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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

国民は、そのレベルにふさわしい首相しか持てない


兵庫県宝塚市の正規職員採用試験に、この国の深い闇を感じた。

全国から1816人が応募して合格者は4人・・・。



フランスでは黄色いベスト運動が、香港でも学生が立ちあがっているが、日本は物静かである。



英語の大学入試改革が問題になっているが、どこの大学へ入ってもいっしょ。入ってから勉強する学生など少数だから。

それよりも出る時に「卒業試験」として全国の大学の共通試験として課した方がよい。

卒業する時の共通試験があったら、どこの大学へ入っても、あまり変わらないし、大学で何をしたかが問われる。




3台風の農水被害、3630億円

この秋に東日本を襲った台風15号や19号、21号の接近に伴う大雨による農林水産関係の被害額が、18日までの農林水産省の集計で約3630億円となり、昨年の西日本豪雨(3409億円)を超えた。都道府県から同省への報告は依然積み上がっており、さらに膨らむ見通しだ。農水省によると、自然災害に伴う農林水産関係の被害は記録が残る1964年以降では、2011年の東日本大震災(2兆3840億円)が最多。

自然災害は第一次産業が最も大きな影響を受ける。

農業者は、ぼくもそうだが「塀の中の懲りない面々」ではいけない。いい加減に懲りないと!

台風を計算に入れて、作付品目や作付量、作付の日時、作付の仕方を考える。




「桜を見る会」はネットでは騒がれているが、新聞では、それほどでもない。

「桜を見る会」も乗り越えて政権が続くようなら・・・愕然としてしまう。



「澤藤統一郎の憲法日記」にも書かれていたが、

「国民は、そのレベルにふさわしい政治しか持てない」とも「政治は国民を映す鏡」ともいう。「国民は、そのレベルにふさわしい首相しか持てない」とも「首相の品性は国民を映す鏡」と言い直してもよいだろう。安倍政治の継続は、結局国民の「この程度のレベル」を映し出しているものと言うしかない。残念だが、そのとおりで仕方がない。



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今日のクイーン(再3)  32

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ちきゅう座

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (5)




 今年もコスモスの季節になった。空はどんなに美しいであろう。深々と澄んだ蒼さを思い浮かべていると、そのなかで・・・あの可憐な花が揺らぐ。コスモスは洒落た洋館の庭にあってもいい。炊煙のなびく藁屋の背戸でも調和する。山村の駅のほとりに、ひっそりと寄りそって咲いていた一叢の薄くれないの花を私は今でも忘れない。

 コスモス。私はこの花がもとから好きではあったが、とりわけ二、三年まえから心をひかれるようになってきた。これには理由がある。
 私の眼が明らかだった時のことである。ある夜四、五人の友と雑談を交していると、そのうちに玉枝というまだ新患の娘が自分の過去を話し始めた。
 彼女は中流の家庭に育ったらしい。しかし病気になると物置が少し改造されて、そこが彼女の住居になった。そのうえ戸外に出ることを一切禁じられてしまったのである。若いみそらで、明けても暮れてもがらくたと同居である。窓さえめったに開けられない薄暗い小屋での生活は、気が狂うほど侘しかったという。
 この辛さに耐えかねたある日、彼女は世間がまだ寝しずまっている夜明け前に、窓からそっと抜け出した。むろんはだしである。さいわい町はずれだったので、草原でも土手でも歩くところは広々としていたらしい。そこで思いきり外気を吸って、東天がやや白みそめると、幽霊のように慌てて墓所へ帰った。
 墓所、彼女は自分の住居をそういうのである。この秘密は誰にも漏れなかった。味をしめた彼女は、それから毎日お天気でさえあればこの冒険をやったのである。
「ほんまに、あのときの星空の美しかったこと。残り月の清らかだったこと。野川の音や穂草のそよぎまでが全く絵のようでな、この世のものとは思われんほどやった」。彼女はこう術懐した。

 ある朝、例のごとく暁光に追われて急いで野路を帰っていく途中、土橋の上まで来ると、一茎のコスモスがしっとりと露にぬれて落ちていた。誰が落としたのであろう・・・などと考えているひまはない。彼女はそれを奪うように拾うと駈けだした。
 がらくたの中から小瓶を探し出すと、彼女は洗面の水を節約してそこへ入れた。それにコスモスを挿したのである。墓所の中のたった一つの彩り。彼女はそれを、とみこうみして飽くことを知らなかった。が、油断はできないのである。家人に見られたら外出したことがばれてしまう。それこそ一大事である。彼女は恟々として、かすかな跫音でもすばやくそれを押入れに隠した。
 はかない楽しみである。それも長く続く筈はないのである。数日後、花はとうとう彼女の膝で散ってしまった。
「家の人に内証やから、その花屑を捨てるのに困ったやろう」
 誰かが聞いた。彼女の答はこうであった。
「いいや、花はなんにも捨てやせん」
「じゃーどうしたんや・・・」
「わて・・・何もかも食べてしもうたもん」
「まあー」
 友だちはどっと笑った。実は私も奇異に感じたのである。発病後のくらしが、私のほうがやや幸福だったのか、それとも、更に深い苦悩の日々であったのか、ともかく少しずれがあってその気持が呑み込めなかったのである。
 ・・・・・・
 その後私には失明という打撃があった。手足の感覚がないので、口で物を確かめるより仕方がなくなったのである。初めのうちは唇が大方その役を引受けてくれていたのだが、しだいにおぼつかなくなってきて、近年では舌がそれに代わるようになった。来る日も来る日も、生活する為の物に、舌はまず体当たりして、それを私に教えてくれるのである。あるとき私はマーガレットの花を貰った。へやの飾りとしてのものには、遠慮なのであまり触れないが、自分のものとなると、専用の花筒に入れて心おどらす私なのである。このときも、一日にいくど探りにいったことか。二、三日たっての朝、私は顔を洗うとすぐ、マーガレットにキスの挨拶にでかけた。終えてから静かに筒を置こうとすると、舌先に花びらが残っていた。散る時が来たのであろう。私はそう思いながら、しごく自然にその花びらを食べてしまった。そしてやっと思い当たったのである。あのときの、若い友の言葉が━━。
 病苦と、孤独に苛まれていた乙女の心は、拾った瞬間から、コスモスと一体になってしまったのである。芯を食べようと花びらを食べようと、それはあたりまえだったのだ。一体なのを具象化しただけなのだからである。私は晴ればれとした。
 私の肩をそって撫でて、朝闌の風が過ぎた。甘藷が焼けているのであろう。隣室から秋の匂いがもれてくる。

1963年(昭和38年)
 


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野菜とサケの蒸し煮


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無水鍋の下敷きにタマネギを入れ、乱切りしたダイコンとニンジンを入れ、カブ、ナス、ピーマンを入れ、シイタケを置き、15秒湯通ししたサケを置き、生姜1片をすりおろし、みりんと酒を入れ、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。



ブロッコリー


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マヨネーズで。


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同じものを、繰り返し食べる

 
味噌汁は毎日食べても、あまり飽きない。


それなら他のおかずも一緒だろう。


今、作る頻度が多いのは、ダイコンおろし、ニンジンおろし、シュンギクの卵とじ等だが、これらも飽きない。


毎日、とっかえひっかえした料理を作るのは、誰でも苦痛になる。


新鮮な、旬の野菜は、毎日食べても飽きない。


美味しいと思わないのは、そういうものを食べていないから。


日本人の8割以上の人が口にできていないと思う。


旬の野菜であること

新鮮であること

安全であること

「栄養素」など、上記に比べたらウエートは小さい。


同じものを繰り返し食べれないのは、本物の野菜を食べたことがないから・・・。


なお、毎日は飽きるかもしれないが、3日に1回くらいだったら、その繰り返しになっても飽きがこない。


ただ、そういう野菜はあまり市販されていないので、自分で作ろうとするしかない。


「作れない」と大多数の人が思うなら、

環境も

食糧問題も

食の安全性も

地球温暖化も

昆虫や鳥の生態系も

風景も

とどまることのない劣化しかないだろう




誰かがしてくれるだろう・・・と

他の誰かも同じように考える・・・

いきつくところまでいって

落ちていくところまで落ちて

そうなってはじめて、目がむけられるのか



日々のきびしい現実があって、そんなことにいちいち構っておれない。

食べものなんかに!




人によっては、ぼくの料理はまずいと思えるかもしれません。


でも、自分には、とてもおいしい。


外食は味が濃いし、高くつくし、いちいち目的地まで出かける必要があるし、そのために時間もかかってしまう。




もう少し、料理のレシピ数を多くしたいが、そのレシピを作るために、市販の何かを買う必要があるなら、そのレシピは何回もは作れない。


買うのは、調味料類、肉や魚くらいにとどめておきたい。



一昔前、定年帰農という言葉がはやったが、世の中がせちがらくなって、

そういう風潮も今はあまり感じない。



毎日アップしているブログで、気付いてくれるだろうか


料理とは2~3日周期で「同じものを繰り返し食べることだと」


それが食べたくないのは


旬の野菜でないから


鮮度がよくないから


どこで


誰が


どのようにして作ったか


顔が見えないから




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今日のクイーン(再3)  31

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郷原信郎が斬る

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (4)

 
アカシヤの土堤


 私はその日も土堤の小草に腰をおろして、満々と水をたたえた、ま下の堀をみつめていました。生家への根強い愛着が、なんとかしてここを出ようと私をあせらせていたのです。この園の前身外島保養院へ入院後まのない頃のことでした。ところで脱けでるには寮を囲むこの堀を越えてゆかねばなりません。私の当惑は泳げぬことにあったのです。どうして渡ろう・・・。とまたもや同じ思いを繰返していた時、
 「ねーさん、なにしとる」といかにも鈍重な声が私の背にのしかかってきました。驚いてふりむく眼に子供のように小さい老人が笑いを浮かべているのです。私は心を見すかされたような気がして、黙ったままそこを離れてしまいました。その日初めて土堤の果てまでいったのです。鉄条網のかたわらにアカシヤの花が咲いていました。殆ど雑草さえない堤ですのに、これはまたおもいもかけぬ喜びでした。それからというものは私が考えをめぐらす場所は、言うまでもなくこの木のもとに移ったのです。そしていつかの妙な老人、いいえ病気のためにそうみえたのでまだそれほどの年ではなかった三ちゃんとも、いつのまにか仲良しになっていました。彼も淋しい新患だったのです。知能が常人より低いこのひとは、私の行動に疑惑の目を向けないいたって気安い友でした。並んで彼のちぐはぐな話を聞いている私の膝に、彼の肩に、柔らかいアカシヤの葉がゆれて、風のまにまに白い花がほろほろと散ってきました。よそめには平穏そのものに見えたでしょう。
 「あの・・・お京ねえも土堤へよく来るなあ」
 ある日三ちゃんがこう言いながら十間ほど先にいる人を指さしました。私もそれに気付いていたのです。瞬間、吉也(弥)に結んだ水玉の帯がかしいで白い顔がちらっと向きました。三ちゃんの遠慮のない大声が聞こえたのかもしれません。どぎまぎして会釈する私に張りのある声が「こんにちわ」と答えました。
 その翌々日、私は憑かれたもののように夜の堤を歩いていました。昼、田舟がつないであるのを見たのです。帰りたい一途、私はあたりに気を配りながら堀へと下りてゆきました。やがてへたへたと坐りこんだ私、探しても探しても舟はありませんでした。立ちあがる気力もない肩先を雨を孕んだ生あたたかい風がさあっと吹いてゆきました。その時ふと人の気配を感じたのです。息をこらす私の前方へ誰かが下りて来たのです。ぽちゃん・・・水の音が夜気に沁みました。続いてまた・・・。その人は少しずつ間をおいて何かを掘へ投げこんでいるのです。
 雨が降り出してきました。そのなかを不審の目をみはりつつ、すばやく歩いている私。前の人が戻りはじめたのです、走るように━━。遠い街灯の光に辛うじて認め得た姿、それはお京さんだったのです。
 四、五日後、私は夾竹桃が影をうつす池のほとりでお京さんと話していました。
 「あなたはこの頃ちっとも土堤へ来ないのね」
 「もうその必要がないのや」とお京さんが答えました。
 「どうして・・・」
 「わて・・・実は逃走しようと思うてな、その場所を探していたのや。母が急病と聞いた日から・・・。けどその心配は解消してしもうた。あぶない橋渡らんでほんまによかったわ」。いかにも明るい彼女の微笑でした。よい折、私はおもいきって先夜のことを聞いてみました。
 「えっ、あの時見てたのあなたやったの・・・なら驚くのやなかった。でもあんな時分、あすこにいやはったとすると・・・あんたもやっぱりお仲間やな。つねからどうも臭いと思うた」。大笑いするお京さんにつられて私の口も心も軽くなってきました。
 「水に何を捨てたの、幾度も」
 「捨てたのやない、測量や」
 「測量・・・」
 「経験者のおつたさんに一番浅いところ教えられたけど、どのくらいかわからへんよって計ったのや」
 「まあ、丸橋忠弥ね。それで石を投げただけでわかった」
 「あほらしい。伊豆守が声も出せずに慄えていた堀端やないか。そんな気のきいた丸橋かいな。瓦のかけらを炭俵の縄で結わえて、それをほうっては濡れ具合をみてたのや」。こうして次の日、密かに出るしたくをしていた時思いがけぬ面会。病後のやつれが残る母親だったのだそうです。私はその夜眠れませんでした。話の末に、
 「脱出するなんて、わてもあんたも真剣に家を愛しておらんのや」と言われたお京さんの言葉が、胸に刺さってうずくのです。覚めかけた内奥の心が嘆きに徹しよう・・・とおずおず囁きはじめるのです。海に向った庭隅で地虫がしきりに鳴いていました。
 幾日かの後、久しぶりに行ってみた土堤。私は出ることを断念していました。にもかかわらずぼらが跳ねて涼しい水輪を描いた時、いつしかそこへ下りはじめていました。「一番浅い所」のあたりだったからです。しみじみと眺めているうち、少しばかりの蘆の根にからんでいる縄の端を見つけました。私は水に手を入れて引き上げてみました。捨ててきたと言ったお京さんの測量機だったのです。縄のところどころを布で結んで目盛りがしてありました。
 「ねーさん、それなんや」。計ってみたい衝動にかられて、さっと瓦を水中に投げ入れた刹那でした。この声を聞いたのです。びっくりした手から縄の端が飛んで堀へ沈んでいきました。
 「それなんや」。再び土堤からの声、三ちゃんなのでした。澄んだ空にほのぼのと夕月が浮かんでいました。安堵の息を深く吐く頭上に、伊豆守がみたびの声を張りました。
 「アカシヤの花、みんな散ってしもうたぞ」


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シュンギクの卵とじ


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鍋にメンツユを入れ、水で3倍に薄め、砂糖を少し入れ、煮立ったらざく切りしたシュンギクを入れ、溶き卵1個を入れ、弱火で4分ほど煮て出来上がり。



味噌汁


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乱切りしたサツマイモを鍋に入れ、シイタケを入れ、水と削り節を入れ、煮立ったら、千切りしたダイコンとニンジン、タマネギ、ナス、ピーマン、インゲンを入れ、再度煮立ったら極弱火にして15分煮て出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし


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ダイコンおろしの苦みをニンジンおろしがやわらげる。

ダイコンおろしはかなり目減りするが、ニンジンおろしの目減りは少ない。つまりダイコンは水分が多い。



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あきらめなければ、近いうちに次が見つかる


岡山県へ移住して農業をしたい人


岡山県の人で、農業後継者を探している人


岡山県に空き家があり、賃貸してもいい人



この三者を何とかうまくつなげれないか・・・



昨日は空き家の件でまた久米南町へ行ったが、すぐに住めるような状況ではなかった。



農業希望者が空き家の賃貸物件を探す時に、賃貸料3万円というのは「ぎりぎりの数字」のように思う。


仮に3万円とすると、年間の支払いは36万円になり、農業収入からの支出は簡単ではない。他に社会保険料等の支払いもあるから。


3万円以下の物件は少ないようだが、あきらめずに探し続けた方がいい。



農業後継者を探している人も、さほど多くないのかも知れない。農業仲間に「農業後継者を希望しないのか」と何人かに尋ねても、あまり乗り気でない。

ぼくより技術力も高いし、売上もかなり多いにもかかわらず。

本人が農業ができなくなったら、そのまま放置してしまうつもりだろうか。



ぼくはたいした技術もないのに、「30年の農業経験を無駄にしたくない」という気持ちだけで、農業後継者募集を62才の頃から始めた。もう4年ほどになる。



メールのやりとりや、1回の来訪で、相手の熱意が伝わって来る。


今回はじめて、本気で農業をしようと思っている2人の方と出会った。



しかし、いい空き家を提示できなかった。それでもその人は本気で行政や他の農業者にもあたっておられたので、30年余り前に都会から久米南町へ移住してきた農業仲間に声かけし、地区の区長さんにも相談にのってもらい、昨日その空き家を見に行った。


その地区は近年、何人もの都会からの移住者がおられるが、要は「タイミング」がポイントのようだった。


でも、あきらめなければ、必ず近いうちに次が見つかる。


空き家も、その地域の新たな農業者に出会うことも、農業をしようと「あきらめなければ」不思議と出会えるものである。


どこの地域に移住し、どういう農業者に出会っても、当人にとって結果的によかったか、よくなかったか・・・それはわからない。


結局、ご縁があった場所と人が「現実」というものかも知れない。





もう1人の方が来られることになり、車で10分弱の場所から田んぼに通ってもらう。


その借家はぼくではなく、来られる人がネットで探した物件である。


田んぼに行く道沿いに30アールほどの田んぼが借りれたので、そこでスタートして頂く。


ゆくゆくは当方の40アールほどの田んぼもしてもらおうと思う。





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今日のクイーン(再3)  30

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植草一秀の『知られざる真実』

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (3)


盲友


この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です。
あたしが書いたもので残っているのは、ほとんど全部といっていいくらい、目を失ってからのものでしょ・・・(藤本トシ「地面の底が抜けたんです」より抜粋)
所要時間6~7分です。


 蜘蛛の糸の主人公カンダタのような悪人でも、生涯のうちには蜘蛛をふみ殺さずにおいてやったかすかな善事があるように、思い出は、たいてい湿っぽい陰をもつ私にも、たった一つ、かみしめればすがしい香のたつ過去がある。
 かつて私の友に、といっても年は九ツもうえなのだが、本川さんという盲女がいた。この友は手足もたいへん不自由だったので、お風呂いがいの外出は殆どしなかったのである。病みほうけて一見みるかげもないこの人に、私は初めて会ったときから心をひかれた。
 それは、
 「あれ新患や」
 と言われることが、私にはまだ侘しくてならなかった頃のこと、ぼんやり戸口にたたずんでいると唄が聞こえてきた。向かい寮からである。
  ゆうぐれに
  ながめ見あかぬすみだがわ
  つきに風情はまっちやま
  帆あげた舟がみゆるぞえ
  あれ とりが鳴くとりの名も
  みやこに名所があるわいな
 美声。しかも心にしみる唄いぶり。私は思わず声の方へ歩み寄った。これが本川さんだったのである。
 縁とはふしぎなもので、それからまもなく、私はこの人の手紙の代筆をするようになっていた。つづいて縫いはり洗濯にまで及んでいったのである。こうして十一年の日が流れた。(外島時代からの通算である。)
 昭和十九年の冬、本川さんは風邪をこじらせて部屋から病室へ移った。しかし、じきに戻れると思っていたのに、病状はおもいに反して、半月ほどのうちにめっきり衰弱してしまったのである。なにしろひどい食糧不足だったので、ろくに食べていなかったせいもあろう。
 ある朝、みまいにゆくと、当惑げな付添いの顔が待っていて、私を廊下へ手まねいた。
 「本川さんはなあ、熱いお湯がほしいと言うから飲ませてあげると、
 これぬるいわ・・・、と言うんよ。こっちがびくびくするほど煮えたったのをあげても、やっぱりぬるいって言うんよ」
 このささやきを聞いたとき、私は、はっとむねをつかれた。舌も咽喉も麻痺したのである。
 多くの病友の死をみつめてきた私の眼は、ほそい寝息のなかに、この友にもついにきた生のかぎりの翳をみた。その夜、先生からも付添いに注意があったそうである。
 翌日たずねると本川さんはいきなりこう言った。
 「私、死ぬんやろかー」
 「そうや・・・。極楽へゆけるのよ」
 ちゅうちょなく答える私の背を付添がこづいた。このようなばあい、心とくちと正反対に言うのが常識である。私もしばしばこれをやった。だが本川さんにはその必要はないと思ったのである。この人の心は決定けつじょう
していると、つねづね思っていたからである。なんにもお祀りしていない自分の押入れのまえに坐って、朝夕合掌しているだけだが、その姿にはしんけんさがあふれていた。
 「ありがとう。じゃ今日から準備するわ」
 と言った友の言葉は、低かったがはっきりしていた。
しかし・・・準備とはなに・・・。心のか、物質面のことか、私はそれをはかりかねた。そのまま日は二、三日流れたのである。
 三日目の夜、空襲警報が出ないうちにと病室へ走って行ったが、その戻りのこと、
 「本川さんな、こんどは今日からねまきを朝晩かえてくれって頼むんよ。そんなに汚さんのになあ」
 洗濯ものを私の手にわたしながら付添いがこう言ったのである。このときサッと謎がとけた。本川さんはたとえ洗いざらしでも、さっぱりした身なりで臨終を迎えようとしているのであった。
 つぎの日、私はびっくりしてしまった。本川さんが小唄を唄うと言うのである。あんたが何時もほめてくれたから今日は聞かせると言うのである。やがて唇がうごきはじめた。
  うめ に も は・・・・・る の
  い ろ そ え て 
  わか み・・・・・ず・・・・・
 聞きとれたのはここまでであった。だが声にはならずとも、唇は最後まで唄のづづきの動きを見せていたのである。風雲急となってからは一回も唄わなかったその唇が・・・。
 唄い終わったとき私は拍手を送った。付添いもいつかきていて手を打っていてくれた。その夜更け、友は従容として逝ったのである。
・・・・・・・・・
 じぶんも盲目となって今しみじみ思えば、しっとりと・・・そして爽やかにむねにしみた小唄、「ゆうぐれ」のあの余韻は、そのころは生地獄のようだった癩盲の苦を、超え得たものの凱歌のひびきであったのだ。
 「梅にも春」は、わが手で拓いたその道を、みごと歩みおおせた者が、いのち終わる日、我れと我が身に贈ったことほぎ唄であったのか。すべてのものに告げる別れも、そのこころの奥にひそめて・・・。
 ともかく、私の知るかぎりでは愚痴を言わなかった人。あの透明な笑いが、ときおり耳によみがえる。

1969年(昭和44年)


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サトイモの煮物


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乱切りしたサトイモを鍋に入れ、シイタケを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、水をひたひたに入れ、削り節を入れ、煮立ったら極弱火にして20分煮て出来上がり。



ピーマンと魚ソーセージ炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ピーマンの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



カブの甘酢漬け

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カブはイチョウ切りしてボールに入れ、塩をふってもみ、1時間以上置いて、カブがしんなりしたら、水気をしぼりながら瓶に入れる。

甘酢(出し汁180CC、酢120CCに砂糖50gを溶かす)を注ぎ、生姜1片をすりおろして出来上がり。一昼夜経過すれば食べれる。

出し汁作りは、200CCの水を沸騰させて火を消し、削り節を入れ、15分ほど置き、茶こしで出し殻を濾して出来上がり。



塩サバ

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ブロッコリー

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茎の太い部分は薄切りして、沸騰したら入れ、30秒後に花房の部分を入れ、1分半ほど茹で、湯切りして出来上がり。


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四畳半一間の孤独



 今日の朝日新聞のトップニュースは「都会の孤独死」だった。


20代の頃の、都会の四畳半一間暮らしは、その後の人生の血肉になるかも知れないが、60代以降になってからの都会の四畳半一間暮らしはさびしい。


田舎なら、土もあるし、田んぼや山や川や、自然の中の小動物を目にして、一人暮らしでも、都会ほどには孤独に陥ることは少ないだろう。


人がいっぱいいる中での孤独は、人があまりいない中での孤独より、こたえる。



多くの人の、目には見えない、支えがあって、今の自分をキープできている。


今現在が成り立っているのは、結局のところ、有形、無形の支えが他の人より多かったからで、自分の能力や努力など知れている。



誰でも、現在の境遇から脱出することは、本当に難しいが、逃げ場としての「田舎」との接点を、探すことはできないだろうか。


戦時中、「疎開」という現実もあった。


近未来、「食糧難」という現実も考えられる。


どこで生きるにしても現実は、苦しいことが多いが、目にすることが出来る山や池や川などの自然があれば、大地の少ない都会の4畳半一間(タワーマンション)の孤独とは違うだろう。



支えてくれる人の多い、少ない

何かのきっかけの有る無し

たまたまという状況

機会がめぐってきた時、うまく飛び乗れるかどうか、その時のタイミング、迷いや決断

運  不運

自分の性格

いろんなことが絡み合って、現在ができているが、

未来のことは、

誰かが背中を押してくれる・・・

ことは少なく、

自分で自分を鼓舞するしかない



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今日のクイーン(再3)  29

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在野のアナリスト

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (2)


足あと


短い文章なのに、藤本さんの作品はなぜこんなに感動をよぶのだろう。


 「めくらさんにはね、とくべつに神様がついていてくださるのだよ。そして教えてくださるから独りでもなんでも上手にできるのさ」
 私は今でもこの言葉を忘れない。私は末子なので小学校へ入るころになると、母は年のせいかよく肩をこらした。そして按摩さんを頼みにゆくのは私の役になっていた。その按摩さんがである。今のように車のはんらんはなかったにもせよ、他のさまざまな乗物と、ひと通りの多い街をたった一人で二度も角を曲がって、まちがいなく私の家に来るのである。それがいかにも不思議であった。おさない脳裡には、めくら鬼にされた時たいていは困って泣く自分の姿が浮かんでいた。
 不思議はまだあった。ながい療治がすむと母はきまって茶菓を、時間によっては食事をだした。按摩さんはそれを実にきれいに食べるのである。骨っぽい小魚、貝、汁、豆などの難物さえ手ぎわよくさばいて少しもこぼさない。すむとお行儀よく一礼して座をはなれ、母から渡されたお金を指先で確かめると更に一礼して静かに帰って行くのである。
 先の言葉は唖然としてその姿を見おくる私に、笑顔で母がささやいたものである。その時には、めくらにはめくらの神様がついててくださるかどうか、わが身で確かめる時が来ようなぞとは夢にも思わなかったのである。
 さて、盲目となって、見るかげもない手足になって、私は神様から何を教えられたのであろう。わからない、が・・・おぼろげながら受けとめられたのは、涙の底を掘り下げろ、ということである。ともしびは我が手で獲得するものだ、ということである。
 ともあれ、私はこの掘り下げ作業を始めるようになってから、よく春木のお婆ちゃんを思い出す。というより知らず知らずお手本にしているのかもしれない。この人の両手はてのひらさえ殆どなかった。足も同様で、ひざでいざって、いつも用事を足していた。眼こそ見えたがまことに不自由な日常だったのである。
 お婆ちゃんは八畳五人の部屋にいた。私はそこの付添いだったのである(外島時代のこと)。ある時お婆ちゃんは私に、
 「重箱の上になあ、長い箸を一本横にのせて、その上と下とに団子を一つずつ置いたような字はなんと読むのや」と問うた。
 「そんな字どこに書いてあるの」と聞くと、けさ来た手紙の中にあるというのである。しかし手紙は見せてくれなかった。何かわけがあるらしい。私はじーっと考えていたが、そのうちに、はたと思いあたったのである。いつか本にあったのを教えてあげた文字である。私は言った。
 「それは、母という字よ」
 「ああそうか・・・、それでようわかったわ」とお婆ちゃんはにこにこした。
 その後お婆ちゃんは感ずるところがあってか、少年寮から不要になった二、三年生の読本を借りると、猛勉強をはじめたのである。先生は私であった。教師は頼りないが、お婆ちゃんの熱意の成果はすばらしいもので、一年も経つと便りはおろか、ふりがなつきとはいえ大衆雑誌もどうにか読めるようになったのである。それからのお婆ちゃんは、いつも盲人たちに囲まれていた。娯楽の乏しかった時代なので、お婆ちゃんの読書はその人たちにとって真実大きな慰めだったのである。
 こうして、あの第一室戸台風の高潮に呑み込まれる日まで、お婆ちゃんは盲人たちの心に、そして、自分のたましいに火を点じつづけていたのである。
 今私の周囲には、盲友たちの実に美事な足あとがたくさんある。その最たるものは十一園のライ盲者が万難を排して手をつないだことである。全盲連を結成したことである。そこから生まれでる幾多の活動、その成果のひとつひとつが、谷底の者をうるおす水滴となっているのだ。重症の私はその恩恵をうけるばかりの不甲斐なさなのである。だが、全力をしぼって自他の心を日おもてに向けさせた、このお婆ちゃんの心意気だけは、私のものにしたいのだ。


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目玉焼き


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おかずが残っていたので、少し作った。



ニンジンおろしとダイコンおろし

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今日のクイーン(再3)  28

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週刊金曜日

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (1)




とても面白い、そして悲しい。藤本トシさんは明石海人さんと同じく1901年(明治34年)の生まれだが、言葉づかいや仮名づかいがわかりやすく、古さが感じられない。4~5分です。


 私は幽霊を見た、確かに━━と言ったら人々はどんな顔をするであろう。鼻先にうすら笑いを浮かべて、じろり一瞥するかも知れない。ばかばかしいと、そっぽを向いてしまうかも知れない。しかし世の中には、理外の理ということもあるそうである。ともあれ私は、今もって解決の出来ない一つの謎を持っているのだ。

 私はレプラの暗黒時代であった大昔に、十九歳で発病した。そして翌年父を、更に半年後母をも亡ってしまったのである。今でもありありと胸に焼き付いているのは、毎日愁いに沈む娘をかかえて、嫂と世間に気兼をしていた痛々しい母のおもかげである。その母がある夜病床に私を呼んで、
 「お前のためにね・・・もう少し生きていたいと思うけれど・・・、私は精も根もつきてしまった。でも・・・死んだらきっとお前を迎えに来るよ。つらかろうが辛抱しておくれ。いいかい・・・かならず今年中には来るからね・・・」と言った。
 それからの私は、どんなにその日を待っていたことであろう。だが秋が去り、冬も去り、春さえも行こうとしているのに、いっこう母からの訪れはないのである。私はすっかり待ちくたびれてしまった。
 どこへ行っても、新米のうちは思うようにならないのが常である。とすると、母は亡者の新米だから、まだ自分の心のままにはならないのかも知れない。それなら、こっちから出かけて行くより仕方がないではないか、と思った。そう考えるとこの世にはさらさら未練のない私である。さっそく家出の準備にとりかかったことはいうまでもない。
 六月も半ばを過ぎたある日、私は我が家から五十里程離れた小田原のある淋しい海岸に佇んでいた。どんより曇ったたそがれの渚には、破れ舟が朽ちるにまかせて置かれていた。私はその破れ舟の陰に身を忍ばせるようにして、夜になるのを待っていた。昨夜は大磯で刑事につかまって未遂に終わった私である。今夜こそ暗くなったらすぐ身を投じて一散に母のもとへ行こうと、思い定めていたのである。見渡すかぎり人影ひとつないのが私の心を安くしていた。ところが暫くすると、さく、さくさくと足音が聞こえてきたのである。ぎょっとして眼を上げると、右手の高い土手から老婆がひとり、ひょこひょこ歩いて来るのである。私は顔を見られないように、何気ない風をよそおいながら老婆とは反対の方へ、くるりと向きを変えてしまった。にもかかわらず足音は私をめがけてやって来て、
 「ねえさん・・・わしは向こうの茶店の婆だがよう、さっきから見ていると、あんた何か心配ごとがありそうだなあ」と声をかけた。
 こまった━━と声ならぬ声でさけんで、私は狼狽をおしかくしながら黙っていた。と、老婆はしきりに私を見上げ見下ろしていたが、曲がった指に気付いたらしく、
 「可哀想に・・・。でもあんたのような病気は身延山にお籠りして、一心に信心すると治るよ。四、五日前にも山に三年お籠りしたという人が、すっかり綺麗になってうれしそうに帰っていったよ。だからあんたもお山へ登って信心してごらん。そしたら治るよ。きっと治るとも。行ってみなさいなー、なー」
 繰返し繰返しこう言ってすすめる老婆の言葉は、まったく熱意そのものであった。その心情にほだされたといおうか、私は老婆の言葉を丸呑みにしたわけではないのだが、固い死への決意がぐらり揺らいだことは確かだ。俗にいう死神が離れたとは、こうした場合のことであろう。私は老婆に連れられて彼女の家に行った。少しばかり駄菓子やラムネを並べた、ちっぽけな店である。
 太った女の子がちょこなんと坐っていた。老婆はその子に店を仕舞うように命じてから、私に小声で聞いた。
 「あんた腹がへってるだろう。お山までは遠いからな、麦飯だがうまい蕗の佃煮や鮒っ子の焼いたのがあるから、たんと食べていきな」
 私はこの時初めて、一日中何も口にしていなかったことを思い出した。だが喉がからからに渇いているだけで、どういうものか空腹感はなかった。私は、
 「この先の町で食事はすまして来ました」
と嘘を言ったのである。
 やがて老婆は提灯をつけて裏口から出てきた。駅まで行ってくれるつもりである。暮れきった空は今にも降り出しそうな気配であった。老婆はうなだれた私を従えて黙々と歩いていく。提灯に照らし出された道幅は、一間ぐらいあったであろうか。とにかく両側には篠竹を交えた雑草が生い茂り、道ぞいに野川が流れているらしく水の音が聞こえていた。
 駅まで五丁はないと聞いたのに、初めての、それも田舎の道はひどく遠い感じがするものである。私は疲れ呆けて、まだか・・・と思いながら歩をとめた。とたんに愕然としたのである。小腰を屈めて歩いていた老婆が、すらりと高い母の姿になっている。私は眼をうたがった。そしてその姿を凝視した。だがいくら眺めても寸分たがわぬ母である。私は慄える足をふみしめて提灯に近づき、そこから母を覗きこんだ。しかし老婆以外の顔はない。私は自嘲しつつ、すごすごうしろへ戻っていった。と━━そこにはまた紛れもない母がいる。私はあわてて再び前へ廻って見た。うしろへ帰って見た。だがこのうろたえた動作は驚きを倍加さすばかりだったのである。それきり私は、疲れも時間の経過もすっかり忘れてしまったのだ。
 こうして、母かー老婆かー二体が渾然一体となった人に導かれて、午後九時十分、わたしは列車の客となったのである。


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味噌汁


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乱切りしたサツマイモを鍋に入れ、シイタケを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして3分ほど煮て、千切りしたダイコンとニンジンを入れ、ピーマン、ナス、インゲンを入れ、強火に戻し、再度煮立ったら極弱火にして15分ほど煮て、味噌を溶き入れて出来上がり。



シュンギクの卵とじ

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鍋にメンツユをいれ、水で3倍に薄め、煮立ったらざく切りしたシュンギクを入れ、溶き卵1個を入れ、弱火で4分ほど煮て出来上がり。



ブロッコリー


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茎の太い部分は薄切りする。沸騰したら先に薄切りした茎を入れ、30秒して花房の部分を入れ、2分ほど茹でて湯切りして出来上がり。

 


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意外とロック的


高校の頃、ビートルズに入れ込んでいた同級生がいて、言葉がわからないのに、どこがいいのだろうと思っていたが、今、クイーンを聞く時、言葉がわからないのが気にいっている。


つまり、言葉を意識せずに、リズムとか展開とか強弱とかだけで楽しめることがわかった。言葉がわからない方が癒される。


たまたま出会ったのがクイーンであり、「この他にも」と思ったりはしない。すなわち、クイーン以外はほとんど知らずに、この世を去っていくだろう。


いまだクイーンに飽きていない。


別にクイーンの曲を極めようとは思わない。


パソコンに組み込まれているスピーカーから出る音だから、音自体はそれほど良くないかも知れないが、いまのところ、これでいい。


たった3~5分のミュージックタイムだが、この異質な時間が、頭のリラックスになる。


こんなことに初めて気づいた。


やっぱり自分にはロックが向いている。


他のジャンルはちょっと・・・


クイーンは、繰り返している90曲以外にも、たくさんあるのだろうが、これくらいでいい。


クイーンは見ていて、とても日本的なグループに見える。態度や仕草が。


異国のグループのような気がしない。


ぼくの年齢とも近いので、同世代のような気がしている。


自分は意外とロック的?なのかもしれない。


ただ、クイーン以外のロックバンドはほとんど知らない(聴いたことがない)。


1日のうちで、3~5分でも「異質な時間」は大切だと痛切に感じる。


5つのブログ更新のうち、1つミュージックが入っているだけで、身体の芯からリラックスできる。



https://www.youtube.com/watch?v=heYsfUo9wNc



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今日のクイーン(再3)  27

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新・定年オジサンのつぶやき

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邑久光明園  藤本トシさん(4)




自殺未遂と言はるる己が影濃ゆし傷心に射す署の燈の明かさ




生にも死にも希み絶えたる身の置き処刑事が示せる小さき古椅子




冷たさが冷たしと思へる親しさよ雪にまみれて足らへる心




子を生さぬさだめの中に起き臥して憐れがらるるみごもりしこと




子を生さぬさだめの故にみごもれば思ひは侮辱にひとしきものを




人と生れ雀とうまれ睦み合へりそのみなもとの命をおもふ




晴ればれと窓ゆ小鳥の鳴く聞けば見たし仰ぎたし深き朝空




盲夫足をくじきて
厠へと深夜さぐりて夫を負ふこの力あり涙にじみくる



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ダイズの煮豆


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シイタケとニンジンとヤーコンは、大体、時を同じくして収穫が始まる。

しかし、ダイズが直売所に出回るのは12月に入ってからである。

だからこのダイズは去年のダイズで、白大豆、青ダイズ、白に黒の模様があるダイズの3種類を合わせて100gを昨晩から一晩水に浸しておいた。

戻し水を少し捨て、残りの戻し水とダイズを圧力鍋に入れ、シイタケ、ニンジン、ヤーコンを角切りして入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、ゴマ油を数滴入れ、強火で点火し、7分ほど煮ておもりが勢いよく回りだしたら、極弱火にして25分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。

ダイズは毎年播くが、それがダイズになるまで待たず、エダマメで食べるかニワトリの餌にする。

だからダイズは、12月に入ったら直売所で、白大豆1キロ、青ダイズ1キロの合計2キロを買い、「ダイズの煮豆」に使い、少し残し、エダマメとして6月10日頃に蒔く。



リメイクしてグラタン


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食パンを焼いて半分に切ってグラタン皿に入れ、昨日の残りのホワイトシチューをかけ、とろけるチーズ1枚を半分に切って置き、冷凍して粉々にしたバジルの葉をふり、オーブントースターで6分焼いて出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし


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緊縮派と反緊縮派


緊縮派と反緊縮派・・・この経済理論をぼくは理解できていないが、メモしておきたかった。


それは昨日の朝日新聞に、編集委員の原真人さんの「反緊縮の先 国家破産の日は突然に」の記事が出ていたからだ。





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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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