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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

農業への初期投資は限りなく小さく



住む家も、田んぼも、農具も、教えてくれる人(父)も全てそろっていたが、

農業で食べて行けるかどうか、大いに迷った。

どういう農業形態にしたらいいかもわからなかった。


これに比べたら、都会から農業をするために田舎移住をする人の、努力はいかほどであろうか。


まず、農業をする場所を見つける必要がある

住む場所も探す必要がある

したことがないのだから、どういう農業形態が向いているかも見当がつかない

もちろん農具も持っていない

移住するには、かなりの元手も必要になる



農業をするなら35歳くらいまでには移住したい。

それが難しいなら、あと20年待って(都会にとどまって)、55歳の頃に早期退職して定年帰農型の農業をした方がいいように思う。


37歳の直前に農業を始めた自分は、来年の3月で30年が経過する。

見わたしても、35歳くらいまでに農業を始めた人が多い。

その頃、岡山に移住してきた人を6人ほど知っているが、どういうコネで探したのか聞いていない。

今は絶版になったが、「自然食通信」や「百姓天国」の雑誌から、他に「現代農業」や「土と健康」誌等に登場する農業者からの紹介もあっただろう。


 

住む家も、田んぼも、農具も、教えてくれる人(父)も全てそろっていたが、農業を始めるまでは、迷い続けた。

とにかく「自分にできる農業」はどんな農業だろうかと考え続けた。

同じ瀬戸内市の牛窓地区のような産地型農業はできそうに思えなかった。

ハウスとか持って、キュウリやトマトを作るのは、もっとできそうになかった。

できると思えたのはワンパック宅配型農業だけだった。


消費者に直接届ける

無農薬だから、少々の虫食いは理解してくれるだろう

少量多種類を作るので、面白く、技術力もそう必要なかった

都会の顧客を探すのが難しかったが、口コミで広げてもらえた

地元は軽四に野菜を積んで「引き売り」しながら顧客を探した

宅急便の送料も、今に比べて格段に安かった。送るワンパックも多かったので、安くしてくれた。



今度来られる人に、ワンパックは進めない・・・というか、販路は当人に探してもらうしかない。もしなかったらスーパーやJA(農協)の直売所へ出荷するようになる。


ぼくの技術力は劣るが、農業仲間を紹介して、見学や手伝いに行って、覚えてもらおうと思う。


農業は徹頭徹尾、本人の能力とセンスだと思う。


自分にできることは見守ることくらい。



家賃の支払い、生活費、各種社会保険料の支払いもあるので、農業への初期投資は限りなく小さくスタートしてもらう。



当地の水が合ってくれればなあと思う。



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日刊ゲンダイ

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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(3)


外島保養院時代

昭和4年5月、深敬園からの友だちと2人で、大阪駅から人力車に乗って公立外島保養院へ行き、入院を頼む。昭和9年9月21日の第一室戸台風で、同保養院が壊滅する時まで、同院で暮らす。

5ページ(1ページは525字)です。


 外島保養院に行った時分は、いまほど重症じゃありませんで、手の指も曲がってはいましたけど、まだ損じてはいませんでしたし、目も両方ともよかったし・・・麻痺はだいぶんありましたけど。ですから、ここでも、あたしたちみたいな重症者が入っているところを不自由舎、それほどでもない軽症の方たちのところを健康舎って言ってますでしょ、あたしはその健康舎に入ったんです。
 当時の治療はやはり、大風子油とカルシュームの注射だけでした。大風子も最初のうちは良く効くんです。だけど、そのうちにだんだん効かなくなってしまって・・・どういうんでしょう、慣れてしまうのでしょうか。
 注射の量は、大風子は三グラムくらいでしたか。五グラム打つ人もいたようですけど、よっぽど体力がないとね、打てません。それというのも、打ったあとが散りにくいんです。グリグリになって熱をもって、よく化膿するんです。よくもめ、よくもめって言われて、一所懸命でもむんですけどね。化膿してなおらなければ、切らなきゃいけないんですから。いまだに、小さな塊がたくさん残っています。
 注射しかない時代に、その注射が散らずに化膿して、切開手術を受けなきゃいけないなんて、皮肉なことですけどねえ。

 外島へ来まして、はじめは言葉に困りましてねえ。関西の言葉がわからないんですよ。(中略)
 その言葉ですが、新患といったら、昔はおさんどんというか下女みたいなもんで、さっぱり幅がきかないんです。古くからいるお方はもう取締役みたいなもので、新患にいろいろ指図するんです。そういう人が、あたしに、あんたっ、隣り行ってな、いかきかってきてっと言うんです。はいっと答えたものの、お金はくれないし、まごまごしましたよ。買ってくるのと借りてくるのがね、わからなかったもので、そんなことになって・・・それに、いかきもわからない。大きなザルのことでしたけど。七輪のことはかんてきと言いますしね。往生しました。最初はそんなふうで、いちいちおこられてばっかり。それにあたしが、言葉のおしまいに、ちゃったちゃったって言うものだから、ちゃったの姐さんってからかわれて・・・。
 そんなところは、やはり、宗教病院と公立の大きな病院の違いでしょうね。あたしはお金の融通がついたら、出ませんでしたよ。だけど、公立の大きな病院に行って、あたしはどれだけ鍛えられたかしれやしません。それまではどこにも他人よそさんの前に出たことがなしでしたからね。
 昔は、公立病院には水道がなかったんです。外島にはあることはあったんですけど、今のように、家の中までには引き込んでありませんでね、あたしどもの部屋から二十間くらいありましたが、そこまで水を汲みに行かなくちゃいけないのです。天秤棒で麻縄のついた水桶をかついで。ところがあたしは、それまで桶ってものをかついだことがないんです。だけど、みんなは慣れてるんですか、力があるんですか、まえうしろに桶をかつぐんです。あたしは力もないしで、ひとつの桶を二人でしかかつげない。すると、ちょうどいいことに、一人だけ足の悪い人がいましてね、片方だけ松葉杖をついてられる人で、その人があたしと組んで下さったんです。
 その人と組んでるときはとてもいいんですけど、その人といつもというわけにはいきませんでしょ。体の調子が悪い時などは、他の人と組まなくちゃいけない。そうすると、組んだ人は癪にさわるんですね、あたしがのろいから。前をかつげって言われてそうすると、うしろから、チョンチョンチョンチョン、こやって押すんです。もっと早く歩けというんでしょうね。すると、桶の水がチャブチャブして、背中から腰の方へかかるんです。それをずいぶんやられました。

 外島でも作業はありました。女は洗濯です。洗濯といっても、コンクリ板みたいなところに拡げて、石鹸をこすりつけて荒いハケで洗うんです。むこう鉢巻で、膝まであるかないかの短い襦袢を着て、縄なんかで胴をしばりましてね、そりゃ勇ましい格好ですよ。
 自分が洗濯する受け持ち区域というのが、それぞれありまして、そこから何枚って勘定してきてやるんですけど、荒仕事でねえ、あたしにはつらかった。
 なんにもできずに、あっち行って叱られこっち行って叱られでした。けど、ちょっといいこともあったんですよ。それは、みなさん、わりに手紙書きが不得手でしてね、それをあたしが買ってでまして、今日は誰のを書きましょかって・・・。
 この手紙書きというのは信用が大事でしてね。というのは、特に自分の家のことは誰にも教えないんです。病者同士も。それを書かせてくれるのは、そりゃありがたいことなんです。信用のない人には、自分の本当の住所を教えやしませんからね。この病気であることが知れたら家族が迷惑するというのが、みんな頭にありますから。
 あたしがいた部屋は八人いましたけれど、殆ど文盲の人で、あたしは、それでどれだけ助かったかしれません。あたしだって、立派な字なんかとても書けないんですけど、小学校の時分から作文が好きで、どっちかというとあたしの方が楽しんでるみたいに、一所懸命文案しました。書きあげますと、これでいいですかって読みあげるんですけど、あ、自分が思うとおりより、もっといいこと書いてくれたって喜ばれまして、新患でしたが、それであまりいじめられずにすんだと思います。


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今日のクイーン(再3)  42

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お好み焼き


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キャベツ200gを千切りしてボールに入れ、薄力粉を100g入れて混ぜ、溶き卵2個と水を150CC入れて混ぜ、15秒湯通しした豚肉100gを入れて混ぜる。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、具材を入れ、弱火で裏表10分ほどずつ焼いて出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし


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初霜


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今朝は初霜だった。


冷えた朝の田んぼは、太陽光線を浴びると、銀色に輝く。


ニワトリに、稲作農家からもらったコゴメと、市販の飼料を与え、青菜を与える。


青菜といっても、草はすでに伸びなくなったので、野菜(虫食いの多い、出荷しづらい野菜)を与える。ハクサイ1個、キャベツ1個なら、20羽たらずで、その日のうちにきれいに食べてしまう。


ダイコンはそのまま投げ込むと、あまり食べてくれないので、鎌で輪切りし、米糠をまぶしておくと、食べてくれる。


米糠は時々、コイン精米機を見回って集めている。


11月20日頃まで来襲していた大スズメバチはもう来なくなり、暖かい日中はミツバチの出入りも多く、蜜集めをしている。ただ、底板には「巣くず」がかなり落ち始めたので、蜜集めもするが、貯蜜を食べながら越冬に向かう。


巣箱の寒さ避けは、風当たりの強い置き場所だけ、出入口以外の3面をポリ(プチプチ)で簡単に覆う。


サトイモ、ヤーコン、キクイモ、ハーブ類は、近所の稲作農家から籾殻をもらって畝の上を覆い、寒さ避けをする。


サツマイモは発泡スチロールに入れ、籾殻をかぶせ、台所の冷蔵庫や水屋の上に置くと、来春まで腐らずに保存できる。


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今日のクイーン(再3)  41

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週刊金曜日

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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(2)

 

『地面の底がぬけたんです』一部抜粋


大正10年4月 父危篤の電報に帰宅。父死亡後、琴平町から北品川へ引越した。家計を考えて病院(木下病院)に戻らず、外来患者になる。

大正12年9月 北品川で関東大震災に会う。

大正13年 母を亡くす。

大正14年6月 大磯の海岸で入水自殺を計るが、巡回中の刑事に補導される。翌日、小田原の海岸で小舟の陰にかくれて夜を待ち、再び入水を計るが、
茶店のおばあさんにとめられる。そのおばあさんのすすめで、身延山の深敬園を訪ねる。



・・・ですが、あたしは、深敬園へずっと入る気はなかったんです。あんまり疲れたから、一晩だけご厄介になろうと思いまして、そう申し上げたんですけど━━ちょうと綱脇先生はお留守で奥さんが出てみえたんですけど、声といいしぐさといい、それはやさしいお方で━━まあよく来てくれましたねえ、一晩なんて言わないでずっといらっしゃいよって、奥さんの方があたしの手を取って泣かれるんです。あたしも情なくなって、二人でワァワァ泣いてねえ・・・。
 結局、深敬園に五年ほどお世話になりました。
 そこでは、わずかではありましたが入院費が要りましたもので、両親は亡くなっておりますから、兄の方へ、これこれのお金がかかるけれどもここに居てもいいかと聞いたんです。すると、そこに居てくれって返事がきましたので、お世話になることになったんです。

(中略)

・・・まあ、あたしはそんなわけで、お金につまり切ってしまって深敬園を出ることになったんですけど、女の人と二人でと言いましたろ、
そのお方はお金じゃありませんで、愛情問題でね、出たがっておられたんです。
 そりゃ、狭いところで一緒に暮らすんですからねえ、患者さん同士で好きあうというようなことも、あるんですよ。だけど結婚なんて、その頃許されてはいませんし、もちろん夫婦舎なんてありませんしするから・・・。
 ですから男舎と女舎の区別なんか厳格です。夜なんか男の人が遊びに来たら、すぐ注意がありましたしね。そういうふうですから、一緒になりたいと思うようになれば、もうそこにはいないんです。逃げるんですよ。
 あたしの友だちというのもそれで、あたしと一緒に出たんです。出る時はあたしたち二人とも普通の着物を着てたんですよ。ところが、海岸のへりについてから相談しましてね。ほら、お遍路さんというのありますでしょ、あれをいっぺんやってみようというんですよ。呑気なもんでね。
 それで晒を買ってきまして、海辺の岩の陰で縫ったんです。あたしもその頃は、まだ、やっとですけど針が持てましたし、連れの友だちは、この人は手足がしっかりした人でしたから、二人で一生懸命縫いましてねえ。
 もう、そういうところは、悲しみとか苦労ってもんじゃないんです。半分おもしろいんですよ。
 そんなわけで、お遍路さんの格好で歩いたんです。門口に立ちますと、友だちは手がいいから団扇太鼓を叩きまして、あたしがお経をあげるんです。あたし、お経はなかなか達者なんですよ。深敬園で五年教わりましたから。そう急ぐ旅じゃなし、遊び遊びのようなもんでした。
 連れの相手の、男の方はまだしばらく深敬に残っておられて、あとから出られまして、外島(大阪・公立保養院)で夫婦になられました。
 外島では、夫婦舎というのはないんですけど、夫婦は認められてたんです。
 夕飯がすんでしばらくしたら、男の方が自分の家内のところに来られるんですよ。そして朝早く、また自分の部屋に帰られるんですけど。
 一部屋に四人か五人入ってましょ。すると仲人さん━━そういうことをするのが好きな人がまたどこにもいるんですよ。その人が、この人とあの人を結婚させようと思って成立しますでしょ、するとみんなの部屋へ、誰さんと誰さんがこんど結婚することになりましたから、よろしくお願いしますってくるんです、通知が。すると、みなさんでお茶とお菓子で会をしたりするんです。おしるこを作るところもあるらしいですよ。それで、患者事務所から、園の人事係へ届けられるのです。
 それでも、夫婦として自分たちの部屋があるわけじゃありませんのでね。独身の人も気を遣ってですし、夫婦の人も気を遣います。夜だけ来て朝早く帰るんですもの。
 夫婦舎なんかができたのは、戦後もずっとあとのことですし、一夫婦一部屋の暮らしができるようになったのは、昭和も三十年頃ですからねえ・・・。
 園の人事係に届けて、手続きは一応おしまいですけど、ただ、その頃は子どもができたら困るというので、優生手術をさせたんです。それが結婚の条件だったんですね。ですから男の人は気の毒です。
 外島では、はじめの頃はまだ手術しなかったらしいのです。それで子どもがずいぶんできて、往生したと聞きます。その子どもたちは、みんな里子に出されたんだそうです。
 そういうことから、手術が義務づけられるようになったんでしょうか。

(注)身延深敬園 明治35年の夏、ライ患者たちの参詣所が、警察によって焼き払われたが、その跡と、患者たちの困憊を見た僧・綱脇竜妙が、身延村に13名収容の仮病室を、明治39年10月19日に設立したのがはじめ。その後、訪れる病者も増え、今日に至っている。(平成4年11月閉園)


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キャベツの簡単蒸し


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無水鍋の下敷きにタマネギを入れ、手でちぎったキャベツを入れ、シイタケを入れ、ニンニク2片の薄切りを入れ、酒、みりん、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして5分、火を消して余熱10分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



煮卵

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昨日のサトイモの残り汁に卵2個を入れ、4分煮て出来上がり。



ブロッコリー

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マヨネーズで。



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ゲーム依存症


ぼくもニコチン中毒やパチンコ依存症から抜け出るのに、本当に苦労した。


止めように止めれなかったから。


タバコは農業を始める1年前に肺炎になり、1週間はタバコを止めるように言われ、そのタイミングで17年近くに渡ったニコチン中毒から解放された。


止めれたのは日頃から「止めよう」、「止めなければ」という意識が常に頭の片隅にあったからで、この強い思いがなかったら、止めれなかっただろう。


止めれたのは運がよかった。何か「きっかけ」がないと止めれない。


パチンコはニコチン中毒ほどではなく、最初の職場を辞めたことがきっかけで、所持金がなくなり、行こうに行けなくなった。


他の依存症になったことは思い浮ばず、やめてからは、タバコは全く吸わなくなり、パチンコも行くことはなくなった。


パチンコをやめてからタバコをやめるまでに10年ほどの期間があったが、この2つが止めれたことで、その後の人生が変わったような気がする。


しかし今、今度はブログ依存症になっている。


これはパチンコやタバコに比べたら、まだ良しとしているが、自分は依存症になりやすい体質だと思う。


考えてみれば、研究者や芸術家も、一種の依存症(熱中症)であり、酒やタバコ,ギャンブルに依存(熱中)するのと「紙一重」であり、歴史的にみれば、あの野口英世も「アルコール中毒」の一面があったようである。渡航費用を全てアルコールに費やしたとか・・・。



今日の毎日新聞に大きく取り上げられていたのは「ゲーム依存症」である。


スマホやパソコンは「はまってしまう」一面がある。親も子供も。


取り上げられていたのは子供の「スマホゲーム依存症」である。


これは、ニコチン中毒やアルコール依存症、ギャンブル依存症と同じように、あるいはそれ以上に脱却が難しいのではないか。


スマホを手放すしかないのでは・・・。


しかし職場では多分、「スマホを持たない自由」はなく、なかったら職場におれなくなるだろう。


ニコチン中毒、アルコール依存症、ギャンブル依存症は大人の依存症だったが、ゲーム依存症は、大人も子供も。



毎日新聞11月28日3面

ゲーム依存は世界規模で深刻化し、海外では長時間ゲームを続けた人が心疾患で突然死した事例などが報告されている。中国政府が18歳未満は深夜のプレーを禁じるなど、対策も強化されつつある。

日本で今回の調査を実施した久里浜医療センターは、アルコールやギャンブル依存の治療で知られる。ここを2020年度からゲーム依存の全国拠点病院と位置付け、各地の精神科医や精神保健福祉士への研修を始める。 



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今日のクイーン(再3)  40

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RITERA

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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(1)


地面の底がぬけたんです

発病

明治34年 東京・芝・琴平町に生まれた。
大正8年  縁談がととのった18歳の時発病。3月、順天堂病院で診察を受け、紹介状をもらって、本郷千駄木町の木下病院に行き、入院した。

 自分の病気を初めて知らされた時ですけどねえ、もう、なんというか・・・そりゃおどろきましたよ。いえ、知らされたっていいましても、直接に教えられたんじゃありませんでね、木下病院に紹介状をもらって行きましたでしょ、するとちょうど昼食の鐘が鳴って、患者さんがゾロゾロッと出てこられたんですよ。そのお方たちを見た時にハッと気づいたんですけど・・・ほんとにねえ・・・気を失ってしまって・・・立ってる地面の底が抜けたんですよ。
 あなたはお若いから、道端に座っておもらいしてる病者をお見かけになったことはないでしょ・・・でしょうね、あのとおりですよ。結節といっておできのようなのができましょ、あれがひどくてねえ。あたしは子どもの時分にしょっちゅう見てましたし、お金をあげに行ったりしてたものだから、ああ、自分があの病気になったと思ったら、なんともいわれない、悲しい気持ちで・・・もう家には帰れないんだ、自分もああしておもらいして生きていくことになったんだ、そんな運命なんだと思った時には、ま、なんてえますかねえ・・・。


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サトイモの煮物


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乱切りしたサトイモとシイタケを鍋に入れ、水と削り節を入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、煮立ったら極弱火にして20分煮て出来上がり。



シュンギクの卵とじ

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鍋にメンツユを入れ、水で3倍に薄め、砂糖を少し入れ、煮立ったらざく切りしたシュンギクを入れ、溶き卵1個を入れ、極弱火で4分ほど煮て出来上がり。



味噌汁


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乱切りしたサツマイモとシイタケを鍋に入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にしてニンジンとダイコンの千切りを入れ、5分ほど煮てざく切りしたキャベツを入れ、10分ほど煮て味噌を溶き入れ、小口切りしたネギをふって出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし


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どんな生き方も「正解」なのよ


(歌手・加藤登紀子さん )


私の父は、「人生、面白うないといかん」と私に言い、東大在学中に、「日本シャンソンコンクール」に勝手に申し込んでしまい、歌手としての人生に挑戦することができました。

「良い大学」「素敵なパートナー」というのも、それは表面から見たパッケージのようなもの。中身じゃないのよ。

「良い大学」「素敵なパートナー」から始まった人生だとしても、それを幸せな人生にできるかどうか、それはあなたの実力です。

何から始まったっていい。そこからどう生きるか。自分の本当の気持ちを見つめ、今のあなたを大事にすること。言ってしまえば、「正解」なんて気にしなくていいのよ。「自分の選んだ人生に誰にも文句は言わせない」というくらいの気分で、あなた自身を生きて下さい。

世の中には、驚くほどいろんな生き方があります。どんな生き方も「正解」なのよ。

(朝日新聞 11月27日 12面)




農業も百人百様であり、それぞれの、数少ない得意にすがって、その人の農業を展開している。



収入的には、ずっと低空飛行だったが、晩年が近くなって、今の農業形態に癒されている。


田んぼと台所が直結していて、常時15種類ほどの野菜がそろい、それを見ながら料理とは名ばかりの、それでも自分では大満足の料理が作れる。


「自分が何を食べたいのかわからない」という状況は生ぜず、いつも食慾がわく状態になっている。


レシピに悩む必要がない。


食べることは死ぬまで続くので、生きて行くエネルギーが身の回りにころがっている。


このことは、タワーマンションの住人が逆立ちしても手にすることのできない現実だろう。


学歴も資産も教養も、土に対峙していない物は、いざというときに役に立たない。


土着性というのは人間の本性なので、土から離れ過ぎたら、精神の調和が保てなくなる。



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今日のクイーン(再3)  39

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阿修羅

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (12)


ハンセン病文学全集4(記録・随筆)に載っていた藤本トシさんの随筆は今回で終わりです。全部載せたのは、どれもすばらしかったから。



音と声から



 不自由者の寮は、皆まっすぐ東から西へ延びて建っている。その中の私の寮は、そこに八つの部屋が並んでいて、その北側には三尺の通し廊下がついている。
 その廊下を何人かの人工の足が、ぎゅーぎゅーと忍ばせようのない音で歩き、とっさきを布に包んだ松葉杖は、こつ・・・こつ、こつ・・・と遠慮そうに行き、盲人の足はすーすーっと探りながら、それでも元気に通りすぎて行く。
 そのたびに、どの音からも冷たい過去が匂い、それを越えて来た、意志のほてりがくる。
 だが私をふくめてこの人々の峠道は、まだまだ遠く遥かである。野球や相撲のクイズに興じているのは、道の辺の木陰に憩うひとときなのだ。写真または書画を習い、歌作句作に耽るのは、荒野に咲いた野の花にしばし見とれているのである。
 ともかくこれからの尾根は互いにもっと呼び合って越えよう。こだま
をおこそう。励ましの思いを谺に託して一歩一歩登ろう。
 時計が午前九時をうった。治療時間・・・そう思ったとたんに、がたん!と廊下で重そうな音がした。外科の出張治療である。あちらからも、こちらからも、足や手を持ってくる。すりむいた肱も薬缶でやった居眠りやけどの顔も、柱で打ったおでこもくる。これがすむと、眼科と耳鼻科の出張。ちゃりん・・・。しゃーしゃー。こちこち。いろいろな音がする。この音が病の軽重にかかわって、ある時はうれしく、ある時は言いようもなく侘しい。が、どちらにしても、治療が終われば安堵の胸を撫でるのである。
 今日もその時がきて、やれやれと背を伸ばしたとき大声が聞こえた。
 「やあ、百円飛んでくぞー、そっちの方へいくぞー」
 猫のことである。寮での飼育は禁じられているのだが、どこからくるのか近頃たいへん殖えて、困った揚句が一匹百円で買い上げるふれが出たのである。しかし、いくらお金が廊下を走っていても、たとえそれが百万円であっても、残念ながら私の寮では、誰一人拾える者はいないのである。




 丘に佇って夏の海をじっと見ていると、いや感じているとである。私の眼うらに波しぶきを上げてお御輿が通る。わっしょい、わっしょい、わっしょい。日をはねかえして瓔珞がゆれ、鳳凰が輝く。白鉢巻の力んだ顔がなおいっせいに、揉め揉め! わっしょい!わっしょいと叫ぶ。その中に父の声がある。兄の声も交じる。風に青蘆がなびいて見物の母の顔がちらちらする。
 あれから三十余年。私が遊びたわむれたのは太平洋の波であった。今・・・瀬戸内海に向かって私は心で言ってみる。わっしょい、わっしょい・・・。すでに父も母も兄も不帰の客なのだ。
 孤独、これは淋しい。だが私の場合それは幸いなことでもある。食卓からホークを口で探り取り、味噌汁の熱度を舌で計っていたとしても、花畠へ迷い込み、お目玉を貰っても、冬は着物にゴム靴を履き、そのうえ小雨でもふれば頬冠りといういでたちでお風呂へ行っても、したたか頭を打って、「やっぱり電柱にゃあかなわない」と半泣きをかくしていても、ふるさとからの深い嘆きの眼ざしを感じないで済むからである。不遇の子を持つ親の心にふれるほど切ないものはない。
 真さんはよく母親のことを言う。末っ子だから親も子もよけいに心にかかるのであろう。そのためか、母親は七十を過ぎているのに毎年面会に来る。それが来ない年があった。そのとき彼が私に言うには、
 「今日手紙が来たよ。ばかに部厚いので何が入ってるんだろう・・・と思って開けてみたら、手形と足形が出てきたんだ。そして手紙にはこう書いてあったよ。
 今年はいろいろな都合でどうしても会いに行くことができません。それで母さんは手形と足形を送ります。私はこの足でお前のそばへ行き、この手でおまえを撫でているつもりです。だからお前も母さんの心をくんで此度は我慢して下さい」
 彼はそれきり言わなかった。
 夜、蝉の声を聞いて、その方の空を仰いでいると、通りがかりの友が揶揄した。
「闇夜だぜ、だが良い眼にゃ何か見えるのかい」
「私の満月貸してあげる。見てごらんなさい」
向ってきた寂寥から、私はひらり体をかわした。そして「お見事・・・」と我と我が身に喝采を送ったのである。



藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)


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リメイクしてカレー


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昨日の肉ジャガの残りは、ルーを1個入れてカレーにした。



カブの甘酢漬け

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カブはスライスして塩をふってもみ、1時間以上置き、しんなりしたら水気をしぼりながら瓶に入れる。

鍋に1カップの水を沸騰させて火を止め、削り節を入れ15分ほど置き、茶こしで濾してまた鍋に戻す。120CCの酢を入れ、50gの砂糖をを入れ、火にかけて溶かす。

瓶に上で作った甘酢を入れ、生姜1片をすりおろして出来上がり。1昼夜経過すれば食べれる。



キャベツ炒め

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熱した鍋に油を入れ、ニンニク1片のみじん切りを入れ、手でちぎったキャベツを入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



目玉焼き

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ブロッコリー

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マヨネーズで。



生姜の冷凍


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生姜は食べやすい大きさに小分けし、水で洗い、3時間ほど陰干しして、ポリに入れ、ジップロックにいれて冷凍庫で保存すると1年もつ。


 


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AI(人工知能) BI(ベーシックインカム)


「働かずに生きる」可能性が議論されるようになると、働く喜びや、働くことと結び付けて考えられてきた人間の尊厳がどこにゆくのかも気になる。・・・
(毎日新聞11月25日6面 「AI時代、人間の尊厳は」)



働く喜びなど、大半の人は持っていないと思う。


働いてカネを稼がないと、生きていけないから。


農業に対しても、働く喜びなどはあまり感じてこなかった。


朝、夕の各2時間ほどしか農業をしなくなったから、農業が楽しくなり、農業がいとおしくなっている。


過激に農業をしている時は、ただ「身体がえらい」だけだった。


長時間働かず、短時間働くだけなら、農業は楽しい。




あくせく働かないようになって初めて、内面も豊かになる。


働く喜びなどは大半の人にはなく、労働を通して自己実現という考え方は、国家や資本家にとって都合がいいだけ。




人間本来の姿はなまけもの。


その「なまけもの」の生活をした方が、生活の質が高くなり、精神も豊かになる。


仕事が生きがい、仕事を通して自己実現・・・など、あえて自分自身をだましだまし生きている。


仕事に逃避しているだけ。


何かと真剣に向き合いたくないから、仕事に逃げる。



AI(人工知能)が近未来、人間の仕事を奪うと言われているが、それは、強制労働からの人間の開放であり、人間性の回復につながる。


人間は初めて、仕事以外のことに興味や関心を向けるようになる。


なにもしなくてよくなると、なにかしないではおれなくなる。



BI(ベーシックインカム)は、支給対象者の公正な選別が難しい生活保護制度に代わる貧困対策の切り札と言われつつも導入が進まない。原因は長所の裏返しで、対象者の貧富や就業意欲の有無を含めて選別を一切しないというラディカルな発想に抵抗感を覚える人が多いのだ。
(毎日新聞11月25日6面 「AI時代、人間の尊厳は」)


上記の主張は、かなりおかしい。ベーシックインカムに反対しているのは、政治や経済を動かしている側の主張であり、導入されると自分たちが最も困るからである。


仕事からの解放は、人間性の回復につながる。


仕事から解放されて初めて、人間は環境に目を向け、人に対する優しさや、人間以外の動植物に対して一体感を持つようになる。


AIは人間の仕事を奪うのでなく、人間性の回復の一歩になる。


ただ、AIには何も期待しておらず、薔薇色の未来など想像もしていないが、奴隷労働からの解放が少しは進むことを期待する。



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今日のクイーン(再3)  38

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (11)

 
ある朝

原稿用紙で4枚ほどなのに、心にしみる。


 光、とりわけ太陽の光線はなんという美しさでありましょう。万象を失ってしまってから、私は初めてその真の美にふれた思いがするのです。いいえ、盲眼にすべての形が映らねばこそ、ただ一つのこった、わずかにはいる光線が私をこれほど歓喜させるのかも知れません。とはいえ衰えはてた網膜に感じる光は、波間を分けてさしのぼる朝日のそれではなく、空も下界もくれないに染めつつ悠然とかたむく落日のそれでもむろんないのです。しいていえば幻想的なものなのです。
 夜も昼も晴れ間のない深い霧の世界、しかしその眼が陽を捉えますと、光はたちまち金粉となって飛びかい、霧の中で上下左右にゆれるのです。まったく静かな、そしてきれいな舞踏です。私はこの踊子を透して、あるときは遠い過去の野川を見ます。ある時は、手塩にかけて咲かせた大輪のばらを憶い、またあるときはその日のさだめが緑かー白かー占うこともあるのです。
 私はけさ、その不思議な踊子と共に婦長碑のほとりへ行きました。そこには椿の木があるのです。
 そして西側の枝は、立っていて探るのにちょうどいいところに、二つの
つぼみをもっているのです。この莟はときおり訪ねる私の口中で、太り育っていくいぶきを生き生きと吐いてくれるのです。
 今日はどのくらいになっているであろう・・・と楽しい杖はおのずからはずみます。ところが来てみると、二、三日小糠雨が降りつづいたためか、莟はすっかりふくらんでいて、もう私の口中には入りませんでした。というより舌に柔かい花びらが触れた瞬間、花に気の毒になってきて、探るのをやめたのです。けれどそのとき、掌中のものをふいに失ってしまったような、味気ないうつろさがちらっと顔をだしました。そのせいか、それともあいにく停電になって、めあての音が全部絶えたためか、戻りの杖はとかくつまずきがちで、どうにか大通りへは出たものの、寮からは離れているらしく、さっぱり見当がつきません。いくら耳をすましてもむだですし、撫でまわしてみても手は空間を泳ぐばかりで触れるものはありません。何もかもが、私だけを残して無限に遠ざかってしまったような感じです。
 こうなると足もとより心の方がよろよろと、みじめな歩行を続けていました。そのときです。とつぜんすばらしい声でカナリヤが囀りました。救いです。向こうにどこかの寮があるのです。
 「あそこまで行って誰かに道を教えて貰おう」
 私はほっとして肩で大きく息をしました。と、その目の前に、さんさんとあの光の浮遊があるのです。おそらくこれは不安のあいだは、見れども見えなかったのでありましょう。
 カナリヤがまた高音をはってくれました。これこそ虹の架け橋です。私はかるがると杖をもちなおし、別人の足どりで金の砂子を揺りながら、その架け橋を渡って行きました。

1962年(昭和37年)



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肉ジャガ


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熱した無水鍋にバターを入れ、タマネギを入れ、ニンジンとジャガイモを入れ、シイタケを入れ、15秒湯通しした豚肉100gを置き、生姜1片をすりおろし、ニンニク1片の薄切りを置き、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



味噌汁

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乱切りしたサツマイモとシイタケを鍋に入れ、水とだしの素を入れ、煮立ったら弱火にしてダイコンとニンジンの千切り、ピーマンを入れ、再度煮立ったら極弱火にして15分煮て味噌を溶き入れ、ざく切りしたシュンギクをふって出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし


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久米南町で会いましょう


17日の日曜日に続いて、25日の今日も久米南町へ行った。

家から1時間余りかかるが、たまには遠出、ドライブ、気分転換くらいに思っている。

しかしこうなったのは、Sさんの「もう一押し」があったからである。

この一押しがあるかないかの違いは、人生をふりかえってみたとき、大きなきっかけができるか否かの違いにつながる。



17日の空き家探しが、うまく進捗しなかったので、この地区はSさんには「縁がなかったなあ」と帰りの車の中で思った。

その晩、Sさんにその旨を電話すると、「その地区に入られた先人の話だけでも、誰かお話を聞かせてほしい」と言われ、この言葉をもらったので、もう一度電話をしてお願いし、今日の出会いの運びとなった。



今日は午後から3人の方との出会いの場を友人がお膳立てしてくれていた。

1人は友人の息子さん(ブドウ専業)

2人目は大阪から当地に来られて6年ほどの40代後半の方(野菜専門)

3人目は岡山市内から当地に来られて10年ほどになる50歳前後の方(ブドウ専業)


Sさんがどういう選択をされるのかわからないが、いい出会いだったと思う。



ぼくの農業は3人の方の足元にも及ばない。百聞は一見に如かずで、ぼくの後継者募集のブログを見て9月に訪ねて来られたSさんだから、2人目の野菜圃場を見ただけで一目瞭然であったろう。


他人の田んぼを見せてもらうと、売上金額を含め、いろんなことが目に飛び込んでくる。それは農業経験のない人にも一目瞭然なのである。


ただ、それを真似ることができるかどうかが、最大のポイントになる。


Sさんがどんなイメージや印象を受けたのか、ぼくにはわからないが、自分にはこの3人のような農業はとてもじゃないができない。そんな能力は自分のどこを探してもない。これは自分を卑下して言っているのではない。単に土俵の違いだと思いたい。


ぼくもベストをつくした「つもり」だが、


農業技術の向上、売上、顧客に関する自分の土俵はあまりに小さかった。



いっしょに話を聞かせてもらいながら、3人目の方の能力に、底知れぬものを感じた。

30年農業をしているので、ブドウ以外の作物の人でも、そういう人を何人か見てきた。

かれらは非農家出身で30代の頃に第二の人生として農業を選択した。その人たちがスタート時点で10年後をイメージしたのかどうか知らないが、「人は10年、家は20年、国は30年」という言葉が示すような大きな変身を農業の現場で実現されている。

30年1日のごときぼくの農業とはまるで違う。


Sさんが今日出会った人たちにどういうご縁を感じ、この地での農業にどういうイメージや印象を持たれたかわからないが、


来春にはまた、久米南町で会いましょう。



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今日のクイーン(再3)  37

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植草一秀の『知られざる真実』

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (10)

 
福音


 「このたび大阪府のご斡旋によりまして、かつらを作っていただけることになりました。まだ確かなひにちはわかりませんが、そのうちに美容師がみえてくわしい事を教えてくださるそうです。それでご希望のかたは・・・」
 園内マイクから流れでる言葉に、私は驚きの耳を立てていた。変ったものである。嬉しい時代になったものである。今はお洒落用の鬘が色々あって、ふいに外出する場合これを用いると、たちまち好みの美髪になるということは聞いて知ってはいたのだが、私は愚かにも、この事実を瀬戸の小島に直結させて考えたことはなかったのである。
 むろんここにもお洒落の物を望む人達はいるであろう。が、しかし、それとは比較にならぬほど、痛切に毛髪を恋う多くの人々もいるはずである。せっかく菌マイナスになっても、脱毛の後遺症はなんともいたしかたがないからである。したがって、「髪がほしい!」との切なる願いは決して女ばかりのものではないのだ。
 「俺が帰省した時はとてもむし暑くてな、車内で帽子をかむっているのは俺のほかに誰ひとりいなかったぜ。だが俺は禿を丸出しすることもできず、長いあいだ暑いのをじっと我慢していたんだが、そのうちに頭がカッカとしてきてな・・・。下車するときには酔いどれのようにふらふらして、足が地につかなかったぜ」
 これは男性から聞いた話の一例だが、これに類した嘆きは男の側にも数かぎりなくあるのである。
 かつて、といってもだいぶ昔のことだが、私の部屋に六十二、三の老婆が収容されて入ってきた。この人は、部屋の者に初対面の挨拶をするときでも姉さん冠りを取らなかったのである。が、みんな心得たもので、痛いところはけっして触れようとはしなかったのである。こうして問わず語らず、数年が過ぎた。その間三日に一度ぐらいの割合でつむりの手拭は取りかえられたが、真夜中にでもするのであろうか、部屋人の留守の間にこっそりやるのか、取りかえるところを誰一人見た者はなかったのである。そのうちお婆ちゃんの手はしだいに曲がり、麻痺はいよいよ深くなってしまったのである。
 このお婆ちゃんがある日、頭が痛いといって用達先からよろよろと帰ってきた。あわてて敷いてあげた床にもぐり込んだが、だいぶ熱があるらしく布団が小刻みに慄えている。病者にはありがちなことだが、しかしお婆ちゃんの場合はなんとなく変なのである。そのころ晴眼だった私は、医局に走った。さいわい先生はすぐに来てくださったのである。その前で恐縮しているお婆ちゃんのつむりには、あの姉さん冠りがいつものようにしがみついていた。
 「手足に傷は無し、内臓にも異常はないし、どこからの熱かな・・・。ともかく薬をあげるからね、それを服んでも治らなかったらまた来てください」
 先生はこう言って帰って行かれた。
 そのあとで部屋の者たちは言い合わせたように、頭をかかえて涙ぐんでいるお婆ちゃんの側に寄ったのである。もしやそこに、たちの悪いおできでも出来ているのじゃあるまいか━━、と懸念したからである。
 「お婆ちゃん、みんな同じ病気やないか。かまうかいな・・・、一度頭を見せてごらん」
 総がかりでなだめすかして、どうにかお婆ちゃんを納得させるまでには、かなりの時間がかかってしまった。
 お婆ちゃんがうなずくのを見ると。すぐ一人はうしろへまわった。御意の変わらぬうちである。この友は、姉さん冠りの端が止めてある針をてばやく抜こうとしたのだ。が、急に顔をこわばらせて、
 「抜けんわ!」
 っとうわずった声を出したのである。お婆ちゃんは耐えかねたようにうめく。私は再び医局へ走った。こんどは外科である。
 結果は、お婆ちゃんは手がめっきり悪くなったので、持ちやすい極太の針をつかっていたのだが、その大きな夜具とじ針で、手拭を頭にずぶりと深く縫い付けていたのであった。しかもそれは数日前のことなので、化膿しかけたために激しい頭痛と悪寒におそわれたのである。私はぞっとした。言いようのない恐れが身うちを駈けた。他人事ではないのである。
 「ここまで、頭も手も・・・しびれてしまうもんかいなあ・・・」
 お婆ちゃんはおろおろとして泣いた。長い年月衆目から守りつづけてきたつむりを、もはや隠すてだては無くなってしまったのである。深い嘆きは怒りにも似て、お婆ちゃんは青ざめたままその日一日誰とも口をきかなかった。
 しかしこの人は、さすがに老い人であった。だてに齢をとってはいなかった。日を経て諦めがつくと、とたんにさっぱりして、
 「よいとよんやまか・・・どっこいさの・・・せ・・・」
 などと威勢よく、電灯にてらてら頭をかがやかせながら、大きな輪の中で盆踊りを始めるほどになった。
 精巧な鬘を作ってくださるというこの放送が、もしも墓石の下まで通ったら、お婆ちゃんはどんな顔をするだろう。垂涎三尺、なんとも羨望にたえない眼を上げるであろうか。苦楽一如と悟入した顔をそむけて、ただふわふわと、煙草のけむりを輪に吹いているであろうか。それはともかく、若ければ若いほどこの放送は福音である。
 誰もがみな、艶やかな匂う黒髪となったら、今年許されている観光旅行はさだめし賑やかなことであろう。晴れやかに空を仰ぐ友らの顔を浮かべると、こちらの心も温かい。
 「おばさん、あしたあんたの番やぜ・・・都合はどうや・・・」
 マイクの前を去りもやらず、ぼんやりしている私の背後でパーマ主任の声がした。私は承知のむねを答えたのである。
 パーマをかける。わたしが・・・。だがこれは美容のためではない、といえば私も女である以上嘘になるかもしれない。しかし九分九厘までは、盲目のうえに指さえ失った者のせっぱ詰まった生活手段である。そこで髪はできるだけ短く切り、できるだけ縮ませて貰うことになる。こうすればおくれ毛が顔に散らないし、だいいち我が手でなんとかときつけることが出来るのである。隣の友の口ぐせを借りれば、おない年(我が身のこと)を使うほど気楽なことはないのだ。ところが、このような髪かたちの者を、陰ではお釈迦さまというそうな。けれど私は思う。結構なことだと。
 数十年も病み古る私だが、さいわいなことに今日まで髪については少しも苦労をしなかったのである。今もって毛髪だけは健在なのである。人並なのである。この歓びは大きい。これあるがために、お釈迦さまでも羅漢でも私は嬉々としてこの名をうけとめる。



藤本トシさんは1901年生れで、1987年6月2日に亡くなられ、87才まで生きられたが、その翌年の1988年5月9日に開通した「邑久長島大橋」を見ることはできなかった。



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シイタケ、ピーマン、卵の煮物


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鍋にシイタケを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、少し水を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、ピーマンを入れ8分ほど煮て、卵を入れ5分ほど煮て出来上がり。



塩サバ

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ハーブティ


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左からアップルミント、レモンバーベナで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。


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今日のクイーン(再3)  36

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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