合って
産んで
祈って
ここは緑と光の楽園
あの暗かった季節に
こんなすばらしい日が訪れるなんて
いかなる摂理によるものだろう
三日の命だってかまやしない
いまは
生きている感動にふるえる目を
かっと見ひらいていよう
風紋
いつも
幸運が
顔を少し近づけた頃に
風が消したので
風紋があるだけ
風紋たちはささやいた
小学校しかゆけなかったね
自分の作品に
親からもらった名前も記せないね
病気はなおっていても
病名が悪いから
なおったと言って祝ってもらえないね
風紋のささやきに焦られて
私は立つ
偏見と差別の風
ひっそりと沈黙した砂たち
生産のない砂漠
風紋ができる条件が
いつの場合も
そろっていて
2030年 農業の旅→

日本の常識は世界の非常識
世界の常識は日本の非常識
この国の公文書管理はむちゃくちゃだ。改竄、廃棄、何でもありの国だ。
戦争中の公文書も、戦後すぐに大半が焼き捨てられた。
公文書はどこの国でも、きちんと管理すべく特定の人員が配属されている。
「公文書管理すら出来ない国の外交」はあり得ない。
朝日新聞1月30日4面一部抜粋
合法的な文書隠蔽の危機
成城大学非常勤講師(瀬畑源さん)
瀬畑さんは、1年未満で捨てる文書か否かが現場の判断にゆだねられている部分が多いことに危機感を募らせる。「合法的に文書を捨てたり、隠蔽したりできるような状態になってしまったのではないか」。
公文書管理を監視する役割を担う、公文書監査室が内閣府の中にある限り、身内を激しくチェックすることはできない」と語った。
歴史学者の興那覇潤さんは、下記の記事の末尾で、
『民俗学者の宮本常一が書いているが、こうした談合型の意思決定は村の寄合では有効だ。論争による分裂を避けられ、後から「お前の案のせいで」と吊るし上げられる心配もない。ただし副作用として、誰がいつどう発言したかという「歴史」と、それに伴う「責任」を失うことにはなるが。
私たちは歴史と責任を引き受けて生きるのか、歴史なき「流れで決まった」式の楽園で”幸せ”に暮らすのか。それこそを政権は国民に問うている。』と書いている。
朝日新聞1月30日28面
興那覇潤の歴史なき時代 「流れで決まった」楽園
安倍政権が重要な会議で議事録をとらず、とっても黙って廃棄していたことが批判されている。一般論としては、たしかによいことではなさそうだ。
しかしわが身を振り返ると、よくわからなくなってくる。准教授として大学の教授会に出ていたころ、輪番で「書記」を頼まれた。
ノートPCを持ち込んだら、職員さんが驚いている。教授会の書記とは、審議項目のみでほとんど「目次」と変わらない儀礼的な議事録に、承認の印鑑を押すだけの役割だったのだ。
より慣れた教授になると、大事な議題ほど資料を出さないで審議させる。組織再編のような重要事を、レジュメ1枚すら作らず提案する姿勢に疑問を呈したら、なんとこちらが説教された。
意訳すると「誰が議論を主導したのか足がつかないように、場の流れで決まったふりを装おうとしているのが、わからんのか!」ということらしい。
民俗学者の宮本常一が書いているが、こうした談合型の意思決定は村の寄合では有効だ。論争による分裂を避けられ、後から「お前の案のせいで」と吊るし上げられる心配もない。ただし副作用として、誰がいつどう発言したかという「歴史」と、それに伴う「責任」を失うことにはなるが。
私たちは歴史と責任を引き受けて生きるのか、歴史なき「流れで決まった」式の楽園で”幸せに”暮らすのか。それこそを政権は国民に問うている。(歴史学者)
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「隣組」とは・・・と検索して、「ウイキペディア」や「コトバンク」、「制度・活動ドリフターズ」隣組とは「チクったりチクられたり」から、抜粋したり、コピー&ペーストしました。
隣組は、概ね第二次世界大戦下の日本において、各集落に結成された官主導の銃後組織である。大政翼賛会の末端組織、町内会の内部に形成され、戦争総動員体制を具体化したものの一つである。
もともと江戸時代に五人組・十人組という村落内の相互扶助的な面もある行政下部組織が存在していて、この慣習を利用したものである。
日中戦争やヨーロッパで始まった第二次世界大戦に対応して行われることになった国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛正運動と並び、前年に決定し、1940年9月11日に内務省が訓令した「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)によって制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。
また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。戦後の1947年、連合国軍最高司令官総司令部により禁止されたが、その後も町内会等は現在に至るまで多くが残存し、回覧板など隣組の活動形式を色濃く残している。
国民の、国民による、国家権力のための活動さて、隣組の活動について。
先にも述べましたが、隣組は、地域の消防、灯火管制、警報伝達、防護といった「家庭防空」、出征兵士の見送りや遺族・留守家族への救援活動、食糧増産、貯蓄推進、国債の割当といった銃後後援や経済面での活動を行っていました。食糧等の配給切符支給も、隣組を通じて行われています。
国債の割当なんかでは、年々公債発行額が増加していったことから、そのしわ寄せが国民に対する半ば強制的な割当消化としてあらわれることとなりました。
ある隣組では、副食費を節約して国債購入金の一部に充てることを決定するなど、涙ぐましい努力が行われたりしてます。国の失策のしわ寄せが国民に押し付けられるというのは、日本の伝統なんでしょうかね。
チクったりチクられたり
さて、隣組の活動には家庭防空や経済協力以外に、もうひとつ重要なことがありました。
もう予想はついてると思いますが、隣組を構成する人々同士での相互監視ですね。
太平洋戦争勃発の1941年(昭和16年)の日本では、治安維持法をはじめとする治安法規とそれに基づく弾圧により、「不平不満分子」はほぼ一掃されていました。
にも関わらず、この時点に至っても隣組を通じた「赤化防止」が企図されており、隣組常会により「犯罪者の隠れ家、赤化分子のアヂトと云ふ様なものは其の存在が困難」になるとしながら「常会への赤化思想の浸潤は厳に注意」としています。
赤化はともかくとしても、戦争で疲弊し、食べるものもろくにない国民が国家に対する不平不満を抱くのは当然であり、常会などでふと漏らした不満が密告されるなんてことが起こるようになりました。前述した国債割当について漏らした不満(いわく「無理に戦争に勝とうとするからこの様な国債売までするのだ。早く戦争を止めてもらいたい。」)が、不穏言辞として記録されたりも。
1941年(昭和16年)、「防空法」の改正により応急防火義務が規定されたため、投下された爆弾の消火について、民衆が対応しなければならなくなりました。
「爆弾は炸裂した瞬間しか爆弾ではない。あとは、唯の火事ではないか」などとわけのわからんことを言って、隣組の面々に消火活動を押し付けたりしたわけですが、雨のように降り注ぐ焼夷弾、波状攻撃の敵機の前には、消火活動は不可能に等しいものでした。
最後に
部落会・町内会・隣組制度は、太平洋戦争敗戦後の1947年(昭和22年)、GHQ(連合国総司令部)によって「国家体制に組み込まれた地域社会を構成する中心組織」とみなされ、ポツダム政令により廃止されました。
ちなみに、隣組制度は意外なところで生き続けています。
インドネシアのRT/RW制度がそれで、もともとは太平洋戦争中、日本軍占領下のインドネシア、ジャワ島で行政補佐のために日本式の隣保制度が導入されたことに端を発しています。
敗戦で日本軍が去ったのちにも存続し、とりわけ開発独裁の時代(1966〜1998年)には重用されました。
(日本の占領統治とスハルト政権の性格の類似(権威主義的な統治)による、との指摘があります。)
さて、ついでというとなんですが、最後の最後に、隣組の歌の歌詞を掲載しておきます。
1番は冒頭で乗せましたが、一応再掲して最後の4番までどうぞ。
とんとんとんからりと隣組
格子をあければ顔なじみ
まわしてちょうだい回覧板
知らせられたり知らせたり
とんとんとんからりと隣組
あれこれ面倒味噌醤油
ご飯の炊き方垣根越し
教えられたり教えたり
とんとんとんからりと隣組
地震やかみなり火事どろぼう
たがいに役立つ用心棒
助けられたり助けたり
とんとんとんからりと隣組
何軒あろうと一所帯
こころは一つの屋根の月
纏められたり纏めたり
余計な一言。最近は愛国者様を中心に、こういう脳天気な歌詞をまんま信じちゃうような人が結構いたりするので、驚きです。「そんなに悪いものではなかった」とか「良い面もあった」とか飛ばしちゃったり。
自分の見たい情報だけをみて自説強化してるんでしょうけど、あまりやり過ぎるとこじらせて境界線を越えたりしちゃいますので、程々にしておくのがよろしいかと
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舞台
夢をくれた方は目覚めもくれた
甘さをくれた方は苦しさもくれた
愛をくれた方は憎悪もくれた
美しさをくれた方は醜さもくれた
生をくれた方は死もくれた
その方はみんなくれた
片方だけにしなかったから
人間はみんな知り
みんな味わい
みんな成すことができた
でも理性という根締で
ちょっぴりしめておいたのはさすがでした
あなたの思いの中で
自由と拘束の間を綱渡りする人間は
怪物にもなれず
天使にもなれず
ふらふらと危うげに
幕の下りるまで
舞台にいます
ある姿勢
風は愛撫を
鳥は言葉をはこんでくれた
人はただ眺めて通った
いつもながめ方はちがっていた
親しみだったり
愛だったり
情けだったり
憎しみだったり
軽蔑だったり
いろいろな人が
いろいろな目でながめて行った
私はいつでも黙って立っている樹だった
立ったまま
眺める人をながめている樹だった
人は樹の前では
いつも眺められていることを忘れていた
樹になっていると
何でもよく見えた
樹の前だと人はありのままの姿を見せたから
雨が降れば雨に降られ
風が吹けば風に吹かれるまま
私は黙って立っている樹だった
そして
誰も
私が樹になっていることを
さして気にもとめなかった
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顔
顔のない
なだらかな群れの中から
突然ひとつの顔が摘出される
そうだ
満員電車の中で足を踏まれたとき
あわててひたいをぶつからせたとき
突然群れの中からひとつの顔が摘出され
やあ失敬などと声を出す
しかし また顔は
再び群れの中へとけ込んでしまい
街は何事もなかったように
同じ速さで動いている
顔
そんなものが本当に見えるのは
偶然によって対かい合った人間が
互いのことを確かめ合うときだけ
顔は接近すると対かい合う位置にある
でもみんな
平常は顔のことを忘れている
けれど
どこかで踏みはずしたとき
顔のない群れは
忽ち分解した微粒子のように
ひとつひとつの顔になり
転落した不幸な人間の上へかぶさってくる
そして
世界は顔になって
小さな不幸の上を踏みつける
口紅
口紅は
金の金具に納っている気取りやさん
手に取ると南天の実のように愛らしく
私の胸底をくすぐる
その華やかな紅と油質の固体をもったおまえは私のすべてを知っている
だからおまえといるとき
こんなに安心していられるのだ
うずうずと胸底にたぎる熱情も
刃物のように青澄んだ理性も
脂肪のように粘り着く執念も
おまえはみんな知っている
とりわけ鏡に対う私のうぬぼれを
許してくれるのはありがたい
だからこうしていると
私は夕べの空のような安心感を呼び戻すことが出来るのだ
乾いた私の病痕をうずめて
唇に艶めくおまえの
その華やかな紅の明るさ
やっぱり許していてくれる
たったひとつの嘆きを
不逞な美への執念を
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食べる
子供の頃は待ってくれた
かまどのそばで
針箱のそばで
いろりのそばで
父や母や兄弟が
するめを噛むと
ちょっとしょっぱく ちょっと甘く
その家の匂いがする
そこは
海辺の村だ
いまは誰も待っていてはくれない
父死に母死に
兄弟は巣立って行った
からっぽの家では
終日うす暗い闇が立ちこめ
物音もしないだろう
私はなおも噛む
海辺の村とちょっぴり甘い記憶の残るあの家を
するめはぴちょぴちょ口の中で
音立てながらすこしずつちぎれる
私の記憶もちぎれてはひとつ鮮明に浮き上がり消え
また
別の場所が浮き上がり
ひっそりとした秋の部屋で
ひとり
ぱりっとするめを裂き口に入れる
かくれて餌を食べる猫のように
こっそり
私はこころよい記憶を食べている
立つ
私は立っている
ふらついても抱き止めてくれない
透明の中に在って
はじめて私は立っている
ひまわりの花も薔薇の花も
その透明な空間を占めて
はじめて存在を示す
私が歩くと
私の存在が移動する
そして私は
ありとあらゆる空間へわけ入って
いっとき魂と共に歩き
くらりとすがるもののないかたわらの無へ
たおれ込むだけのもの
在ることは
厳然とわけられている
闇と闇の結んだ光の頂点に
否応なく立つこと
私は立っているものを愛おしむ
透明な空間で
くっきりと立つことは
孤独を光らせたまま在ることだから
ひまわりの孤独が立っている
薔薇の孤独が立っている
私の孤独が立っている
大地と空の間
何の物音もない
真昼の庭に
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昨日の「圧力鍋でイノシシ肉」は、別鍋にとり、ルーを2個入れてカレーにした。
イノシシ肉はカレーによく合う。
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いちじく
なまりのように重い暑さを扇風機がかき廻している
厚ぼったく茂った木々の間で
蝉がじんじん鳴いている
ひまわりはこくびをかしげたままいくぶんしおれている
夏は日々うれて
私は思い出の夏をその夏の上に重ねる
小川のそばのいちじくを手にいっぱい
もぎとって食べた夏
海でしぶきを上げながら泳いだ夏
少女の日の健康な夏は光り
そしていまそのさまざまな
思い出の夏を見ている
畳の上に
どさりと体をよこたえたまま
今はまだ
もうすこし年がいったら
この未完の物体が仕上がるのかも知れない
あるいは
夕焼の中の芦原のようになるのかもしれない
仕上がってほっとしたいとも思うし
ひっそりと枯れていたいとも希う
またしばらくは
静かにほほ笑んでいるような
薔薇色の夕焼雲のように在りたい
ああ
それから
安らかに眠りたい
もう少し年がいったら
そして今はまだ
なまぐさいものが好きだ
欲望や希望にゆれる波でおぼれそうな海
自らを引き裂きひきさき糧とする日常
愛や裏切りや
自負や喪失を重く沈めて
発酵している
この狂気のような現実が
なぜともなく好きなのだ
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