朧月
コトーコトー
地の底に消え
地の底から返ってくる音
私を地の底に引ずり込むように
どこまでもついてくる音
松葉杖の音
それは妻の足音だ
音はなにかにつまずいた
ふり向くと妻は黙って笑っている
その笑顔の向うを
泣き出しそうにゆがんだ朧月が
ぐんぐん遠くなって行った
あゆみ
菫の花を濡らした
悲しみの涙を
大地は吸ってしまい
苦しみに噛みしめた
松葉のにがさを
奥歯は忘れてしまった
怒りが投げた石を
海は沈めてしまって
今日だけの喜びがある
一枚残った暦を
柱はしっかりと抱いている
うつろ
壁の裏から
ベッドの下から
くら闇が這いよる
だが
どのベッドの人も動かない
鈴蘭灯がすべてのものに影を与えた
薬瓶に活けた水仙の色は宙に浮いた
だが
どのベッドの人も動かない
三月の風が窓を愛撫して過ぎた
一筋二筋 ガラス戸に雨の糸
草木の芽を呼ぶ雨かも知れない
だが
どのベッドの人も動かない
すみ・まどかさんの略歴
1917年5月23日生まれ。1941年4月9日光明園に入所。1948年頃より文筆活動を始め、浜中柑児に師事、鳥海暁風子の号で俳句を多く遺した。「ホトトギス」「雲海」に所属。昭和30年代には自治会活動にも従事した。1975年9月9日死去。
2030年 農業の旅→

密かに捧ぐ花
私は自分の耳を疑って
何度も頭を振ってみたが
その出来ごとを打消すことが
出来なかった
6月某日午前八時
三日前のことだった
散歩のついでに
学校の工作室を覗いたら
電気コテを器用に動かし
ラジオの組立に一生懸命だった
何事にも熱中する君
痩身で面長の顔に
いつも微笑を湛えていた君と
私との距離は
無限の空間に犯されてしまった
高校に進学すると張りきっていた君
秀才と噂された君
ラジオの組立てが飯より好きだった君
十七歳の君を
園内の人皆が好感と期待に見守っていた
その期待をかき分けるように
なぜ自ら彼岸に泳ぎゆかねばならなかったのか
生きることは大きな業
無限の拡がりを包蔵しているのに
大きな輝かしい未来が待っていたのに
あじさいの紫が
紅にかわって
梅雨空が
紺碧と化しても
君は遂に還ってこなかった
小さな出来ごとの犠牲になって
大きな仕事を葬ってしまった
君の霊前に
遅咲きの百合を一本
私が献じたことを
誰にも知られたくない
勿論君にも
生涯
灰色の空を
術もなく見詰めていると
今捨てて来たばかりの
生涯が
身につづれをまとい
尻切草履に身体を託して
手押車に
人の世の残滓を
こぼれる程積んで
素朴な歌を唄いながら
ただ一人過ぎていく
海の山のその彼方の
故郷に向って
2030年 農業の旅→
