夕鳥
今日たどって逝く道も
昨日辿って来た其道の続きなんだ
かくして際限なき旅路を
辿り
永遠の彼方に消えて逝く
しばらくの現実なんだ
何処と云うあてもなく
流浪う夕鳥
無我夢中に
悲しみの声を
腹のどん底から
ふり絞る喘ぐごと
ただ
ひとくだりの
挽歌を星のない夕空に木魂させ
死の闇に呑まれ逝く
岸 曙山さんの略歴
邑久光明園に在籍。岸曙山はペンネームと見られ、詳細は不明である。1954年刊行の『光の杖』には故人とある。
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今日の毎日新聞の2面に、藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)さんが、「東日本大震災からの復興」と題して「コンクリートより人だ」という論説を書かれている。
すばらしいので、あなたにも読んでほしいと思い、書き写しました。長いので、一部を省略させて頂きましたが、全て原文のままです。
時代の風 藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)
東日本大震災からの復興 コンクリートより人だ
三陸の釜石鵜住居復興スタジアムで開催された、ラグビー・ワールドカップのフィジー対ウルグアイ戦の帰路に、この原稿を書いている・・・
東日本大震災の大津波は、試合会場となった鵜住居地区だけでも、約600人の命を奪った。だが、このスタジアムの場所にあった小中学校では、津波来襲までの40分少々の間に、児童生徒が助け合って1キロ以上離れた「恋の峠」近くまで避難し、生き延びた。いわゆる「釜石の奇跡」である。
他方で、学校近くの「防災センター」は、標高が低く津波発生時の避難所には指定されていなかったのだが、多くの住民が「安全だろう」と考えて避難し、命を失った。
現在、驚くほどの規模で三陸地方の海岸を埋め尽くしつつある防潮堤は、「恋の峠」か、それとも「防災センター」なのだろうか。数十年に1度クラスの津波が来襲した場合には、多くが想定通り機能することだろう。しかし、コンクリート建造物、なかんづく塩害にさらされる海岸の構造物は、数十年の間に腐蝕する。将来の津波来襲の前に残骸となってしまうケースも出てこようし、今世紀末あたりには、莫大な費用のかかるその更新を、断念することになるかもしれない。
他方で近々にも懸念される弊害は、養殖漁業への悪影響だ。地下深く打ちこまれた基礎部分が豊富な地下水をせき止め、山の広葉樹林が育んだ栄養分の、海への還流が滞るものと懸念される。「人命に勝るものなし」と防潮堤を設けておいて、そのことが三陸の住民の生命線である魚介養殖業に与える長期的な打撃を軽視するのは、奇異としかいいようがない。だが諫早湾の締め切り堤防を頑として開放しない国の姿勢を考えれば、その発想は令和と昭和で何も変わっていないのだろう。日本の豊かな自然は、山で育まれた栄養分が川を介して海に還流する中で育まれているのだが、そのような環境の保守を不可能にしているのが、生態学の基礎知識に背を向けた旧態依然の土建行政だ。
経済面でも日本は「防災センター」頼みだ。膨大な震災復興予算は、結局のところは日銀に国債を買わせることで捻出されている。つまりは日本の信用秩序を崩壊させる巨大なリスクの上に、地元民も疑問視する過剰な土木投資が強行されているのではないか。
だが、釜石の復興スタジアム自体は、過剰投資ではないと信じる。大会後は仮設の観客席を取り払ってよりコンパクトになり、三陸鉄道の駅に近いラグビー専用施設として、合宿や大小の大会に使われる。継続的な利用促進には不断の努力が必要だが、地元の子どもたちがラグビー文化を受け継いでいく中であれば、それは頑張って歩き続ければ着ける「恋の峠」だろう。結局は「コンクリートよりも人」が、人間社会の継続を支える基盤なのだ。
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毎日新聞9月25日(特集ワイド)
長い論説なので、前半部分を省略致しました。
戦後74年を迎えた今の日本は、昭和3年とそんなに似ているのか。内田さんは表情を引き締め、こう語る。「まるで同じです。現政権は日本を新たな『戦前』にしようと企てています。その証拠に、戦時体制の構築に向けてさまざまな下準備を進めてきました。改憲はその総仕上げ。私たちは今、戦争に向かう一歩手前、つまりルビコン川の岸辺に立っているのです」
改造内閣には安倍氏に近しい人たちが並んだ。内田さんは「最後の仕上げとの印象を受けました。この内閣の最大のテーマは憲法改正。戦前の場合、『満州事変』が戦争に向かう決定打となりましたが、現在の日本にとってはそれが『憲法改正』ということになります」。
第2次安倍政権が発足(2012年)してからの流れを振り返ってみると、国の安全保障に関する情報漏れを防ぐ特定秘密保護法(13年)制定に始まり、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定(14年)、自衛隊の海外での武力行使を可能にする安全保障関連法(15年)などが矢継ぎ早に整備された。さらに17年には、過去に3度も廃案となった共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が成立した。内田さんは「戦後、日本の在り方を揺るがす決断が毎年のように行われています。一連の法整備で、国は都合の悪い情報を国民に隠し、国民を監視することができるようになりました。これこそが『戦前回帰の企て』です。現行憲法と明らかに矛盾する決定が、戦前よりスピーディに行われているのです」と危機感をあらわにする。
「違憲訴訟」で対抗を
戦前の教訓を今生かす手立てはあるのか。内田さんは「法律が憲法に適合しているか否かを審査できる裁判所の『違憲立法審査権』を国民の『最大の武器』にすべきだ」と語る。
「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重(憲法の3原則)をないがしろにする国家の暴走が生じた時、食い止める武器となるのがこの制度です。戦前、悪法は法律の外皮をまとい、制定されました。そうした負の歴史への反省から戦後、憲法が保障したのが違憲立法審査権です。裁判所は『憲法の番人』とされながら役割を果たしていないとの批判もあります。違憲訴訟の取り組みを根気強く行い、法の問題点をあぶり出す戦いを続けていく必要があるのではないでしょうか。
この間、政府が取った手法にも「戦前との共通性がある」と内田さんは指摘する。「戦前の政府は治安維持法の制定により、大日本帝国憲法の事実上の改正をはかりました。現政府も集団的自衛権の行使を認める閣議決定や安全保障関連法などの制定によって憲法9条を骨抜きにしました。過去のあしき手法に学び、踏襲したかの印象です」
この発言を聞きながら、麻布太郎副総理兼財務相の「ナチス発言」が頭をかすめた。13年の講演での「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変った。あの手口に学んだらどうか」という発言で、国際社会の批判を受けて撤回した。だが、その後の政府の法整備を振り返ると、政府の本音だったのではないかという疑念が湧く。
では、憲法を守ることが「戦前回帰の企て」を阻止することにつながるのか。内田さんはこう語る。「今の憲法は戦前の反省に鑑みてつくられました。日本は国際社会への復帰に際し、『過ちを再び犯さない。戦争はしない』と誓いました。つまり憲法を改めることは国際社会との約束をほごにすることなのです。国内はもとより海外、とりわけ近隣諸国に与える影響は大きく、日本の信頼の失墜にもつながる大きな問題です」
憲法9条だけに注目が集まりがちだが、内田さんは「改憲の狙いはそこにとどまらない」と指摘する。「家族や民間組織を戦争遂行のための組織に変えようとしている。具体的には自助や共助が求められる日本型家族制度を復活させ、公助の概念は後退する。改憲と併せ、基本的人権を大幅に制限する緊急事態法の制定や家族法の改正への動きのほか、公教育や地方自治体の変質などが今後、強まるのではないかと懸念しています」
改憲の是非を問う国民投票が正念場になると内田さんは言う。
「どんなに主体的に選び取ろうとしても、国は虚偽の情報を流し、国民間の分断工作に出てくるでしょう。常に『これは本当ですか』と押し返していく力が国民一人一人に求められます」。そして、最後にこう熱く問いかけた。「憲法改正でこの国の戦時法制は完成してしまいます。しかし、それでよいのでしょうか。平和も人権も受け身のままでは守ることはできません。今こそ傍観をやめ、参加型民主主義を始める時ではないでしょうか」
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そよ風に想う
そよ風はどこからともなくやってくる
油壺のような島の入江をたゆらし
山の中腹の果樹園の葉なみをゆるがし
静寂と沈黙にあぐむ赤屋根にやってきて
柳 松 楓 無花果
そよ風は緑にすいた葉うらをかえす
いま入園間もなき若者が装いなく
病棟の窓辺に凭っていた
故郷からする揶揄と軽蔑
身の内の熱と癩菌
その為に若者の心魂はそこね
疫されて無感覚な膚を湿して
そよ風のまにまにおのれの想いをゆだねていた
彼がまだ少年であった頃
そよ風の拠ってくる源泉を
彼は不可思議の心で誰れ彼れなしにきいてみた
「えゝなあ」「えゝなあ・・・」と頷いて
けれども大人達は ただ
陽焼した膚をそよ風にしめすだけだった
また或酷暑の午後
彼は遊泳の黒潮につかれ
「黒いぞ」「俺の方が本焼だ・・・」と
友と膏ぎる腕をなべて見遣った
さてもその時ふいと浮ぶ小判型の白斑紋
彼は狼狽してシャツで秘密を包んだ
それから幾度暑が逝ったろう・・・
彼は決して人の前で膚を顕わさなかった
あてどもなく どこからともなく
夏の万物に渡って行く
そよ風よ
お前は孔夫子の
「周して比せず」という得を兼ねもち
そしてお前のさざめきは
ジュール・ロマンの「善意の人々」の情ある
世界意志のいぶきとも言えるであろう
かさんだ病者の膚をうるおし
悩むもの苦しむものの
心 こゝろをなごませ
宇宙の造化主の真心をそのまゝ
夏の酷暑の地表に
そよいで行く
高沢道雄さんの略歴
1931年2月1日香川県に生まれる。観音寺商業学校卒業後、天理教教会にて布教活動をしていたが発病。1954年5月5日邑久光明園に入所。「楓」に毎号投稿していた。1968年12月14日死去。
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