外島保養院時代
昭和4年5月、深敬園からの友だちと2人で、大阪駅から人力車に乗って公立外島保養院へ行き、入院を頼む。昭和9年9月21日の第一室戸台風で、同保養院が壊滅する時まで、同院で暮らす。
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外島保養院に行った時分は、いまほど重症じゃありませんで、手の指も曲がってはいましたけど、まだ損じてはいませんでしたし、目も両方ともよかったし・・・麻痺はだいぶんありましたけど。ですから、ここでも、あたしたちみたいな重症者が入っているところを不自由舎、それほどでもない軽症の方たちのところを健康舎って言ってますでしょ、あたしはその健康舎に入ったんです。
当時の治療はやはり、大風子油とカルシュームの注射だけでした。大風子も最初のうちは良く効くんです。だけど、そのうちにだんだん効かなくなってしまって・・・どういうんでしょう、慣れてしまうのでしょうか。
注射の量は、大風子は三グラムくらいでしたか。五グラム打つ人もいたようですけど、よっぽど体力がないとね、打てません。それというのも、打ったあとが散りにくいんです。グリグリになって熱をもって、よく化膿するんです。よくもめ、よくもめって言われて、一所懸命でもむんですけどね。化膿してなおらなければ、切らなきゃいけないんですから。いまだに、小さな塊がたくさん残っています。
注射しかない時代に、その注射が散らずに化膿して、切開手術を受けなきゃいけないなんて、皮肉なことですけどねえ。
外島へ来まして、はじめは言葉に困りましてねえ。関西の言葉がわからないんですよ。(中略)
その言葉ですが、新患といったら、昔はおさんどんというか下女みたいなもんで、さっぱり幅がきかないんです。古くからいるお方はもう取締役みたいなもので、新患にいろいろ指図するんです。そういう人が、あたしに、あんたっ、隣り行ってな、いかきかってきてっと言うんです。はいっと答えたものの、お金はくれないし、まごまごしましたよ。買ってくるのと借りてくるのがね、わからなかったもので、そんなことになって・・・それに、いかきもわからない。大きなザルのことでしたけど。七輪のことはかんてきと言いますしね。往生しました。最初はそんなふうで、いちいちおこられてばっかり。それにあたしが、言葉のおしまいに、ちゃったちゃったって言うものだから、ちゃったの姐さんってからかわれて・・・。
そんなところは、やはり、宗教病院と公立の大きな病院の違いでしょうね。あたしはお金の融通がついたら、出ませんでしたよ。だけど、公立の大きな病院に行って、あたしはどれだけ鍛えられたかしれやしません。それまではどこにも他人さんの前に出たことがなしでしたからね。
昔は、公立病院には水道がなかったんです。外島にはあることはあったんですけど、今のように、家の中までには引き込んでありませんでね、あたしどもの部屋から二十間くらいありましたが、そこまで水を汲みに行かなくちゃいけないのです。天秤棒で麻縄のついた水桶をかついで。ところがあたしは、それまで桶ってものをかついだことがないんです。だけど、みんなは慣れてるんですか、力があるんですか、まえうしろに桶をかつぐんです。あたしは力もないしで、ひとつの桶を二人でしかかつげない。すると、ちょうどいいことに、一人だけ足の悪い人がいましてね、片方だけ松葉杖をついてられる人で、その人があたしと組んで下さったんです。
その人と組んでるときはとてもいいんですけど、その人といつもというわけにはいきませんでしょ。体の調子が悪い時などは、他の人と組まなくちゃいけない。そうすると、組んだ人は癪にさわるんですね、あたしがのろいから。前をかつげって言われてそうすると、うしろから、チョンチョンチョンチョン、こやって押すんです。もっと早く歩けというんでしょうね。すると、桶の水がチャブチャブして、背中から腰の方へかかるんです。それをずいぶんやられました。
外島でも作業はありました。女は洗濯です。洗濯といっても、コンクリ板みたいなところに拡げて、石鹸をこすりつけて荒いハケで洗うんです。むこう鉢巻で、膝まであるかないかの短い襦袢を着て、縄なんかで胴をしばりましてね、そりゃ勇ましい格好ですよ。
自分が洗濯する受け持ち区域というのが、それぞれありまして、そこから何枚って勘定してきてやるんですけど、荒仕事でねえ、あたしにはつらかった。
なんにもできずに、あっち行って叱られこっち行って叱られでした。けど、ちょっといいこともあったんですよ。それは、みなさん、わりに手紙書きが不得手でしてね、それをあたしが買ってでまして、今日は誰のを書きましょかって・・・。
この手紙書きというのは信用が大事でしてね。というのは、特に自分の家のことは誰にも教えないんです。病者同士も。それを書かせてくれるのは、そりゃありがたいことなんです。信用のない人には、自分の本当の住所を教えやしませんからね。この病気であることが知れたら家族が迷惑するというのが、みんな頭にありますから。
あたしがいた部屋は八人いましたけれど、殆ど文盲の人で、あたしは、それでどれだけ助かったかしれません。あたしだって、立派な字なんかとても書けないんですけど、小学校の時分から作文が好きで、どっちかというとあたしの方が楽しんでるみたいに、一所懸命文案しました。書きあげますと、これでいいですかって読みあげるんですけど、あ、自分が思うとおりより、もっといいこと書いてくれたって喜ばれまして、新患でしたが、それであまりいじめられずにすんだと思います。
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キャベツ200gを千切りしてボールに入れ、薄力粉を100g入れて混ぜ、溶き卵2個と水を150CC入れて混ぜ、15秒湯通しした豚肉100gを入れて混ぜる。
熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、具材を入れ、弱火で裏表10分ほどずつ焼いて出来上がり。
ダイコンおろしとニンジンおろし

2030年 農業の旅→

ハンセン病文学全集4(記録・随筆)に載っていた藤本トシさんの随筆は今回で終わりです。全部載せたのは、どれもすばらしかったから。
音と声から
一
不自由者の寮は、皆まっすぐ東から西へ延びて建っている。その中の私の寮は、そこに八つの部屋が並んでいて、その北側には三尺の通し廊下がついている。
その廊下を何人かの人工の足が、ぎゅーぎゅーと忍ばせようのない音で歩き、とっさきを布に包んだ松葉杖は、こつ・・・こつ、こつ・・・と遠慮そうに行き、盲人の足はすーすーっと探りながら、それでも元気に通りすぎて行く。
そのたびに、どの音からも冷たい過去が匂い、それを越えて来た、意志のほてりがくる。
だが私をふくめてこの人々の峠道は、まだまだ遠く遥かである。野球や相撲のクイズに興じているのは、道の辺の木陰に憩うひとときなのだ。写真または書画を習い、歌作句作に耽るのは、荒野に咲いた野の花にしばし見とれているのである。
ともかくこれからの尾根は互いにもっと呼び合って越えよう。谺をおこそう。励ましの思いを谺に託して一歩一歩登ろう。
時計が午前九時をうった。治療時間・・・そう思ったとたんに、がたん!と廊下で重そうな音がした。外科の出張治療である。あちらからも、こちらからも、足や手を持ってくる。すりむいた肱も薬缶でやった居眠りやけどの顔も、柱で打ったおでこもくる。これがすむと、眼科と耳鼻科の出張。ちゃりん・・・。しゃーしゃー。こちこち。いろいろな音がする。この音が病の軽重にかかわって、ある時はうれしく、ある時は言いようもなく侘しい。が、どちらにしても、治療が終われば安堵の胸を撫でるのである。
今日もその時がきて、やれやれと背を伸ばしたとき大声が聞こえた。
「やあ、百円飛んでくぞー、そっちの方へいくぞー」
猫のことである。寮での飼育は禁じられているのだが、どこからくるのか近頃たいへん殖えて、困った揚句が一匹百円で買い上げるふれが出たのである。しかし、いくらお金が廊下を走っていても、たとえそれが百万円であっても、残念ながら私の寮では、誰一人拾える者はいないのである。
二
丘に佇って夏の海をじっと見ていると、いや感じているとである。私の眼うらに波しぶきを上げてお御輿が通る。わっしょい、わっしょい、わっしょい。日をはねかえして瓔珞がゆれ、鳳凰が輝く。白鉢巻の力んだ顔がなおいっせいに、揉め揉め! わっしょい!わっしょいと叫ぶ。その中に父の声がある。兄の声も交じる。風に青蘆がなびいて見物の母の顔がちらちらする。
あれから三十余年。私が遊びたわむれたのは太平洋の波であった。今・・・瀬戸内海に向かって私は心で言ってみる。わっしょい、わっしょい・・・。すでに父も母も兄も不帰の客なのだ。
孤独、これは淋しい。だが私の場合それは幸いなことでもある。食卓からホークを口で探り取り、味噌汁の熱度を舌で計っていたとしても、花畠へ迷い込み、お目玉を貰っても、冬は着物にゴム靴を履き、そのうえ小雨でもふれば頬冠りといういでたちでお風呂へ行っても、したたか頭を打って、「やっぱり電柱にゃあかなわない」と半泣きをかくしていても、ふるさとからの深い嘆きの眼ざしを感じないで済むからである。不遇の子を持つ親の心にふれるほど切ないものはない。
真さんはよく母親のことを言う。末っ子だから親も子もよけいに心にかかるのであろう。そのためか、母親は七十を過ぎているのに毎年面会に来る。それが来ない年があった。そのとき彼が私に言うには、
「今日手紙が来たよ。ばかに部厚いので何が入ってるんだろう・・・と思って開けてみたら、手形と足形が出てきたんだ。そして手紙にはこう書いてあったよ。
今年はいろいろな都合でどうしても会いに行くことができません。それで母さんは手形と足形を送ります。私はこの足でお前のそばへ行き、この手でおまえを撫でているつもりです。だからお前も母さんの心をくんで此度は我慢して下さい」
彼はそれきり言わなかった。
夜、蝉の声を聞いて、その方の空を仰いでいると、通りがかりの友が揶揄した。
「闇夜だぜ、だが良い眼にゃ何か見えるのかい」
「私の満月貸してあげる。見てごらんなさい」
向ってきた寂寥から、私はひらり体をかわした。そして「お見事・・・」と我と我が身に喝采を送ったのである。
藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)
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